認識能力
1.真理は実に善の何であるかを教えはするが、しかしそれを認識させはしない
2.真理の情愛を通し、引いては善の情愛を通して認識する能力が与えられる
3.サンダー・シング
4.この賜物では人間に優劣の差がある
5.人間の意志が悪の中にあるなら、彼の理解は誤謬以外には何物も把握しない
1.真理は実に善の何であるかを教えはするが、しかしそれを認識させはしない
天界の秘義3463[2]
なぜなら専ら信仰の教義的な事柄の中にいて、その教義に従った生命の中にいる者たちは、一種の連結を持ってはいるが、しかしそれは遠い[軽微な]連結であるが、それは以下の理由によっているからである、すなわち、かれらは隣人に対する仁慈の何であるかをいかような情愛からも知ってはおらず、ましてや主に対する愛の何であるかを知ってはおらず、たんにそのことを信仰の或る一種の観念からのみ知っているにすぎず、かくてかれらはまた何ら善を認識もしないで、かれらの教義的なものを確認するときは、かれらは真のものであるものの中にいると等しく誤っているものの中にもいる可能性があるのである、なぜなら善を除いては何ものも人間に真理の何であるかについては確認させはしないからである。真理は実に善の何であるかを教えはするが、しかしそれを認識させはしないに反し、善は真理の何であるかを認識から教えるからである。
2.真理の情愛を通し、引いては善の情愛を通して認識する能力が与えられる
天界の秘義5877
「ヨセフはその兄弟たちに言った」。これは内なる天的なものが自然的なものにおける諸真理に認識の能力を与えたことを意味していることは以下から明白である、すなわち、聖言の歴史的なものにおける『言うこと』の意義は認識であり(1898、1919、2080、2619、2862、3395、3509、5687、5743番を参照)、ここでは認識の能力を与えることであり(そのことについては以下に述べよう)、ヨセフの表象は内なる天的なものであり(そのことについてはすぐ前の5869番を参照)、ここでは『兄弟』であるヤコブの十人の息子の表象は自然的なものにおける諸真理である(5403、5419、5458、5512番)。かくてその内意は内なる天的なものが自然的なものにおける諸真理に認識の能力を与えたということである。『言うこと』によりここでは認識の能力を与えることが意味されているのは、今以下の記事にとり扱われている主題は、『ヨセフ』である内なる天的なものが『ヤコブの息子』である自然的なものにおける諸真理と連結することであり、連結が起ると、認識する能力が、すなわち、真理の情愛を通し、引いては善の情愛を通して認識する能力が与えられるからである。
3.サンダー・シング
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P49
しばらくしてキリストは、彼と、また霊界に入ってきたばかりの者たちに向かって、ぼんやりとした光の中でご出現になった。というのも、この段階では、キリストの完全なるご偉光に彼らが耐えられないからである。その偉光はあまりに強力であるため、天の御使いでさえ主を見つめるのに困難を覚え、翼で顔を隠す(イザヤ書6・2)ほどである。
聖なる導きインド永遠の書/P75
この霊の世界においては、個人の霊的成長が神を知り感じることのできる度合いを決める。そして、キリストもまた、一人一人の霊的啓発と理解力に応じてその眩(まばゆ)い御姿をお示しになる。キリストが、霊界の低く暗い領域に住む者たちに、高き世界の住民に現す同じ栄光をもってお臨みになれば、彼らはそれに耐えることはできないであろう。そのように、主は一人一人の霊魂お成長段階と理解力に応じて、ご出現のときの栄光を加減しておいでである。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P 269
詩篇記者はいみじくもこういった。「愚か者は、心の中で“神はいない”と言っている」。愚者はこういうことによって、神の不在を証明するより自分自身の霊的不在、神を知ることのできない無能を露呈する。彼が自分に納得のゆく理由を持ち出すなら、太陽の存在しないことを議論だけで証明しようとする虫けらにも等しい。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P350
キリストの神性を知ることができる以前に、われわれは新しい生き物に変えられる必要がある。罪に染まり堕落した古い性質では、キリストを知ることはできない。みえざる神の形であられ、その形に似せてわれわれが造られたキリストを知ることができる以前に、新しい生命と新しい性質とが、われわれのものとなっていなくてはならないのである。そのときこそ、われわれはキリストを「まことの神」として知るようになる。
