霊との交流
被術者/
1.その人間のもとに悪霊がいると同時に天使もそのもとにいる
2.人間に接合している、その二人の霊は彼を地獄と交流させ、二人の天使は彼を天界と交流させる
3.全般的に人間のもとにはその人間その者に似た性質の霊がいる
4.一種類の霊は単に霊と呼ばれて、理解に属しているものに働きかけ、他の種類の霊は魔鬼と呼ばれて意志に属しているものに働きかけている
5.何事かを熱烈に愛しはじめるや否や、そうした愛の中にいる霊たちがその場に現れ
6.聖言から発する真理とこれに従う生活によって確認された善い諸情は、天界から天使を惹き寄せ、虚偽と悪しき生活によって確認された悪い諸情は地獄から霊を惹き寄せる
7.最早天使たちとのこうした連結は無く、ただ天界にいない霊との連結のみがある
8.霊たちの世界の凡ての霊は人間に接合している
1.その人間のもとに悪霊がいると同時に天使もそのもとにいる
天界の秘義50
[一]最古代教会は主の像[映像]により、筆舌で表現することのできない事柄を理解したのである。人間は天使と霊とを通して主によって支配されており、人間各々のもとには少なくとも二人の霊と二人の天使とがいることを人間は全く知っていない。霊により人間は霊たちの世界に連なり[交流しており]、天使により天界に連なっている。霊により霊達の世界に連なり、天使により天界に連なり、かくて天界を通して主に連なっていない限り、人間は全く生きることができないのである。すなわち人間の生命はこの連結に依存しており、もし霊と天使とが仮にも人間のもとから去ってしまうならば、人間は立ち所に死滅してしまうのである。
[二]人間は再生していない時は、再生している時とは全く異なった方法を以って支配されている。再生しない間は悪い霊がかれと共にいて、かれを支配しているため、天使たちは、その場にいるものの、かれが最低の悪に陥らないように単にかれを導いて、何かの善へ彼を向けさせてやること位しかできないのであり、―事実かれをかれ自身の欲念により善に向けさせ、感覚の迷妄により真理へ向けさせてやること位しかできないのである。かくてかれはかれと共にいる霊を通して霊達の世界と連なっているが、天界とはさほど連なってはいないが、それは悪霊がかれを支配しており、天使達は単にその支配を外らせているに過ぎないためである。
[三]然しその人間が再生すると、天使たちが支配し、凡ゆる善と凡ゆる真理をかれに吹き込み、また悪と誤謬に対する恐怖と畏怖の念とを吹き込むのである。実際天使達が導いているのは事実であるが、しかしそれは単に仕える者として導いているのである。なぜなら天使と霊とを通して人間を支配する者は主のみであられるからである。このことは天使たちが仕えることを通して行なわれるため、ここに初めて複数形で「わたしたちの像に従って人を作ろう」と言われているが、しかも主のみが支配し、処理されるため、次の節には、単数で、「神は神御自身の像をもって人を創造られた」と言われているのである。このことを主も亦イザヤ書に明白に宣べられている―
「あなたの贖い主、あなたを胎内から形作られた方、エホバはこのように言われる、わたしが、エホバがよろづの物を作り、ただわたしのみで天をのべ、わたし独りで地をひろげる、と」(イザヤ44・24)。
天使たち自身、更に自分たちの中には力は全く無く、ただ自分たちは主のみから行動していると告白しているのである。
天界の秘義2354〔3〕
(幾度も前に述べたように)人間の実相はその人間のもとに悪霊がいると同時に天使もそのもとにいるということである。悪霊を通して彼は地獄と交流しており、天使を通して天界と交流しているのである(687、697番)。それでその者の生命〔生活〕が悪いものに接近するに比例して、益々地獄が流れ入ってくるが、その生命が善いものに接近するに比例して、益々天界が流れ入り、それで主が流れ入って来られるのである。このことから、悪の生命の中にいる者らは主を承認することは出来ないで、主に反抗した無数のものを自分自身で形作るが、それは地獄の幾多の幻想が流れ入って来て、その者らにより受け入れられるためである。しかし善い生命〔生活〕の中にいる者たちは主を承認するが、それは愛と仁慈がその中では主要なものとなっている天界が流れ入って来るためであり、また天界は主のものであって、主から愛と仁慈の凡ゆるものが発生して来るためである(537、540、547、548、551、553、685、2130番を参照)。
人各々のもとには少なくとも二人の悪霊と二人の天使がいる
天界の秘義697
