人間は凡てその霊の方面では

霊界の或る共同体にいる

 

人間は生来小規模の地獄

 

 

 

 

1.人間は凡てその霊の方面では霊界の或る共同体にいる

2.何ごとかを熱烈に愛しはじめるや否や、そうした愛の中にいる霊たちがその場に現れ

3.彼と同じように他の戒めを犯す者らと親しくその精神では共に交わる

 

 

 

 

 

1.人間は凡てその霊の方面では霊界の或る共同体にいる

 

 

神の摂理296(ロ) (太字は当方による)

 

人間は凡てその霊の方面では霊界の或る共同体に居り、すなわち悪い人間は地獄の共同体に、良い人間は天界の共同体に居り、時として、深い瞑想にふけっている間は、そこに見られることに注意しなくてはならない。また言葉の音声は自然界の空気中に拡まるように、情愛も思考と共になって霊界の共同体の間に拡まることに注意しなくてはならない。それらのものの間には相応もまた存在している、即ち情愛は音声に、思考は言葉に相応しているのである。

 

 

 

神の摂理307(ロ)

 

「主はこの世に尚住んでいる悪い者を地獄で支配されている」。 これは人間の霊は霊界の或る共同体におり、もし邪悪な者であるなら、地獄的共同体に、善良であるなら、天界的共同体にいるからである。なぜならそれ自身においては霊的なものである人間の心は必然的に霊的な存在者の間にいなくてはならないし、その社会へ彼はまた死後入るからである、それがそうであることは前に述べまた説明した。しかし人間はそこに、或る共同体の恒久的な一員となった霊のようにいるのではない。なぜなら人間は常に改良され得る状態におり、それ故彼は悪であるなら、その生命とその生命の受ける変化に応じて、地獄の一つの社会から他の社会へと主により移されるが、しかしもし自分自身が改良されるのを許すならば、地獄から導き出されて、天界へ挙げられ、そこでもまた一つの社会から他の社会へと移され、それが彼の死ぬまでも継続するが、死後はもはや一つの社会から他の社会へと移されはしないのである、なぜなら彼はその時はもはや改良される状態にはいないで、その送った生活から生じた結果にいるからである。それ故人間は死ぬと、その者自身の位置が彼に定められる。

 

 

 

神の摂理317[3]

 

「人間が思い込んで、確認した物は凡て彼の中にその自己性の一部として存続する」。 如何ような真理もそれが証明されない限り人間に認められることは出来ないと多くの者に信じられているが、しかしこれは真でない。王国または共和国の社会的なまた経済的な事柄においては、有用で善い物は多くの教令と法令とを知ること無しには認められることは出来ず、また司法上の事柄における有益なまたは善いものも、その法律が知られない限り認められることは出来ず、自然の研究においても、例えば、物理、化学、解剖学、機会学等においても、人間がその科学を教えられない限り、それは認められることは出来ない。しかし純粋に合理的な、道徳的な、霊的な事柄においては、人間が単に健全な教育により多少合理的に、道徳的に、霊的になってさえおれば、真理はそれ自身の特有な光の中に現れるのである。その理由は人間は凡てその霊の方面では―彼はその霊で考えるのであるがー霊界にいて、そこに住む者たちの間におり、従って彼は彼の内なる理解を明るくし、いわば指導するところの霊的な光の中にいるということである。なぜなら霊的な光は、その本質では、主の神的な知恵の神的真理であるから。これが人間が分析的に考え、司法上の事柄で公平で正しいものについて結論を引き出し、道徳的生活の尊いもの、霊的生活の善いものを認め、また多くの真理を理解することが出来る理由であって、真理は誤謬を確認しない限り不明瞭にはならないのである。人間は、各人に生来具わっている知識以外の知識が何らなくとも、他人の性質をその顔の中に認め、その情愛をその声の調子から認めると同じように、これらの物を認めるのである。如何なる動物でも霊界から発する流入により自分自身の自然的な必要な物を知っているのに、なぜ人間はそのような流入によって、霊的で道徳的な己が生命の内的な事実を多少なりと認めないであろうか。鳥はその巣を作り、卵を生み、雛をかえし、その食物を見分ける方法を知っている、我々が本能に帰している他の驚くべき事柄は言わずもがなである。

 

 

 

 

天界と地獄438

 

人間は各々、身体内で生きている間でさえも、その霊は霊たちとともに何らかの社会の中におり―人間はそのことを知らないが―善い人間は霊たちを通して天使たちの社会の中におり、悪い人間は奈落の社会におり、その社会へ人間は死後入って行くのである。

 

 

 

天界と地獄510

 

各々の者は、その霊が世で宿っていたその者自身の社会へ入って来る、なぜなら人間各々はその霊の方面では、奈落の社会か、天界の社会か、その何れかの社会に連結しており、邪悪な人間は奈落の社会に、善良な人間は天界の社会に連結していてーそこへ死後帰って行くからである(438番参照)。その霊はその社会へ次々と段階を経て連れて行かれ、遂にはそこへ入って行く。悪い霊はその内部の状態にいるときは徐々にその霊自身の社会へ向き、その状態の終わる前に、遂にはその社会へ真っ直ぐに向き、そしてこの状態が終わると、その同類の者のいる地獄に向かって自ら自分自身を投げつける。

