サマリアの女

 

証し

渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。(イザヤ55・1)

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.サンダー・シング

4.ヴァッスーラ

 

 

 

 

1.聖書

 

 

ヨハネ4・13−14

 

イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

 

 

 

ヨハネ4・21−26

 

イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」

女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」

イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

 

 

ヨハネ4・41−42

 

そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義2702[]

 

モーセの書には―

 

 イスラエルはヤコブの泉のほとりに独り安らかに、穀物と新しいぶどうの地に住んだ、まことに、かれの天は露をしたたらす(申命記33・28)。

 

『ヤコブの泉』は聖言とそこから発している真理の教義を意味している。『ヤコブの泉』は聖言とそこから発している真理の教義を意味しているため、主はヤコブの泉のほとりへ来られたとき、ヨハネ伝に記されているように、主はサマリアの女と話され、主は『泉』と『水』により意味されていることを教えられたのである―

 

 イエスはスカルと呼ばれるサマリアの町に来られた、ヤコブの泉がそこにあった、それでイエスは旅に疲れ、かくてその泉のほとりに坐られた。そこにサマリアの女が水を汲むために来る。イエスは彼女に言われる、わたしに水を飲ませてください。イエスは言われた、もしあなたが神の賜物を知っており、またあなたにむかってわたしに飲ませてくださいと言う者がたれであるかを知っているならば、あなたはその者に、その者があなたに生きた水を与えるようにと求めることでしょう。この水を飲む者は再び渇くでしょう、しかしたれでもわたしがその者に与える水を飲む者は決して渇きはしない、わたしがその者に与える水はその者の中に水の泉となって、湧き出でて永遠の生命にいたるでしょう(ヨハネ4・5、6、7、10、13、14)。

 

(聖言にしばしば見られるように)『ヤコブの泉』は聖言を、『水』は真理を、『サマリア』は霊的な教会を意味したため、主はサマリアの女と話されて、真理の教義は主から発していることを教えられ、またそれが主から、または主と同一のものであるところの、主の聖言から発している時、それは湧き出でて永遠の生命となる水の泉であり、真理そのものが生きた水であることを教えられたのである。

 

 

 

 

天界の秘義3424

 

聖言は生きており、それで生命を与えるのは、その最高の意義では主が取り扱われており、その最も内なる意義では、主がその中では凡てのものであられる主の王国が取り扱われており、実情はそうしたものであるため、聖言の中には生命そのものが存在していて、それが聖言を尊崇の念をもって読む者たちの心の中に流れ入るためであり、そこから主は御自身から発している聖言の方面では御自身を『湧き出て永遠の生命にいたる水の泉』であると宣言されるのである(2702番をまた参照)。

 

 

 

 

黙示録講解483(ロ)

 

主はヤコブの泉の傍に坐られたとき、サマリアの女にこうした事柄を言われたのは、『サマリア人』により主は主から神的真理を受けるに違いない異邦人[異教徒]を意味され、『サマリアの女』により、そうした者たちから構成される教会を意味された為である。『ヤコブの泉』により主御自身から発している神的真理、すなわち、聖言が意味されているのである。

 

 

 

 

黙示録講解537(イ)

 

 主はその井戸のほとりでそのサマリアの女と話しされたのは、『サマリアの女』は異邦人のもとに建設されることになっている教会を意味し、他の記事にまた言われている『サマリア人』は主から発し、また主にかかわる教義を受け入れることになっていた異邦人を意味したためである。この『井戸』は聖言から発した教義を意味し、『水』は教義の真理を、『井戸のほとりに坐られる主』は聖言を、または神的真理を意味している。救いは聖言から発する神的真理を手段として主から発することは『主が与えられる水は涌き出て永遠の生命となる水の泉となるにちがいない』により意味されている。

 

 

 

 

3.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P360

 

 主が胸の中に宿るときに、胸は内に燃え上がります。聖霊の炎を、この世の水によっては打ち消すことができません。主を見出した人は、黙してはいられず、イエス・キリストについて話し始めるに違いありません。黙っていることは不可能です。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P367

 

霊的な恩恵を受けている人々は、福音を伝える宣教師を送り出すことに熱心です。それは、主を見れば、人は黙してはいられなくなり、出て行って主を証しするからです。その証は、サマリアの女に対する村人の言葉と同じです。「今や、わたしたちはあなたの話によって信じているのではありません。主をこの目で見たからです」

