熱意

 

あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす(ヨハネ2・17)

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.マリア・ワルトルタ

4.ヴァッスーラ

 

 

 

1.聖書

 

 

ヨハネ2・13−17

 

ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。 そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。 イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、 鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」 弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義1950[]

 

 純粋な合理的なものはことごとく善と真理から、すなわち、天的なものと霊的なものから成っている。善または天的なものはその合理的なものの霊魂または生命そのものであり、真理はまたは霊的なものはそこからその生命を受けているものである。天的な善から発している生命がないなら、合理的なものはここに記されているようなものとなり、すなわち、それはすべてのものに反抗して戦い、すべてのものはそれに反抗して戦うのである。合理的な善は、いかに攻撃されても、決して戦いはしない、なぜならそれは[合理的な善は]おだやかで、優しく、忍耐づよく、素直であるからである、なぜならその性格は愛と慈悲のそれであるからである。それでもそれは戦いはしないけれど、すべてのものを征服するのである、またそれは争闘については決して考えないし、また勝利のためにほこりもしない、そのことはそれが神的なものであって、それ自身により安全であるためである。なぜならいかような悪も善を襲うことができないからである、悪は善が存在しているスフィア[霊気]の中には存続することすらできない、なぜならこれが単に近づいてくるのみで、悪は悪自身によって後退して、後に倒れてしまうからである、なぜなら悪は奈落的なものであるが、善は天界的なものであるからである。天的な霊的なものの場合も、すなわち、天的な起原から発している真理の場合も、または善から発している真理の場合も非常にそれに類似しているのである、なぜならこの真理は善により、形作られている真理であって、それは善の形と呼ばれてもよいからである。

 

 

 

天界の秘義2351

 

悪が善を攻撃するとき、それは『怒り』と呼ばれているが、しかし善が悪を非難するときは、それは『熱意』と呼ばれているのである。

 

 

 

天界の秘義3614[2]

 

『憤り』と『怒り』は聖言に再三言われているが、しかしそれらは内意では憤りと怒りを意味しないで、反感を意味しており、それは何であれ何かの情愛に反感を与えるものはことごとく憤りまたは怒りを生み出しており、それで内意ではそれらは単に反感にすぎないという理由によっているが、しかし真理の反感は『憤り』と呼ばれ、善の反感は『怒り』と呼ばれており、それに対立した意義では『憤り』は誤謬またはその情愛の、すなわち誤謬の原理の反感であり、『怒り』は悪またはその欲念の、すなわち、自己への愛と世への愛の反感である。この意義では『憤り』は当然憤りであり、『怒り』は悪またはその欲念の、すなわち、自己への愛と世への愛の反感である。この意義では『憤り』は当然憤りであるが、しかしそれらが善と真理について述べられると、『憤り』と『怒り』は熱意であり、この熱意はその外なる形では憤りと怒りのように見えるため、文字の意義ではまたそのように呼ばれているのである。

 

 

 

天界の秘義3839[3]

 

 例えば、ここにとり扱われている憤怒の情愛についてであるが―仁慈の情愛の中にいない結果、そのいかようなものであるかを知っていない者はことごとく、人間に何か悪が為されるとき、その人間が抱くような憤り以外のものを考えることはできないのであり、それは怒りの憤りである。しかし天使たちはそのような憤りは持ってはいないで、それとは全く異なった憤りをもっており、それは怒りのものではなくて、熱意のものであり、その中には悪は何一つ宿ってはおらず、天界が地獄から隔たっているように、憎悪または復讐から隔たっており、または悪に悪を報いる精神から隔たっているのである、なぜならそれは善から発しているからである。しかし前に言ったようにこの憤りの性質はいかような言葉によっても表現することはできないのである。

 

 

 

天界の秘義3909

 

