無関心・興味を失う

離脱

 

1.ルイザ・ピッカレータ

2.聖母から司祭へ

3.スウェーデンボルグ

 

1.ルイザ・ピッカレータ

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P146

 

  私の周りで起る出来事にたいしては、いつも聖なる無関心と無頓着をもって接しなくてはならないこと、つまり被造物によってもたらされる出来事に関して、賛成か反対かなどと考えたりせず、常にできるだけ単純さをもって正しく行動することです。実際にその後、もし私がそのようにしないでいますと、イエスは厳しく私に注意なさっておっしゃるのでした。「もしあなたが事実上のみでなく、感情的にも離脱しないならば、わたしの光に全ておおわれた者となることはできないでしょう。その代わり、もしあなたが全ての地上的な愛着を脱ぎ棄てるならば、あたかも自らを通してわたしの満ちあふれる光を貫通させる非常に清らかなクリスタルのようになることができ、永遠の光であるわたしの神性は、全てあなたの中に入るでしょう。」

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P152

 

私の魂にとって、この地上の全ての物事は天国のそれに比べますと、まるでなにか腐敗物であるかのような感覚さえ与えられていましたので、身体の中にとどまっていなければならないという義務はなんと辛く感じられたことだったでしょう。他の人にとっては感覚的に気持ちのよいことでも、私にとっては煩わしく、苦しみに満ちたもののように思われましたし、また他の人びとでしたら、その人と会話を続けるために、どれほどの礼儀と丁重さをもって接するであろうかと思われるほど、非常にきれいであったり、重要人物であるような人びとでも、私にとっては無関心であるばかりでなく、退屈にさえ感じられるのでした。私の心はほんの少しの満足や嬉しさの影をも感じるわけではありませんでしたが、これらの人びとをただ神の似姿として眺める時にのみ、我慢できるのでした。まさにそのようでしたから、私の心は非常に騒ぎ、落ち着かなくなり、絶えず天国への関心と憧れにせかされて、イエスに訴えておりました。私の内面はこの地上の物事にたいして非常な心痛、にがみ、嫌気などを感じ、これら全てのことは、この世でこれ以上生きつづけることを不可能にするのではないかと信じさせるほどまでに私を苦しめるのでした。しかし私にとっては全ての出来事のうちに存在する従順が私の前に立ちふさがり、これ以上死を望まず、神が望まれることに従うようにという絶対的命令をもって、大変うまく私にブレーキをかけました。私にできる範囲内で、頭の中から死についての考えを遠ざけるように努めました。しかしそれにもかかわらず、私の心の中には天の故郷への憧れと熱望をこめた絶え間ない射祷のかずかずがしっかりと刻まれているのでした。それから私の心は従順によって大部分静まりましたが、完全にではありません。時折りちょっと逃げ出したり・・・本当を申しますと相当不完全でした。

 

 

2.聖母から司祭へ

 

聖母から司祭へ1973.7.8

 

 新聞もテレビも見ないで、いつも祈りながら私の心の中にいるようになさい。

 私と共に、私のために生きる以外には、何にも興味を持たず、重要なものと思わないように。

「司祭のマリア運動」はもう生まれたものの、まだ小さく、か弱く、育ててゆくためには多くの祈りが必要です。あなたはそのためにだけ生きるべきで、他のどんなものも味気なく、慰めを見いだすことはできないでしょう。

 

 

聖母から司祭へ1973.7.9

 

 きょう、本当にあなたに満足しています。あなたがずっと私の心の中にいたからです。そこであなたは一つの事がわかったでしょう。すなわち、この世のすべてのものは、あなたにとって遠い、ピントのはずれたものに思え、つまらないもの、心を疲れさせるものだということが。すべてのもの、私ではないすべて、あなたの母であり、あなたが各瞬間、いつでも共にいたいと望んでいる私以外のすべては・・・。

 あなたのすることが、あなたを通して私のすることになるように、私のものとなることを学んでください。今は、母自身が行動することを、とても必要とする時、そして私はあなたを通して行動したいのです。

 

 

聖母から司祭へ1973.10.20

 

 何でも私と一緒にしない時には、すべてがあなたを疲れさせ、空ろになったようにしてしまうのをあなたは経験していますね。 

 そして、それを不審に思って、あなたは尋ねます。「おかしい、なぜこんな事が起こるのだろう?今までこの事に夢中だったのに・・・。何が起こったのだろう?」と。

 何が起こったのかといって、ああ、子よ、私に奉献されたという大きな決定的な出来事があったのです。私はあの行為を真面目に取りました。この奉献には、あなたの生活を真実に変え、すっかり変容させてしまう力があるのです。

 この奉献によって、あなたは自分の生涯をことごとく私の手に委ねました。今こそ、あなたの人生は私に属するもの、私のものとなったのです。私はそれをわがものとし、今こそ私の望み通り、少しずつそれを変容させてゆきます。

 あなたをやさしく導いて、私の気に入る、かの完徳にまで至らせ、わが子イエズスの生き写しとなるまで、すこしずつあなたを変容させてゆきましょう。

 新しいものの見方を与えましょう。あなたは私の眼で見るようになります。この世のすべてのものにはもう興味を失い、しかも、それが深い心痛のもととなるでしょう。それについて「何と空しい、何とつまらないことだ!」と言うでしょう。ところがあなたの兄弟たちの多くは、このようなものに導かれ支配されています。この世的な眼でものを見、この世のために生き、こうして貴重な人生を台無しにしてしまうのです。 

 新しい感じ方も与えましょう。私の心が感じるように感じるでしょう。そのため、あなたの愛する力と苦しむ力は極度に大きくなるでしょう。なぜなら、子よ、あなたは母の心と同じようにものを感じるからです!

 今日、わが子の贖いを無駄にする多くの人、すなわち神を拒み、否定し、神と戦う人に対して、あなたはどれほど深い悲しみを感じることでしょう。自分に過失はないのに、これらの誤りを信じて無知の犠牲となり、迷いゆく人には、どれほどやさしい憐れみの情をかんじることでしょう。

 

 

3.スウェーデンボルグ

 

天界の秘義8352〔2〕

 

 単に自然的な人間はこうした事柄が何らかの悲哀を生む事が出来ることを信じないであろう、なぜなら彼らは『真理が快かろうが、悪かろうが、それは自分に何の関わりがあろう。もしそれが快くないなら、それは捨ててしまったがよい』と考えるから。しかし霊的な人は非常に異なった気持ちを抱いている。真理を教えられ、己が魂に属し、かくて己が霊的な生命に属した物を明らかにされることが彼の生命の愉しさであり、それでそうしたものが枯渇すると、彼の霊的な生命は苦しみ、悩み、悲哀と心労とが続いて起ってくるのである。その理由は、善の情愛〔善に対する情愛〕が主から内なる人を通して絶えず流れ入り、外なる人の中に前に真理の情愛〔真理に対する情愛〕の歓喜を生んだところの、その善の情愛に一致したものを呼び出しているが、そうしたものが自己を、また世を求める愛の幾多の悪により―その悪をもまたその人間は前には歓ばしいものとして感じていたのであるが、そうした悪により―攻撃されると、そこに(その両方の)歓喜または情愛の争闘が起り、そこから不安が発生し、不安から悲哀と不満とが発生してくるということである。