漁師・すなどる
イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
マルコ1・17
1.漁師
2.すなどる
3.魚
4.うろこ
5.猟人
6.狩る
1. 漁師
エレミヤ16・16
見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。その後、わたしは多くの狩人を遣わして、すべての山、すべての丘、岩の裂け目から、彼らを狩り出される。
エゼキエル47・8〜10に関し、
「網を拡げて」、「エンゲディからエンエグライムに至る漁師」は自然的な人に信仰の諸真理を教える者たちを意味している。(天界の秘義40)
マタイ13・47−50
また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。
網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。 世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。
スウェーデンボルグ/天界の秘義40
自然的な人に信仰の諸真理を教える者たち。
スウェーデンボルグ/天界の秘義3309[3]
『漁師』は感覚的な真理から教える者たちを意味しており(40、991番)、『猟人』は記憶知の真理から、また教義的な事柄から教える者たちを意味している。
黙示録講解820 [3]
この三人の使徒たちは漁師であったのであり、主は彼らに『わたしについて来なさい、わたしはあなたらを人をすなどる者としましょう』と言われたのは、『すなどること』は自然的な人に教えることを意味するためである、なぜなら当時教会の内側にも外側にも主を受け入れ、主から諸真理を受け入れたため霊的なものとなった自然的な人間がいたからである。
アレキサンドリーナ・マリア・ダ・コスタ/イエズスのご受難/P285/愛心館
1952年1月18日、この日付けでアレキサンドリーナは、その日記にこう書いた。
「私は、心のなかで、自分が何を感じているのか分かりません・・だれか漁師みたいな人がいて、たくさんのあみを作っているのを感じます。それは、無数の人をすなどるためです。その人があみを投げたような感じがします。私が自分の心から、あみをとり出しても、とり出しても、投げねばならないあみは、それ以上に残っているのです。私の心は、投げあみが獲物でいっぱいになるようにと無限といっていいほどに、気をつかっています。ああ、なんとたいへんな仕事、たえがたい疲れでしょう!」と。
マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々・1・P313/あかし書房
イエズス:「老ヨハネ(マリア・ワルトルタのそばにいた神父様のこと)に、たくさんの平和と豊漁とを与えると伝えなさい。あなたには漁がない。私が与える糸で網を作るという女性的な業だけをあなたに与える。働きなさい、働きなさい・・・他のことができないという考えを捨てなさい。この仕事にはすべてがある。
そしてまた“あなたに平和”と言いに来ないからと言って気にするな。人にあいさつをするのは、到着したときと出発するときであって、いつも一緒にいるときにはしない。一緒にいることは、もはや平和である。そして、あなたは私の客ではない。あなたはすっかり私の腕の中にいて、片時もあなたから離れたりしない。この世にいたときの私について、言いたいことがたくさんある!
しかし、きょうはあなたを喜ばせたいので“あなたに平和”と言おう。」
2.すなどる
マタイ13・47−49
また天国は海におろして、各様のものを集むる網のごとし。充つれば岸にひきあげ、坐して良きものを器に入れ、悪しきものを棄つるなり。世の終りにも斯くあるべし、御使い等いでて、義人の中より、悪人を分かちて、之を火の炉に投げ入るべし、其処にて哀哭・切歯(なげきはがみ)することあらん。
天界の秘義10582
教会の外なる事柄を教えること。
黙示録講解513ハ
『あなたらは人間を漁る者とならなくてはならない』と言われたことは、かれらは教会へ集めなくてはならないことを意味し、『彼らが網を投げ込んで、その中に非常におびただしい魚が入っており、そのため舟は沈みそうになった』は、教会が彼らを通して改良されることを意味したのである、なぜならここの『魚』は改良が遂行される手段となる真理と善とにかかわる知識を意味し、同じく改良されなくてはならないおびただしい人を意味するからである。
3.魚
マタイ13・47−50
また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。
黙示録講解342ロ
「魚」は自然的な人の最低のものである、感覚的な知識を意味しており、従ってそうした人物が、すなわち、そうした知識の中にいる人物が意味されている。
「鯨」も同じことを意味している。そうした理由のため、エジプトもまた「鯨」と呼ばれている。(エゼキエル29・3)
なぜなら「エジプト」は自然的な人における知る能力を、「鯨」は全般的に知ることを意味するからである。
黙示録講解513ハ
『火の上の魚』は善から発した真理の知識を、『魚』は真理の知識を、『火』は善を意味
3.うろこ
天界の秘義6693
外なるもの、感覚的なもの。
4.猟人
天界の秘義3309
記憶知の真理から、また教義的な事柄から教える者たち。
反義:誤謬の情愛から説きつけること。(1178)
5.狩る
天界の秘義10582
教会の内なる事柄を教えること。
天界の秘義1178