人各々のもとには少なくとも二人の悪霊と二人の天使が居る。悪霊を通してその人間は地獄と交流し、天使を通して、天界と交流している。人間はその両方の者と交流していないなら、一瞬も生きることはできない。かくて人間は各々そのことに気づいてはいないが、何処からの奈落の者の社会の中にいるのである。しかし彼は永遠の生命に対する準備の状態にいるため、彼らの拷問は彼には伝えられていない。人間がその中にいた社会が他生で時折彼に示される、なぜなら彼はそこへ帰り、かくて彼が世で送っていた生活に帰り、そこから地獄へ向うか、または天界へ挙げられるか、するからである。かくて仁慈の善に生きないで、自らが主により導かれることを許さない人間は奈落の輩の一人となり、死後また悪魔になるのである。
2.人間に接合している、その二人の霊は彼を地獄と交流させ、二人の天使は彼を天界と交流させる
天界の秘義1399
霊は各々たとえ彼はそのことを全く知ってはいないものの、内的な天界と最も内なる天界と交流しており、そうした交流[伝達]が無いなら、彼は生きることが出来ないのである。彼は内的にはいかようなものであるかは、彼の内部にいる天使たちにより知られており、また彼はこれらの天使たちを手段として[これらの天使たちを通して]主により支配されているのである。かくて霊達の世界に彼の外部の交流[伝達]があるように、天界には彼の内部の交流[伝達]がある。内的な交流[伝達]により彼は彼の知識を越えて用を求める性向を与えられ、その用へ導かれる。人間の場合も同一であり、彼も同様に―彼はそのことを全く知らなけれど―なぜならもしそうでないならば、かれは生きることができないからである。そこから人間の思考の中へ流れ入ってくる事柄は究極の結果に過ぎないのであって、人間の生命はことごとくこの源泉から発しており、その源泉から彼の生命の凡ての努力は支配されているのである
天界の秘義5849
人間に接合している、その二人の霊は彼を地獄と交流させ、二人の天使は彼を天界と交流させるのである。
3.全般的に人間のもとにはその人間その者に似た性質の霊がいる
天界の秘義5851
同じ霊が絶えず人間のもとに止まっているわけではなく、その人間の状態に従って、すなわち、その情愛の状態に従って、またはその愛と目的の状態に従って変化し、前の者が退くと、他の者がその後を「つぐ」のである。全般的に人間のもとにはその人間その者に似た性質の霊がいるのである。もし人間が貪欲であるなら、貪欲な霊がおり、もし傲慢であるなら、傲慢な霊がおり、もし復讐を求めるなら、そうした性格の霊がおり、もし詐欺を働く人間であるなら、同じような霊がいるのである。人間がその生命に応じて地獄から霊を己がもとへ呼び寄せるのである。地獄は欲念の悪に従って、悪の凡ゆる変化に従って極めて正確に区別されている。かくて悪の中にいる人間のもとへ招きよせられて、接合されるところの、その人間自身に似た霊は決して不足はしないのである。
4.一種類の霊は単に霊と呼ばれて、理解に属しているものに働きかけ、他の種類の霊は魔鬼と呼ばれて意志に属しているものに働きかけている
天界の秘義5977
二人いるのは地獄には二種類の霊と天界にも二種類の天使がいて、これに人間の二つの能力が、すなわち、意志と理解とが相応しているためである。一種類の霊は単に霊と呼ばれて、理解に属しているものに働きかけている。他の種類の霊は魔鬼と呼ばれて意志に属しているものに働きかけている。その二種類の者はまた互に他からは極めて明確に区別されている。単に霊と呼ばれている者は誤謬を注ぎ入れている。なぜなら彼らは真理に反したことを論じ、真のものを誤ったものとして見せ、誤ったものを真のものとして見せることが出来る時、その生命の歓喜の中にいるからである。しかし魔鬼と呼ばれている者らは悪を注ぎ入れ、人間の情愛と欲念とに働きかけ、人間の欲するものを一瞬にして嗅ぎ付けるのである。もしそれが善いものであるなら、それを極めて狡猾に歪めて悪に変え、かくて善を悪として、悪を善として認めさせることが出来る時、その生命の歓喜の中にいるのである。(中略)
魔鬼は人間の考えることには何の関心も持たないで、ただその人間の愛しているものにのみ関心を持っているが、これに反し霊は人間の愛するものには何の関心も持たないで、その考えているものに関心を持っているのである。魔鬼は沈黙していることにその歓喜を得ているが、霊は話すことにその歓喜を得ている。両者はまた互に他から全く分離している。魔鬼は地獄の深い下の後方にいて、そこでは霊には見えず、たれかがそこを覗き込むと、彼らは飛び去って行く蔭のように見える。しかし霊は地獄の側面の前方にいる。それでこれが人間のもとに地獄から二人の霊が来ている理由である。
天界の秘義5978
人間の意志に属しているものに働きかける者は天的なものと呼ばれ、その理解に属しているものに働きかける者は霊的なものと呼ばれている。
5.何事かを熱烈に愛しはじめるや否や、そうした愛の中にいる霊たちがその場に現れ
天界の秘義6196