4.この賜物では人間に優劣の差がある
天界の秘義5937[2]
再三記した認識の何であるかをここにかんたんに述べよう。人間各々には何かの事柄がそうであるか、またはそうでないかを認識する能力が存在している。自分自身の中に、または自分自身の心の中に結論を引き出す能力のために物事が認識されるのである。この能力は霊界から流入がない限り全く不可能である。この賜物では人間に優劣の差がある。その劣っている者とは、自分自身の中に、または自分自身の心の中に結論し、かくて僅かなことしか認識しないで、自分たちの信じている者たちが何かの事がそうであると言っているという理由からそれはそうであると言う者たちである。しかしさらに優れている者たちは、その事柄がそうであることを、他の者からではなく、自分自身から認める者たちである。なぜなら実際人間各々のもとに存在している認識は世の物における認識であって、現今では霊的な事柄における認識は何人のもとにも存在していないからである。その理由は、流れ入って来て、認識させる霊的なものは世と自己を求める愛の歓喜により曖昧なものにされて、ほとんど消滅してしまっており、それで彼らには霊的な事柄は、それが義務と習慣の事柄となっていない限り何らかえりみられなくなっており、もし義務からくる恐怖が、また習慣から来る歓喜が取り去られるなら、かれらは霊的な物を足げにし、それに嫌忌を感じ、また否定さえもするからである。
天界の秘義5937[3]
霊的な事柄を認識しようと欲する者は善から真理を求める情愛の中にいて、絶えず真理を知ろうと切望しなくてはならないのである。そのことにより彼の知的なものは明るくされ、そしてその知的なものが明るくされると、そのときは彼は何かのものを自分自身の内に内的に認識することが出来るのである。しかし真理を求める情愛の中にいない者は、その信仰している教会の教えから、また祭司、長老、または修道僧がそのように言っているという理由から、その知っているものがそうである、と考えるにすぎないのである。この凡てから認識の何であるかが、それは世の物には存在しているが、霊的な物には存在していないことが明白であり、さらにそれは以下の事実から明白である。すなわち、人各々は、ユダヤ人として生まれた者でさえも、また教会の中に生活してはいるものの、教会の外にいる者も、その中に生まれた教義の中に止まっているのである。さらに何らかの異端の中にいる者は、たとえ真理そのものを話されるにしても、またその真理が確認されるにしても、その真理の一片をすらも認めはしないのであり、それは彼らには誤謬として見えるのである。
天界の秘義6598
道徳的な生活における尊いものを、社会生活における公正なものを、霊的な生活における善いものを理解し、認識する能力において人間に優劣の差があることは知られている。その原因は思考を天界に関わる事柄へ高揚することに在り、その高揚により思考は感覚の外なるものから引き出されるのである、なぜなら感覚の事物から専ら考える者は、尊い、公正な、善いものを些かも認めることは出来ないのであり、そのため彼らは他の者に頼って、記憶から多くのことを語り、そのことによって自分は他の者よりも賢明であると自分自身に思われるのである。しかし感覚の事物を超越して考えることの出来る者たちは、もしその記憶の事物が秩序づけられさえしているなら、他の者にも優った、理解し、認識する能力を持っており、その能力も彼らが事物を内的なものから観察する度に順応しているのである。
天界の秘義6611
私は人間の生命の状態の変化について霊たちと以下のことを話した、即ち、それは不定なものであり、人間は上方へ、また下方へ、時には地獄の方へ連れ去られて行くのである。しかし自らが再生することに堪える者たちは絶えず上方へ連れて行かれ、かくて常に更に内的な天界の社会の中へ入れられるのである。スフィアがこれらの社会の中へ拡がるのは再生されつつある者たちに、特に試練により再生されつつある者たちに主により許されており、その試練の中では悪と誤謬とに対して抵抗が為されるのである、なぜなら主はその時悪と誤謬とに対して天使たちを通して戦われるからであり、そのようにしてその人間は更に内的な社会であるところの、これらの天使たちの社会の中へ導き入れられ、一たび彼はいかような社会であれ、その中へ導き入れられると、彼はそこに止まり、そこからまた更に拡がった、また高揚された認識する能力を受けるのである。
5.人間の意志が悪の中にあるなら、彼の理解は誤謬以外には何物も把握しない
神の摂理297[3](イ)
もし人間の意志が悪の中にあるなら、彼の理解は誤謬以外には何物も把握せず、他の如何なる物も理解しようとは欲せず、また理解することも出来ない。