 

 

 

 

 

4.ヴァッスーラ

 

 

第二の聖霊降臨とは

(ランプのあぶら1・『花むこから花嫁への呼びかけ・ヴァッスーラの証の記録』P12〜14から抜粋)

 

一つ、預言について話しましょう。神が預言をお与えになるとき、特に聖書的なことばで預言をお与えになるとき、それが霊的な意味あいか物質的なことを言っておられるかを識別するのは大変難しいのです。ですから、理解する光を主がお与え下さり、はっきり教えられるまでは、そのことばを決して断定したり、説明しようとはしません。

 

もう長年にわたってずっと、イエスは第二の聖霊降臨について話しておられたのです。教会を刷新するために、これまでの歴史上かつてなかったほど人類全体に聖霊がふり注がれると。黙示録21章も読むようにおっしゃり、その中のみことばを説明して下さいました。新しい天、新しい地、新しい町エルサレムについて書かれた個所です。イエスはこの聖書の個所を説明なさる前に、「ヴァッスーラ、来て書きなさい」とは言わないで「町よ、来て書きなさい」とおっしゃいました。

 

さて、なぜ私ではなく町なのかと自問しましたが、すぐに分らせて下さいました。主は私たちのうちに住まわれるので、私たち自身が町と呼ばれても不思議はないからです。私たちは、旧約時代のような幕屋でもありうるわけです。一つの庭園、そして主の住まわれる天国にも変容することもできるのです。イエスとご一緒に黙示録21章を読みながら、そのことを理解させていただきました。その時は書くのが待ちきれないほど、心が興奮し、急いで書き下ろそうとしましたら、可笑しそうに、イエスは「なぜそんなに急ぐのか? まだあなたから離れるつもりはない」とおっしゃいました。

 

そして、主はみことばを下さり、こうおっしゃっています。これは第二の聖霊降臨についてですが、新しい天は私たちのうちにある、と。どういう意味かをひと言で説明しましょう。主が言われます、「今日のあなた方の心はやみ夜のようです、しかし、ひとたび聖霊が注がれるなら、聖霊はあなたのうちで何千ものまばゆい星座のように輝こう。」そして新しい地上も、私たちのうちにあるのです。今日の私たちは乾いた砂漠のようで、霊魂は飢饉に遭っているかのようだと主は言われますが、聖霊が降って来られると、天来の種を蒔いていかれ、この砂漠はエデンの園に変えられます。それが霊によって刷新された私たちのうちなる新しい天となるのです。そして町とは私たち自身であり、私たちは新しいエルサレムなのです。すべては私たちのうちで新しくなるからです。このように聖霊は私たちを新たにし、変容させる準備をしておられます。

 

第二の聖霊降臨は、聖霊が突然来られて私たちを変えられるか、あるいは少しずつ変えていかれるのか、私はまだ理解していませんでした。ところがある日、主はこう教えて下さいました、「第二の聖霊降臨はすでに個人個人に個別に始まっている」と。何が個別的に起きているかは、まだ分りませんでした。しかしある日ビデオの作成中に、ある話をしている中で主は理解の光を下さいました。その時、第二の聖霊降臨は個別的に訪れることが分りました。ある日、突然大勢の人びとの上に起こるのではなく、個人個人に起こるのだと。ある人が第二の聖霊降臨を受けたかどうかを、どう見分けたらよいのでしょう? そこには違いがあるのです。

 

第二の聖霊降臨のような聖霊をいただくと、その人には明らかなしるしが現われます。その人は大きく変容し、サマリアの女のように出て行って真理を宣言しようと熱烈に燃え立ち、自分の足で駆けて行き皆に伝えるのです。こうやって、本当に変容された人を見分けることができるのです。その上、この人びとは心に熱い炎が燃え立つあまり、皆とそれを分かち合いたいと望みます。イエスが譬え話でおっしゃっているように、真珠を発見したかのようです。そしてこの真珠を手放したくないばかりに、自分の持ち物すべてを売り払うことも辞さない。神のみ国を発見したのです。

こういったことが今の時代には起きています。そして私はそれを目の当たりにしているのです。私はたくさん旅をしますが、霊によって触れていただいたこのような熱意ある人びとと世界中で出会います。そしてゆっくりとですが、教会は確実に刷新されているのです。これが第二の聖霊降臨です。