霊たちは人間とはその人間の愛に従って共になることは、種々な経験により私に明かされたのである、なぜなら私は何事かを熱烈に愛しはじめるや否や、そうした愛の中にいる霊たちがその場に現れ、その愛が止むまでは遠ざかりはしなかったからである。
6.聖言から発する真理とこれに従う生活によって確認された善い諸情は、天界から天使を惹き寄せ、虚偽と悪しき生活によって確認された悪い諸情は地獄から霊を惹き寄せる
真の基督教380
不義なる似非信仰は主を神として認めず、単に人間として認める者たちによって抱かれている。これは二つの邪悪な異端アリウス派およびソツイヌス主義によって極めて明瞭である。彼らは主の神性を否定し、他の途より攀じ登る故、基督教教会から呪詛され、追放されたのである。しかし、私はその憎むべきものが現今教会の多くの会員たちの思考の中に潜んでいることを恐れている。人が自らを学問と判断力とにおいて他に勝っていると考えるに従い、主は人間であって神ではないとの考えをとらえ、これを採用し勝ちになることは注意すべきことである。しかしかかる考えを採用する者は凡て、霊界では地獄にあるアリウス派およびソツヌス派との交わりに入って行く。これらの考えは現今では普通の考えであるのは、各人間にこれに付き添っている霊が在るからであり、もしそうでなければ、人は分析的に、合理的に、霊的に考えることが不可能となり、人間ではなく、獣となり、しかし、人間はすべて己が意志の情とそこから生まれる思考に類似した霊を自らに惹き寄せるからである。聖言から発する真理とこれに従う生活によって確認された善い諸情は、天界から天使を惹き寄せ、虚偽と悪しき生活によって確認された悪い諸情は地獄から霊を惹き寄せる。かくして悪い人間は益々悪魔との交わりに入り、それ故聖言の真理に抗う虚偽を、主に抗うアリウスの、またソツヌスの憎むべきものを益々確認するのである。これは如何なるサタンも聖言から真理を聞くに堪えず、実にイエスの御名をすら聞くに堪え得ないからである。もし、これを聞くならば、彼らは狂暴になり、彼方此方と駈け廻って、涜言を吐き散らし、そのとき、もし、天界から光が射し入るならば、彼らは暗い洞穴に飛び込み、そこで地下室で鼠を狩り立てる猫、あるいは梟の光によって見るのである。かくのごときが情と智とをもって主の神性と聖言の聖さとを否定するすべての者たちの死後の運命である。またこれが彼らの外なる人が如何に偽善を行い、基督教徒らしく佯り装うとも、その内なる人の状態である。私はこれを見、かつ聞いている故、それが真理であることを知っている。
7.最早天使たちとのこうした連結は無く、ただ天界にいない霊との連結のみがある
しかし現在の人間の状態は異なっていて、そのため最早天使たちとのこうした連結は無く、ただ天界にいない霊との連結のみがある、と。
天界と地獄247
天使たちと霊たちとは人間の物は一切自分たちのものであるとしか考えないほどにも密接に自分自身をその人間に連結させている他の理由は、人間のもとに霊界と自然界とは恰も一つのものであるかのように連結しているが、人間は天界から自分自身を引き離してしまったため、各々の者のもとに天使と霊とがいて、人間は彼らを通して主により支配されるように主に定められたということであり、そうした理由からそのように密接な連結があるのである。もし人間が[天界から]自分自身を引き離さなかったなら、事態は異なっていたであろう、なぜならそのときは彼は主により天界から注がれる全般的な流入により支配されて、霊と天使も彼に接合することはなかったであろう。しかしこの主題は以下に特に、天界の人間との連結を取扱うとき述べよう。
神の愛と知恵140
霊とは何であるか、天使とは何であるかを先ず説明しよう。人間は凡て死後先ず天界と地獄の中間に在る霊たちの世界に入り、そこに己が時を、即ち己が状態を経過し、己が生命に応じて、天界か地獄か、その何れかに向かって準備する。人間はその世界に止まる限り霊と呼ばれている。その世界から天界に挙げられた者は天使と呼ばれるが、しかし地獄に投げ込まれた者は悪鬼かまたは悪魔と呼ばれている。これらの者が霊たちの世界に止まる限り、天界に向って準備をしている者は天使的霊と呼ばれ、地獄に向って準備をしている者は奈落的な霊と呼ばれ、その間天使的霊は天界と連結し、奈落的な霊は地獄に連結している。霊たちの世界の凡ての霊は人間に接合している。なぜなら人間は、その心の内部の方面では、同じく天界と地獄との中間におり、これらの霊を通して、己が生活に応じ、天界かまたは地獄かその何れかと連絡(コミュニケイト)しているからである。霊たちの世界と霊界とは異なっており、霊たちの世界は今語ったところであるが、しかし霊界はその世界と天界と地獄とを含んでいることに注意しなくてはならない。