「ヤコブはラケルに対して怒りに燃えた」。これは自然的な善の側における憤りを意味していることは、以下から明白である、すなわち、『怒りに燃えること』の意義は憤ることであり(そのことについては以下に述べよう)、ヤコブの表象は自然的なものの善である(そのことについては前を参照)。『ラケルに対して』と言われているのは、ラケルにより表象されている内的な真理が『ヤコブ』であるところの自然的なものの善により信仰と行為において未だ承認されることができなかったためである。内意では『怒りに燃えること』は憤ることであるのは、自然的な情愛はことごとく内部へ向って、または天界へ向って上昇すると、さらになごやかなものとなって、ついには天界的な情愛へ変化するためである。なぜなら(ここの『怒りに燃える』ように)文字の意義に現れている事柄は、自然的なものであり、形体的なものであるためそれは相対的には刺々しいものであるが、しかしそれが形体的な自然的な人から内なるまたは霊的な人へ高揚されるにつれて、なごやかにおだやかにまたやさしくもなるからである。これが文字の意義はこのような性質をもっていて、自然的な人の把握に適応しており、霊的な意義はそのような性質を持たないで、霊的な人の把握に適応している理由となっている。このことが『怒りに燃えること』は憤ることであることを示している。真の霊的な憤りは(またとくに天的な憤りは)自然的な人の怒りからは何ものをも取得してはいないで、熱意の内的な本質から取得しており、その熱意は外なる形では実に怒りのように現れているが、しかし内なる形では怒りではなく、怒りの憤りですらなく、それがそのようなものではないようにとの願いのこもった一種の悲哀であり、さらに内的な形では、他の者における善くない、また真でないもののために天的な歓喜を妨害する一種の明確でない感情にすぎないのである。

 

 

 

天界の秘義4164

 

「ヤコブは憤って、ラバンを叱責した」(創世記31・36)。

 

これは自然的なものの熱意を意味していることは以下から明白である、すなわち、『憤ること』の、または『怒ること』の、その結果『叱責すること』の意義は熱意であり、ヤコブの表象は自然的なものの善であり、そのことについては前を参照されたい。『憤ること』または『怒ること』が、その結果『叱責すること』が熱意を意味していることは、天界では、または天使たちのもとには怒りは全く存在しないで、その代わり熱意が在るためである。なぜなら怒りは熱意とは、怒りの中には悪が在るが、熱意には善が在るということから異なっており、または怒っている者はその怒りを覚えている相手に悪を意図しているに反し、熱意の中にいる者はその熱意を覚えている相手に善を意図しているという事実により異なっているからである。そうした理由から熱意の中にいる者はたちまち善になることができ、その行為そのものの中にいるときも他の者たちに善であることができるが、怒りの中にいる者はそうではないのである。外なる形では熱意は怒りのように見えはするものの、それでも内なる形ではそれは全く異なっているのである。

 

 

 

天界の秘義4444

 

『かれらは言った、かれにわたしたちの妹を娼婦のようにさせてよかろうか』という言葉に従って(創世記34・31)、かれがかれらの妹と臥したために熱意を意味しているかのように見えもするが、しかしそれは熱意ではなかったのである、なぜなら熱意はその中に善をもっているため、善の中にいる者のもとにのみ在りうるのであり、たれであれ悪の中にいる者のもとには在りえないからである(4164番)。

 

 

 

天界の秘義4444 []

 

かれらの子孫のもとに存在した宗教はその中に善を持っていたということは真である、なぜならその一切の物は主の王国の天的な霊的なものを表象したからである、しかしその宗教の中にいた者たちについてはそれはその中に何ら善を持たなかったのである、なぜならかれらは前に示したように内なるものを持たない、単なる外なるものにいたからである。このかんの実情は現今その民族の間に遍く流布しているかれらの宗教における実情と同一である、すなわち、かれらはモーセと予言者たちとを承認し、かくてそれ自身において聖いものである聖言を承認はしているものの、しかしかれらについてはそれは聖くはないのである、なぜならかれらはその中の凡ゆる物の中にかれら自身を顧慮しており、かくて聖言を世的なものにしており、いな、地的なものにしているからである、なぜならかれらはその中に天界的なものが在ることを知らないし、またそのことを心にかけもしないからである。このような状態の中にいる者らはその宗教の中にいるときは善の中にいるはずはなく、悪の中にいるのである。なぜならかれらはかれら自身の中に天界的なものを消滅させてしまうため、その天界的なものは何一つ流れ入りはしないからである。

 

 

 

天界の秘義8875

 

