飲む

渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。(イザヤ55・1)

サマリアの女(ヨハネ4・7)/

 

イザヤ55・1

 

渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。

銀を持たない者も来るがよい。

穀物を求めて食べよ。

来て、銀を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。

      

 

ヨハネ4・13−14

 

イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

 

 

天界の秘義2704

 

「その子供に飲ませた」。これは霊的な諸真理を教えることであり、『子供』の意義は真理の方面の霊的なものである(2697番参照)。この節に取り扱われているところの、教えられる状態であるこの状態は、剥奪されまた荒れすさんだ状態から出て来つつある者たちの第三の状態である。なぜなら彼らは(前の18節にとり扱われているところの、2699番を参照)明るくされる状態または天界の光の状態の中へ入ってくると、その時彼らは諸真理を知り、また学ぼうとする情愛の中におり、彼らがこの情愛の中にいる時は、容易にまた謂わば自発的に諸真理に浸透するからであり、すなわち地上にいる者たちは主の聖言からまたは教義から諸真理に浸透し、天界にいる者たちは天使たちからそれに浸透するのであって、天使たちは新たに霊界に来た兄弟たちに天界の秩序に属している諸真理と諸善とを教えて、それらを彼らに浸透させかくして彼らを主に導くことに勝っていかようなことをも祝福された、幸福なこととは認めていないのである。

 

 

 

 

天界の秘義7320

 

「エジプト人はその川から水を飲むのに苦しむであろう」。これは、彼らはそれについては殆ど何事も知ろうとは欲しないであろう、を意味していることは以下から明白である、即ち、『エジプト人』の意義は真理を誤謬化する者らであり、『飲むこと』の意義は真理を教えられることであり(3069、3772、4017、4018番を参照)、ここから『飲むのに苦しむ』は教えられようとは欲しないことであり、かくて殆ど何事も知ろうとは欲しないことであり、即ち、真理について何事も知ろうとは欲しないことであり、『その川の水』の意義は誤謬であり(それについては前の7307番を参照)、ここでは誤謬化された真理である。この凡てから、『エジプト人はその川から水を飲むのに苦しむこと』により、妄想から誤謬の中にいる者らは真理については殆ど何事も知ろうとはしないことが意味され、かくて彼らはそれに対し嫌悪を抱くことが意味されていることが明白である。その嫌悪の原因は、真理は誤謬によって歪められた時も依然秘かに、また黙しつつも、戦っており、誤謬を払い落そうと努めており、そこから不安を与えるということである、なぜならもしその誤謬が、彼らの信仰と共に、少しでも遠ざけられるなら、真理は彼らを断罪するからである。

 

 

天界の秘義7343

 

『飲むこと』の意義は誤謬に適用することである。『飲むこと』が、適用することを意味していることについては、5709番を参照されたい。なぜなら飲む者は自分自身に適用するからである、しかしその適用することは自分自身に適用する者の性質と状態とに従って為されることを知られたい。真理の情愛〔真理に対する情愛〕の中にいる者はその情愛の状態と性質とに従って真理を自分自身に適用し、誤謬の情愛〔誤謬に対する情愛〕の中にいる者は、真理を自分自身に適用するときは、それを歪め、誤謬化するのであるが、そのことは以下の事実から認めることが出来よう、すなわち、神的な真理は凡ての者のもとへ流れ入っているが、各々の者のもとでその者の生命の状態と性質とに応じて変化しており、そこから奈落の者らはそれを誤謬に変えており、そのことは丁度彼らが神的な善を悪に、天界的な愛を悪魔的な愛に、慈悲を憎悪と残酷に、結婚愛を姦淫に変え、かくてその反対のものに変えているのと全く同じであるが、それは彼らの生命の性質と状態とは相反したものであるからである。従って『エジプト人は凡て川の周囲を掘った』により、彼らが誤謬に適用することが出来る真理を徹底的に探求したことが意味されているのである。

 

 

 

天界の秘義9412

 

「食べ、また飲んだ。」これは礼拝の善と真理とについて教えられることを意味していることは以下から明白である、即ち、『食べること』の意義は善の連結と所有〔善により連結し、善を己がものとすること〕であり(2187,2343、3168、3513、3596、3832、4745、5643番を参照)、『飲むこと』の意義が真理の連結と所有〔真理により連結し、真理を己がものとすること〕である(3089、3168、4017、4018、5709、8562番を参照)。それはまた教えられることを意味していることは、即ち、『食べること』は善について教えられることを、『飲むこと』は真理について教えられることを意味していることは、霊的な食物は智恵が発生する源泉である凡ゆる信仰の善であり、霊的な飲物は理知が発生する源泉である凡ゆる信仰の真理であるためである(56−58、681、1480、3069、3114、3168、3772、4792、5147、5293、5349、5342、5410、5426、5487、5576、5579、5582、5588、5655、5915、8562、9003番を参照)。ここから古代人の間には宴会、祝宴、饗宴、晩餐が設けられたが、それは彼らが知恵と理知の事柄を手段として共に交わるためであったのである(3596、3832、5161、7836、7996、7997番を参照)。