人間は自分自身からは

絶えず落ちている

 

 

一瞬の一瞬でさえ主は守られる

 

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

2.トマス・ア・ケンピス

 

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義1594[]

 

「それのみが天界的なものである相互愛は、人間が自分自身については以下のように言うのみでなく、またそのことを承認もし、信じもしていることにあるのである、すなわち、自分は全く無価値なものであり、卑しい汚れたものである、主はその無限の慈悲から自分を地獄から絶えず引き出され、遠ざけておられるが、その人間はその地獄の中へ自分自身を投げ込もうと絶えず努めている、いな、渇望しているのである。かれがそのことを承認し、信じているのはそれが真であるためである、主がまたはたれか天使がかれが服従するためにそれを承認し、信じるように欲しておられるというのではなくて、かれが自分はまことにそうしたものであることを認めて、高ぶらないためである、なぜならそうしたことは排泄物がそれ自身を純金と呼ぶようなものであり、または糞のやまの上を飛んでいるはえが自分は楽園の鳥であると言うようなものであるからである。それで人間が自分自身は自分が実際あるようなものであることを承認し、またはそのようなものであると信じるに応じて、かれは自己愛からその自己愛のいくたの欲念から後退して、自分自身を忌みきらうのである。かれがそのことを為すに応じて、かれは主から天界の愛を、すなわち、すべての者に仕えようとする願望から成っている相互愛を受けるのである。これらの者が主の王国の中で最大の者となるところの『いとも小さい者』により意味されている者たちである(マタイ20・26−28、ルカ9・46−48)。」

 

 

 

天界の秘義1947

 

 人間は再生しつつある間は、彼は主から与えられている自由から、自己を強制し、またその者の合理的なものがそれ自身を服従させるために、その合理的なものを卑しくし、また苦しめさえもし、そのことにより彼は天界的な自分のものを受けるのであって、その天界的な自分のものはその後主により徐々に完成され、益々自由になり、かくてそれは善の情愛となり、そこから真理の情愛となって、歓喜を得、その自由の中にも歓喜の中にも天使たちの幸福に似た幸福が存在するのである。この自由がヨハネの書に語られているものである―

 

真理はあなたたちを自由にするでしょう、もし子があなたたちを自由にするならあなたたちは実に自由になるでしょう(ヨハネ8・32、36)。

 

この自由の性質は良心を持たない者らには全く知られていない、なぜなら彼らは自分が好きなように行い、誤ったことをほしいままに考えたり、話したり、ほしいままに悪いことを欲したり、行ったりして、強制したり、卑しくしたりはしない、ましてやこうした欲望を苦しめたりはしないことに自由があると考えているが、真理はその逆そのものであるからであり、そのことを主もまた同じ福音書に教えられているのである―

 

罪を犯す者はことごとく罪の奴隷である(ヨハネ8・34)

 

この奴隷的な自由を彼らは彼らと共にいて、それを注ぎ入れる奈落の霊どもから受けており、彼らはこれらの霊の生命の内にいる時は、また彼らの愛と欲念の中にもいて、不潔な、排泄物のような歓喜が彼らに吹き込まれ、そしていわば激流に流されるかのように流されて行く時は、自分自身が自由の中にいると考えているが、しかしそれは奈落の自由なのである。この奈落の自由と天界の自由との間の相違はその一方は死のそれであって、彼らを地獄に引きずり降ろすに反し、他方はまたは天界の自由は生命の自由であって、彼らを天界へ引き上げるということである。

 

 

 

天界の秘義6489

 

 主の摂理〔主が供えられること〕は先見と連結しており、一方は他方無しには在り得ないのである、なぜなら悪は先見されて、善が(それに対し)供えられるからである。そして先見される悪は、主が(それに対して)供えられる処置により、絶えず善へ向けられている、なぜなら神的な善の目的が遍く支配しているからである。かくて何一つ何らかの善がそこから発することが出来るという目的がないなら許されはしないのであるが、しかし人間は、改良されるために、自由を持っているため、自分自身が自由の中にあって悪から善へ向けられるのに堪えるに応じて、(悪から善へ)向けられるのであり、(もし彼が天界へ導かれることが出来ないなら)、極悪の地獄から―そこへ彼は凡ゆる努力を尽くして飛び込むのであるが、その地獄から―更に穏やかな地獄へと向けられるのである。

 

 

 

天界の秘義8391(仁慈の教義)

 

信仰の生活を送る者は日々悔改めている。なぜなら彼は己が中にある悪を反省し、それを承認し、それに対して自分自身を警戒し、主に助けを懇願するからである。なぜなら人間は自分自身からは絶えず落ちているが、主により絶えず引き挙げられているからである。彼は悪いことを欲望をもって考えるときは、自分自身から落ちるのであるが、悪に抵抗し、従ってそれを為さない時は、主から引き挙げられているのである。善の中にいる凡ゆる者の状態はこのようなものであるが、しかし悪の中にいる者らは絶えず落ちており、また絶えず主により引き挙げられている、しかしそれは彼らを凡ゆる地獄の中でも最も悲惨な地獄に落とされないためであり―彼らは彼ら自身からではその全力を尽くしてそこに落ち込むのであるが―かくて実に彼らを更に和やかな地獄へ引き挙げられるためである。

 

 

 

新しいエルサレムの教義163

 

仁慈と信仰との生活を送る者は日々悔改めの業を行っている。彼は自分のもとにある悪を反省し、それを承認し、それを警戒し、主の御助けを祈願する。なぜなら人間は自分自身では絶えず罪に陥るが、しかし絶えず主により引き挙げられて、善に導かれるからである。それが善にいる者たちの状態である。しかし悪にいる者は絶えず罪に陥り、また絶えず主により引き挙げられてはいるが、ただ最も甚だしい悪へ陥ることから引き出されているにすぎないのであり、その最も甚だしい悪へは彼ら自身ではその凡ゆる努力を傾けて進んでいるのである。

 

 

 

黙示録講解107(4)

 

宗教から考えはしない者らは良心をもってはいない、なぜならかれらは霊的なものではなく、従って、かれらの外なる拘束するものが―それは法律と名声に対する恐怖であるが、それが―彼らのもとで弛められるなら、彼らは凡ゆる邪悪へ突入するからであるが、これに反し他方では、もし法律と世評にかかわる恐怖であるところの、外なる拘束するものが、宗教から考える者たちから仮にも取り去られるにしても、かれらは依然誠実に、公正に、善良に行動するのである、なぜならかれらは神を恐れ、主から―その主にかれらは連結しているため、その主から―天界を通して服従と仁慈との生命[生活]の中に留めおかれているからである。

 

 

 

霊界日記2028

 

ここから、人間であった者は、また人間である者は凡て後方へ歩みを向けており、または、それと同一のことではあるが、下の方へ、従って地獄へ歩みを向けていることが明らかとなり、主がかりにも彼らを地獄から引き挙げられないなら、凡ての者は真逆様にそこへ落ち込んでしまうのであり、そのことがその霊たちに言われると、彼らは口をつぐんでしまったのである。1748年〔60歳〕5月21

 

 

 

 

2.トマス・ア・ケンピス

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて3・8・1

 

 もし独りほうっておかれるならば、私は無にひとしい、まったく弱い者に過ぎない。

 けれども主が突然私を顧みたもうやいなや、私はたちまち強い者となって、新たな喜びに満たされるのである。自分の重みでいつも下へ下へと沈みつつある私が、かくも速やかに引き上げられて、主の慈悲のふところに抱かれるとは、まったくふしぎのきわみである。