『心の烈しい』は(以下に見られるように)善について述べられるからである。しかし主の神的善の神的真理を受け入れはしない者らについては、『心の烈しい神』は誤謬と悪とを意味している、なぜなら対立したものの中にいる者らは神的摂理を誤謬として、神的善を悪として認めているからである、それは人は各々自分自身の性質からこれらのものを見るためである。ここからそれ自身では愛と憐みである主の熱意は彼らには怒りとして現れるのである。なぜなら主が愛と慈悲から天界の主御自身の者たちを庇護されるとき、悪にいる彼らは善良な者たちに向かって憤り、怒り、神的な真理と神的な善とが存在しているスフィアの中へ、そこんいいる者たちを破滅させようと努めつつ突入するが、そのとき神的善の神的真理が彼らの中に働いて、地獄に在るような苛責を彼らに感じさせるからである。ここから彼らは憤りと怒りを、また悪をすべて神的なもの[神]に帰してはいるものの、神的なものの中には絶対に怒りはみじんもなく、また絶対に悪はみじんもなく、ただ柔和と慈悲とがあるのみである。

 

 

 

 

天界の秘義8598[]

 

仁慈の善が戦う真理と連結し、その中へ流入することの実情のいかようなものであるかを簡単に述べよう。前に言ったように、神的なものは熱意を持った者たちと連結することを通して戦う真理となるのである。熱意を持った者たちは戦いはするが、それでもそれは敵意、憎悪からは全く発してはいないで、むしろ仁慈から発しているのである、なぜなら熱意はその中に仁慈の善を宿しているという事実から怒りとは異なっており、それで熱意が戦うときは、それは誤謬と悪の中にいる者たちを遠ざけて、彼らに善と真理の中にいる者たちを害させないようにするにすぎないのである。

他方、怒りは単に彼らを遠ざけるのみでなく、憎悪と復讐とをもって迫害するのである。なぜなら熱意は、その中にある仁慈から、悪と誤謬の中にいる者らにすら、良かれと願っており、またその者らが善良な者を害しない限り、その者らに善いことを行うからである。これに反し、怒りは、その中にいる憎悪と復讐から、その戦う凡ゆる者に、その者が善かろうが、悪かろうが、危害を加えようと願っているのである。このことから仁慈の善が戦う真理の中へ流入することにより意味されていることを認めることをことが出来よう。(熱意はその中に善を持ち、怒りは悪を持つことについては4164、4444番を参照されたい。)

 

 

 

天界の秘義9010

 

熱意から行っているため、故意から行っているのではなくて、更に良い良心から行っているからである。

 

 

 

天界の秘義9143

 

「火が燃え出して」。

 

これは悪の情愛から発した怒りを意味していることは、『火』の意義から明白であり、それは愛であり、ここでは悪の愛とその情愛である(そのことについては、すぐ前の9141番を参照)。悪の『情愛』と言ったのは、情愛により愛から連続したものが意味されているためである。『火』は悪の情愛から発した怒りを意味していることは、怒りはこの源泉から発しているためである。なぜなら人間の愛するものが攻撃される時、火焔が迸り出て、いわば燃えるからである。ここから怒りが聖言で『火』により記され、『燃える』と言われている、例えば以下の記事には―

 

その鼻孔からは煙が立ち昇り、その口からは火が発した、石炭がかれから燃えて出た(詩篇18・8)。

 

御子に接吻せよ、御子が怒られないためである。その御怒りは速やかに燃えるであろう(詩篇2・12)。

 

たれが焼き尽す火に対し我らのために止まるであろうか、たれが永遠のかまどの上で我らのために止まるであろう(イザヤ33・14)。

 

かれはその怒りの憤りをかれに注がれた、それはかれのまわりに火をつけたが、かれは知らなかった、それはかれを燃やした、それでもかれはそれを心にとめなかった(イザヤ42・25)。

 

見よ、エホバは火の中に、その戦車は旋風のように来、その怒りの憤りの中に彼らに報い、その叱咤[叱責]は炎の中に(イザヤ66・15)。

 

私は振り返り、その山から、その山が火で燃えていた時、降りて来た。私はエホバが私らを怒られたその怒りと憤りとのために恐れた(申命記9・15,19)。

 

これらの、また他の多くの記事に怒りは『火』により記されている。怒りがエホバに、すなわち、主に帰せられているが、しかしそれは人間の中に在るのである(5798、6997、8282、8483番)。(主がシナイ山にイスラエル民族にかれらの性質に従って現れられ、かくて火と煙と暗闇との中に現れたもうたことについては、6832番を参照)。