 

 

 

天界の秘義687

 

なぜなら人間はことごとくそのことに全く気づいてはいないけれど、身体に生きている間は霊たちと天使たちの何れかの社会にいるからである。それでもし人間がその中にいる社会を通して天界に、霊たちの世界に連結しないなら、一瞬間も生きることはできないのである。この点では人の身体と同様であり、その身体の何らかの部分であって、繊維と器官とにより、かくて機能により他の部分に連結していないものは身体の一部ではなくなり、生命を持たぬものとしてたちまち分離されて、斥けられるのである。人間が身体の生命の間その中におり、またそれとともにいた社会そのものは、その人間が他生に入る時その者に示されるのである。そしてかれらが身体の生命の後、その社会に入ってくるとき、かれらは身体の中で持っていたかれらの生活そのものの中に入るのであり、この生活から新しい生活を始め、かくて身体の中で送ったかれらの生命に従って地獄に降るか、または天界に挙げられるか、するのである。

 

 

 

天界の秘義1680[2]

 

他生における霊たちはすべて以下のように区別されている、即ち、他の者に対して悪を欲している者らは奈落のまたは悪魔的な霊であるが、しかし他の者に善を欲している者たちは善良な、天使的な霊である。人間は自分がどちらの者の間にいるかを、奈落の者の間にいるか、または天使的な者の間にいるかを知ることが出来るのである、即ち、もし彼が隣人に悪を意図し、彼について悪のみしか考えず、また実際にそれを行うことが出来る時、それを行って、そのことに歓びを感じるならば、彼はその奈落の者の間にいるのであり、他生ではまた奈落の者となるが、それに反して隣人に善を意図し、隣人について善以外には何ごとも考えず、また実際にそれを行うことが出来るとき、それを行う人間は天使的な霊たちの間にいるのであり、他生ではまた天使となるのである。これが両者を区別する特質である。各自このことにより自分自身を点検して、自分はいかようなものであるかを知られよ。

 

 

 

天界の秘義3644

 

 全世界の人間はことごとく、その霊魂については、またはそれと同一のことではあるが、身体の死後も生きることになっているその霊については、巨大人の中にか(すなわち、天界の中にか)、またはその外側の地獄にか、その何れかに位置を持っているのである。人間はこの世に住んでいる間はその愛の善とそこから派生してくる信仰の真理に応じて天界の中におり、その憎悪の愛とそこから派生してくる誤謬に応じて地獄の中にいるのである。

 

 

 

黙示録講解86

 

さらにこうした理由から、悪を考え、欲している人間は事実[現実に]地獄にいるのであり、世に生きている間に現実にいる所へ死後その者はやってくるのである。人間の霊はその者が考え、欲している事柄から構成されているため、人間は他のいかような所へも来ることは出来ないのである。

 

 

 

 

2.何ごとかを熱烈に愛しはじめるや否や、そうした愛の中にいる霊たちがその場に現れ

 

 

天界の秘義6196

 

 霊たちは人間とはその人間の愛に従って共になることは、種々な経験により私に明かされたのである、なぜなら私は何事かを熱烈に愛し始めるや否や、そうした愛の中にいる霊たちがその場に現れ、その愛が止むまでは遠ざかりはしなかったからである。

 

 

 

 

3.彼と同じように他の戒めを犯す者らと親しくその精神では共に交わる

 

 

霊的な生命・神の聖言−遺稿―(黙示録講解からの抜粋)P106

 

人間が一つの戒めを犯して、それは罪ではないと自分に納得させ、かくて神を恐れないで戒めに背く時は、彼はそのようにして神を恐れる思いを斥けてしまったため、彼は他の戒めを犯すことを、例えそのことを実際に行わないにしても、恐れはしないのである。

 例えば、人が詐欺と不当な利得を―それはそれ自身においては窃盗であるが、それを―罪として認めはしない時は、他人の妻との姦淫を、人間を憎んで殺しさえもすることを、その者について偽りを言うことを、その者の家とその者に属する他の物をむさぼり求めることを罪として認めもしないのである、なぜなら彼は何か一つの戒めにおいて神を恐れる思いをその心から斥ける時は、彼は何かが罪であることを斥けるのであり、従って彼は、彼と同じように他の戒めを犯す者らと親しくその精神では共に交わるからである。なぜなら彼は盗人の地獄にいる奈落の霊のようなものであり、例え彼は姦通者ではなく、人殺しでもなく、偽証人でもないものの、それでもそのような者らと親しく交わっていて、彼らによりそうしたことは悪ではないと信じるように説きつけられることが出来て、そうしたことを行うように仕向けられることが出来るのである。なぜなら一つの戒めを犯すことを通して奈落の霊となる者は神に反抗して何かを行うことを、または隣人に反抗して何かを行うことをもはや罪であるとは信じなくなるからである。