「かれはエホバの前に狩ることに力があった。」これはかれが多くの者を説きつけたことを意味していることは、仁慈から分離した信仰はそのようなものであることから、また聖言の『狩ること』の意義からも明白である。仁慈から分離した信仰は人間が容易に説きつけられるような性質を持っている。人類の大部分は内なるものとは何であるかを知っていないで、ただ外なるものを知っているに過ぎないのであり、大半の人間は感覚と快楽と欲念の事柄との中にとどまっていて、自分自身と世とを顧慮しており、それ故このような宗教に容易に捕らわれるのである。聖言の『狩ること』の意義から明らかであるのは、『狩ること』は、全般的に言って、説きつけることを意味しており、特に、人間の心をその感覚的な性向と快楽と欲念に媚びることにより捕え、教義を用い、それを彼らが彼らの気質や他の者の気質に順応しつつ彼ら自身の好むままに、また彼ら自身を高揚させ、豊かにもしようという目的から説明することにより―かくて説きつけることにより捕えることを意味しているためである。
[2]たとえばエゼキエル書にこのことが明白にされているのである―
わたしの手の関節のことごとくに座ぶとんをぬいつけ、凡ゆる背丈の頭の上にベールを作って魂を狩る者には禍いあれ。おまえらはわたしの民のために魂を狩り、おまえら自身のために魂を生かしておくのか。おまえらはひとにぎりの大麦のため、またいく片かのパンのためにわたしの民の間でわたしを冒涜し、虚言に耳を傾けるわたしの民に虚言を述べて、魂を飛ばせるために用いるおまえらの座ぶとんに立ちむかって、それをおまえらの腕から引きちぎり、その魂を行かせよう、おまえらが狩って、飛ばせている魂を行かせよう、わたしはまたおまえらのベールも引きちぎって、わたしの民をおまえらの手から解き放とう、かれらはかさねておまえらの手に陥って狩られはしないであろう(13・18)
『狩ること』の意義がここに説明されている、すなわち、それは説得することにより捕えることであり、またかれらがかれら自身のために、また他の者の気質に迎合して歪曲して、解釈するいくたの知識により捕えることであることが説明されている。
[3]ミカ書には―
慈悲のある人間は地から滅んでしまった、人間の中には正しい者は一人もいない、かれらは凡て待ち伏せて血を求めている、彼ら各々はその兄弟を網をもって狩り、手で善を為さないで悪を為している、君は報酬を求めて、そのために審判き、大いなる人間はその魂の邪しまなことを口にし、彼らはそれを歪めている(7・2、3)。
ここにも同じく『狩ること』により意味されていることが説明されており、すなわち、それは自己のために待ち伏せしていることであり、または誤ったものを真と呼び、邪しまなことを語り、歪め、かくして説きつけることである。ダビデの書には―
舌[言葉]の人間は地には確く立てられはしないであろう、悪は暴力をふるう人間を狩って、これをくつがえすであろう(詩篇140・11)。
これは誤謬により説きつけ、欺こうとして悪いことを考え、しかも優しげに語る邪悪な者について言われており、ここの『舌[言葉]』は虚偽を意味している。
6.聖書より
ヨハネ21・3−6
シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまりに多くて、もはや網を引き上げることができなかった。
天界の秘義10061
このことにより善から行動し、教えることは真理に属した無数の事柄を結論づけることであるが、その逆は行われないことが表象されたのである。
黙示録講解513ハ(11)
『魚』は、賢明になる手段として霊的な人に仕える自然的な人に属している知識と認知とを意味しているため、『漁師』は聖言の中では単に知識の中にいる者たちを、また自分自身のために知識を取得する者たちを、また他の者たちに教え、知識により彼らを改良する者たちを意味している。そうした者たちの業は、『網を投げ込み、拡げること』により意味されている、例えば以下の記事に。イザヤ書には―
漁師たちはうめき悲しむであろう、川に釣針を投げ込む者らは凡てうめき悲しむであろう、水の面に網を拡げる者らは弱り果てるであろう(イザヤ19・8)。
『川に釣針を投げ込む漁師と網を投げ込む者ら』は自分自身のために知識を得、知識を通して理知を得ようと願っている者たちを意味し、ここでは、何処にも真理に関わる知識が無いため、彼らはそのことを行うことが出来ないことを意味している。
黙示録講解513ハ(12)
エレミア記には―
わたしはイスラエルの子孫をその地に再び連れ戻そう、わたしは彼らに教える多くの漁師に使いを遣わそう、その時わたしは多くの狩人に使いを遣わそう、彼らは凡ゆる山の上から、凡ゆる岡の上から、崖の裂け目から彼らを狩り出すであろう(エレミア16・15、16)。
『彼を漁る漁師に、彼らを狩る狩人に使いを送ること』は、前に見ることが出来るように、自然的な善の中に、また霊的な善の中にいる者たちを呼び集めて、その者たちのもとに教会を設立することを意味している。
黙示録講解600イ(7)
ヨハネ伝には―
イエスは漁をしていたその弟子たちに言われた、網を船の右側に投げなさい、そのときは見出すでしょう、と。それで彼らは投げた、彼らは網を魚がおびただしいために引くことが出来なかった(21・6)。
「漁をすること」は聖言においては、外なる、または自然的な善の中にいる人間に教え、回心させることを意味しているからには―そうした善の中に当時大半の異教徒はいたのであるが―「魚」は自然的な人の幾多の物を意味し、「船」は聖言から発する教義を意味しており、それで「船の右側」は生命の善を意味している。このことは主が言われたことの意義を、「船の右側に網を投げなさい」の意義を明らかにしている、即ち、彼らは生命の善を教えなくてはならない、を意味しているのである。
彼らはかくて異教徒を教会へ回心させるであろうことが「彼らはその網をおびただしい魚のために引くことも出来なかった」ほどにも多くの者を見出したことにより意味されている。たれでも「右側」が意義を持っていなかった限り主は彼らに「船の右側に網を投げるように」命じられはしなかったことを認めることが出来よう。
スウェーデンボルグ/結婚愛316
同じくまた主はその弟子達に
あみを船の右側に投げなさい。で、かれらはそのようにしたところ、夥しい魚を得た(ヨハネ21・6,7)
と、言われましたが、そのことによって主はかれらが仁慈の善を教え、かくして人々を集めることを意味されたのです。