 

しかし怒りは悪の情愛から迸り出る火であるに反し、熱意は善の情愛から迸り出る火であることを知っておかなくてはならない(4164、4444、8598番)。それで熱意もまた『火』により記されている、例えば以下の記事には―

 

あなたの神、エホバは焼き尽す火、熱意の神である(申命記4・24)。

わたしはかれらにわたしの怒りの憤りをすべて注ごう、全地はわたしの熱意の火の中に焼き尽くされるであろう(ゼパニア3・8)。

 

(エホバの熱意は愛と慈悲であり、それは、邪悪な者がその悪の刑罰を招く時、怒りのように邪悪な者には見えるため、『怒り』と呼ばれていることについては、8875番を参照されたい)。

 

 

 

啓示による黙示録解説216

 

『わたしにはあなたが冷たいか、熱いか、そのどちらかであってほしいと言われている。なぜなら『熱意』は霊的な熱であり、霊的な熱は愛の情愛であり、ここでは、熱くあってほしいと言われている。なぜなら『熱意』は霊的な熱であり、霊的な熱は愛の情愛であり、ここでは真理の愛の情愛であり、そして真理の愛の情愛から行動する者はまた誤ったものに対する嫌忌から行動するからである、それでこのことが、悔改める、により意味されている。

 

 

 

真の基督教146

 

熱意は実は自然的な人間の激情

 

 

 

 

2.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ53・4/天使館第1巻P479

 

イエズスは恐ろしい。失楽園の入口に立つ大天使もかくやと思わせる。その手には燃ゆる剣こそ持ってはいないが、その両眼は爛々と光り輝き、嘲笑する者、皮肉る者、涜聖者たちを震え上がらせる。は素手である。持っているものといえば、聖なる怒りだけである。そしてこの聖なる怒りをこめて、売り場から売り場へと威風堂々と足を運び、品質別に細心の注意を払って整然と並べられた貨幣を掴み取って四方八方に撒き散らし、商品を並べた机や台をひっくり返す。跳ね返り転がるコイン、あわてふためく声、喝采の声が入り交じり、すべては大音響を立てて地上に落下する。その次に、家畜を見張る使用人から羊や子羊を繋いでいる綱をひったくり、結び目をつくって、強靭な鞭紐とする。それは、情け容赦なく、そうわたしは請け合う、情け容赦なく振り上げられ、振り回され、振り下ろされる。

 

思いがけない雹、霰は、頭や背中に痛撃を加える。

 

 

 

マリア・ワルトルタ68・1/天使館第1巻P600

 

この前は、あまりにも多くのことで汚された神の家を思う熱意がわたしを燃え立たせました。あの時、わたしは父の子であり、父の名において、またわたしの家に対する思い入れのために、役人も祭司も及ばない威厳のうちに行動した相続人でした。今、わたしはイスラエルの師であり、イスラエルにこれも教えます。それからユダよ、弟子は師に勝るとあなたは考えますか?

 

 

 

 

3.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P66

‘89・12・16

 

あなたに平安。 聖性は一日では達成できない、障害物や小さな十字架に満ちたこの道を 忍耐強く歩んで行かなければならない、私から離れて行かないように、続けてくれるか? この道の果てまで 私とともに登りつめてくれるか?

 

離れては行きません、わが主よ。あなたのお着物をしっかりと握っている拳を開いてしまいませんよう、どうぞお助け下さい。

 

私の十字架にすがっていなさい そうするなら我が十字架が 完徳まではるばる導いていくであろう、あなたのそばに私はいて(I am)、一致している(I am)。 祈りなさい 我がヴァッスーラ。 愛によってまず 生ずるのは熱意だからです、私 主は、我が愛をもってあなたを充満させた ♡ 一人ひとりの霊魂もやって来て この愛の海原に身を投じ 満たされて この愛を感じてほしい ♡ 私 イエスは皆を愛している、我が聖心に入って来なさい、その深い深淵にあなた方を隠したいと切に願う、いつまでも永遠に隠したまま 私だけのためとなるように ♡ 花よ、私を愛しなさい、愛しなさい、礼拝しなさい、礼拝しなさい、そうしたら後は私が行う、こう言うのを学ぶように: 「イエス 私の心をあなたの憩いの場として下さい、憩いに来て下さい 主よ。」