人間に天界を開く最初の、また

最も重要な考えは神についての考え

 

 

1.人間に天界を開く最初の、また最も重要な考えは神についての考え

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1.人間に天界を開く最初の、また最も重要な考えは神についての考え

 

黙示録講解1096[2]

 

人間に天界を開く最初の、また最も重要な考えは神についての考えであり、そのことは神は天界の凡てのものであられ、私たちが天界と言おうが、神と言おうが、それは同一の事であるとすらなっているのである。天界を構成している天使を天使とならせている神的なものが共に集められるとき神であり、このことが神について考えることが人間に天界を開く凡ゆる考えの中で最初のまた最も重要なものである理由である、なぜならそれは天的な、また霊的な凡ゆる真理と愛との頭部と総計である。しかし光から発している考えが在り、愛から発している考えが在り、光のみから発している考えは、神は存在しているという知識であり、それは承認のように見えはするが承認ではない。

 

[3]光から発している考えにより人間は天界の中に臨席はするが、天界とは連結しない、なぜなら思考のみの光は連結しないで、人間を主と天使たちとの前に臨席しているものとして示すに過ぎないからである。なぜならそうした光は冬の光のようなものであって、その中では人間は夏の光の中におけるように同じ澄明さをもって見るものの、その光はそれ自身を地に結合させはしないし、いかような木にも、かん木、花、または草の葉にも結合させはしないからである。さらに、人間各々は己が内に神について考える能力を、また天界の光の中に神に関係している幾多の事柄を理解する能力を植えつけてはいるが、しかしその光から発している考えのみは―それは知的な考えであるが―すでに言ったように、主のもとに、また天使たちのもとにその者を臨席させるにすぎないのである。

 

 

[4]人間が神について、また神にかかわる事柄について単なる知的な考えの中にいるときは、その者は遠方では天使たちには象牙か、または大理石の像のように見え、それは歩いたり、音声を発することはできるが、その顔とその声の中には未だ生命は全くない者のように現れるのである。また天使たちには、比較すれば、枝は裸になって、葉は無いものの、それでも、春の時におけるように、その光に熱が加わるときは、それは葉で、後には果実でおおわれるであろうとの多少の望みを抱かせる冬の時の木のように見えるのである。神についての考えは最初に天界を開くものであるように、神に反抗する考えは最初に天界を閉じるものである。

 

 

 

真の基督教22

 

信仰とは神の存在を霊的に認識するということ以外に何であろうか。

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々3・P127

 

あなたの信仰には報いが与えられます。聞きなさい、信仰とは何ですか。しゅろの堅い種のように小さいものだけれど、“神がおられる”という短いことばが形づくるたった一つの主張が“私はメシアを見た”ということばで膨らみます。アブラハム、あなたが東方の三人の知恵者のことばで私を信じたように、我らの民の信仰も、遠い祖先の太祖たちが次々に伝えました。アダムからその子孫へと、罪人だったアダムの啓示も繰り返されました。

 

“神はおられます。私たちが存在するのも、神が私たちを造ったからです。そして、この神を知りました”この啓示は、我らの民の遺産として、神の出現、天使たちの出現、霊の光などによって、いよいよ完成されたのです。無限に比べれば、いつでも小さな種に過ぎないが、やがて根を張り、人間の動物的な傾向や疑惑などの堅い殻を破り、邪欲という雑草や多くの罪というかびを一掃し、心は気高く成長し、太陽へと天へ昇り、肉体の束縛から解き放たれることで完璧に神を知り、生命と死を超えて真の命に到達するのです。

 

信仰を持つ人は命への道を知っています。信じることを知る人は、間違えることがなく、見て認めて仕えることで永遠の救いに至るのです。信仰する人にとって、十戒が息絶えることはない。十戒の命令のすべてが、未来の自分の冠の宝石になります。

 

 

 

 

 

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