死者の裁かれる時

黙示録11・18

みじめ

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P177

 

32死者が裁かれる時(黙示録11・17−18)

‘43年8月5日

 イエズスは言われる。

「諸国のこの怒りはかく起るべきであって、わたしの怒りの前触れである。わたしの子供たちにとってそれは辛い受苦の時だが避けがたいことなのだ。なぜなら、わたしの時が到来する前に、地球上でについて、すべては成就していなければならないからだ。その時わたしは「そこまでだ」と言うだろう。そしてわたしは裁き主かつとしてまた、人間の罪と功績とを裁くために地上の王としての責任も引き受ける。

 あなたたちは、ヨハネの書物のなかに『死者を裁く時』という言葉を読むとき、死者とは、すでに、もしかしたら、何世紀にもわたって、そこに足を踏み入れる時のみ誰かは気づくであろう神秘の別の領域で時を過ごした人々のことを指していると考えなさい。そうだ。死とは、魂が地上とは異なる別の地帯に移住することを意味している。だがヨハネの言葉にはもっと深い意味がある。彼の語る死者たちは、肉によれば生者たちでありえても、見る目を持つ者には実は死者たちなのだ。

 彼らにはいかなる復活もありえないだろうから、この人々はまったくの死者たちなのだ。に対して死んでいる彼らは、は永遠の生命であるから、生命をすなわちを所有する幸福に未来永劫あずかることが出来ないだろう。

 

 同様に、単純な言葉が引き起こしうる最も広い意味をもって、ここでヨハネが、三名称で語る預言者たち、しもべたち、聖人たちとは、霊において生きるすべを弁えていたすべての人々をそれとなく仄(ほの)めかしている。

 何と多くの慎ましい老女たち、何と多くの可哀想な子供たち、何と多くの無学で素朴な人たち、何と多くの、字も読めず、隠れていて、群集のなかに埋没している女たち、すなわち預言者たち、奉仕者たち、聖人たちという言葉に含まれる女たち。彼女らを世に知らしめようとすれば、世は嘲笑うだろう。しかしまことに、まことにわたしはあなたたちに言う、わたしの目には、あなたたちを聖人とするもの、すなわち、わたしの言葉によって生きることを知り、信仰をもって、愛徳をもって、不断の希望をもって、わたしの意思を行うことを知る、肉によれば惨めなこの人たちのひとりこそ、わたしの意志を行う能力に欠けているあの傲慢な学者や大法螺吹き、わたし自身の聖職者たちよりもわたしの預言者、しもべ、聖人である、と。

 

 わたしがかつ裁き主として来臨するとき、わたしに祝福された人々に対して浮かべるわたしの微笑は、並の太陽より七倍も明るい一つの太陽に点火するだろうし、それでわたしの天空は光り輝くだろう。その間にも天使たちのコーラスは、わたしへの讃め歌を歌い、その時、愚かで見る目をもたぬ世に反対して、わたしにより、わたしのしもべたちはわたしの子供とするその数々の徳を宣言されるだろう。

 しかしそうでない人々、とりわけその行動によって地とそこに住む弱い人々を破滅に導いた人々は、わたしの爛々たる眼差しに射竦(いすく)められて深淵になだれ落ちるだろう。が存在するのは避けがたいことなのだが、のしもべと管理者となった者たちは永遠に呪われなければならないからだ」。