盗む

 

 

天界の秘義4174

 

人間が善を自分自身に帰し、それが自分自身から発していると考え、そうした理由から救いに価しようとのぞむ時自己功績の悪が存在するのである。この悪が『盗み』によりその内意に意味されるものである。しかしこの悪については、改良されつつある者はすべて、善は自分自身から発し、それで自分が行う善により自分は救いに価していると最初考えるのである、なぜならかれらがその為す善により救いに価していると考えることは、かれらが善はかれら自身から発していると考える結果であるからである、なぜならその一方の考えは他の一方の考えに密着しているからである。しかし自らが再生することに甘んじる者はそのことをかれらの思いの中に確認はしないし、またはそれが然うであると自分自身に説きつけはしないのであり、その考えは徐々に消滅してしまうのである。なぜなら凡ての者はその改良の始めにおいてはそうであるように、たれでも外なる人の中にいる限り、専ら外なる人からのみ考えるため、そのように考えないわけにはいかないからである。しかし外なる人がそのいくたの欲念とともに遠ざけられつつあって、内なる人が働き始めつつあるときは、すなわち、主が理知の光をもって内なる人を通して流れ入られ、それによって外なる人を明るくされると、そのときはその人間はそれとは異なったことを信じはじめて、善を自分自身ではなく、主に帰するのである。このことから過失によらない悪を通して善が発生するように―そのことについては前を参照されたい―善が発生してくる手段となっているところのかの自己功績の悪によりここに意味されていることが明らかである。しかしもしかれが成人期にたっした時にも、自分は自分の為す善により救いに価していることを、その思いの中に確認して、そのことを全く自分自身に説きつけるなら、問題の悪は根本的に密着して、矯正されることはできないのである。なぜならこのような人間は主のものであるものを自分自身に要求し、かくて主から絶えず流れ入っている善を受け入れはしないで、それが流れ入ると直ぐさま、それを自分自身へ、自分自身のものの中に外らしてしまい、従ってそれを汚してしまうからである。これらが『盗み』によりその本来の意義において意味されている悪である(2609番を参照)。

 

 

 

 

 

 

天界の秘義5758

 

「どうしてわたしたちがあなたの主人の家から銀または金を盗み出しましょうか」。これは、それでなぜわたしたちは神的な天的なものから発している真理と善とをわたしたち自身に要求しましょうか、を意味していることは以下から明白である、すなわち、『盗むこと』の意義は霊的な意義では主にぞくしているものを自己に要求することであり(そのことについては前の5749番を参照)、『銀』の意義は真理であり(1551、2954、5658、番)、『金』の意義は善である(113、1551、1552、5658番)。本章全体には主から発している善と真理とを自己に要求するという霊的な窃盗罪がとり扱われているのである。これは、人間が死後、善または真理は一つとして自分自身からは発しておらず、凡ては主から発しており、自分自身から発しているものは凡て悪意外の何ものでもないことを心から承認しない中は天界に入れられることはできないほどにも非常に重要なことである。それがそうであるという事実は人間に死後多くの経験により示されるのである。天界の天使たちは、善と真理とはすべて、主から発していることを明らかに認めており、さらに主によってかれらが悪から遠ざけられて、善の中に留めおかれ、かくて、真理の中に留めおかれ、しかもそれが強大な力によって行われていることを認めているのである。

 

 

天界の秘義5758[2]

 

 わたしはこのことを今や多年にわたって明らかに認めることを許されており、またわたしがわたし自身のものに、またはわたし自身に委ねられるに応じて、悪の洪水にひたされ、主によりそこから遠ざけられるに応じて、悪から善へ引き上げられたことを認めることを許されたのである。それで真理と善とを自己に要求することは、救いは凡て慈悲によっており、すなわち、人間はそれ自身では地獄にいるが、しかし慈悲によりそこから主により引き出されるということを承認することに反しているのみでなく、天界を支配している普遍的なものにも反しているのである。人間は、自分自身からは悪意外には何ものも発しないし、善は凡て主から発していることを承認しないかぎり、自分を卑下することはできないのであり、従ってまた主の慈悲を受けることもできないのである(なぜなら主の慈悲は卑下の中にのみ、またはへりくだった心の中にのみ流れ入るからである)。そのことを承認しないなら、人間はその為すことを凡て功績として、ついには義として自分自身に帰するのである、なぜなら主から発している真理と善とを自分自身に要求することは自分自身を義とすることであるからである。これが多くの悪の源泉である、なぜならかれはそのときはその隣人のために為す凡ゆる事柄の中に自己を求め、自己を求めるときは、他の凡ての者にもまさって自分自身を愛し、かくて他の凡ての者を、言葉ではなくとも、心では軽蔑するからである。

 

 

 

天界の秘義6203

 

 こうした悪は徹底した窃盗の場合に似ており、それが二、三度確乎として意図から行われると、そこから遠ざかることは出来ないものとなるのである、なぜならそれはその人間の思いに絶えずまつわりつくからである。

 

誘惑/参照