漁師・すなどる

 

 

 

1.聖書より

2.記憶知

3.水から空中へ引き上げられた魚

 

 

 

 

1.聖書より

 

 

ルカ24・41−43

 

彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

 

 

 

 

2.記憶知

 

 

天界の秘義991

 

『海の凡ての魚に至るまで』。これは記憶知を意味していることは魚の意義から明白である。聖言の『魚』は感覚の事物から発生する記憶知を意味している。なぜなら記憶知には三種類のものがあり、すなわち理知的なものと、合理的なものと、感覚的なものとがあるからである。凡てこれらのものは記憶の中に、またはむしろいくたの記憶の中にうえつけられており、再生した人間の中ではそこから主により内なる人を通して呼び出されている。感覚の事物から発生している記憶知は人間が身体の中に生活している時かれに知覚され、認識されている。なぜならかれはそれらのものから考えるからである。他のものは、すなわち、内的なものは人間が身体を脱ぎ捨てて他生に入らない中はさほど認識されはしない。魚は、または水から生み出される這うものは記憶知を意味していることは前に見ることが出来よう(40番)、『くじら』はまたは『海の怪物』はこれらの知識の全般的なものを意味している(42番)。更に同じことが聖言の以下の記事から明白である。ゼパニヤ書には―

 

 わたしは人と獣を衰えさせ、天の鳥と海の魚とを衰えさせよう(1・3)。

 

ここでは『天の鳥』は理性の事柄を、『海の魚』は低い合理的な事柄を、即ち、感覚的な記憶知から発した人間の思考を意味している。

 

 

 

 

黙示録講解513ハ(11)

 

『魚』は、賢明になる手段として霊的な人に仕える自然的な人に属している知識と認知とを意味しているため、『漁師』は聖言の中では単に知識の中にいる者たちを、また自分自身のために知識を取得する者たちを、また他の者たちに教え、知識により彼らを改良する者たちを意味している。そうした者たちの業は、『網を投げ込み、拡げること』により意味されている、例えば以下の記事に。イザヤ書には―

 

漁師たちはうめき悲しむであろう、川に釣針を投げ込む者らは凡てうめき悲しむであろう、水の面に網を拡げる者らは弱り果てるであろう(イザヤ19・8)。

 

『川に釣針を投げ込む漁師と網を投げ込む者ら』は自分自身のために知識を得、知識を通して理知を得ようと願っている者たちを意味し、ここでは、何処にも真理に関わる知識が無いため、彼らはそのことを行うことが出来ないことを意味している。

 

 

 

 

3.水から空中へ引き上げられた魚

 

 

結婚愛10

他の五人もまた天界へ昇ったことについて、驚くべき事柄を語り、その生命の状態を水から空中へ引き上げられた魚の状態に、エーテルの中の鳥の状態に譬えたのである。