目覚めている

 

 

眠る

 

 

 

 

マタイ24・36−44

 

「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

 

 

 

マタイ25・13

 

だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

 

 

 

マタイ26・38

 

そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」

 

 

 

マタイ26・40−41

 

それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」

 

 

 

マルコ13・32−36

 

「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」

 

 

 

ルカ21・36

 

しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。

 

 

 

天界の秘義4638

 

信仰の教訓に順応してたゆまず、倦まず、生命をそれに適応させることを意味している。

 

 

 

黙示録講解187イ


(黙示録3章)2節『目をさましていなさい』は彼らは自らのために生命を得なくてはならないことを意味している。このことは『目を覚ましていること』の意義から明白であり、それは霊的な生命[生活]の中にいることであるが、しかしここでは、その生命[生活]は道徳的ではあるが、未だ霊的ではない者らが取扱われているからには、『目を覚ましていなさい』は彼らは自らのために霊的な生命を得なくてはならないということである。

この生命が『目を覚ましていること』と『目覚めていること』により意味されているのは、霊的な生命は、霊的な生命から分離している道徳的な生命に対しては、目覚めていることが眠りに対する、または真昼時の光が夕に、実に暗黒に対する関係に置かれているためである。しかしそれがそうであることは、自然的な生命の中にのみいる者らによっては知られも、または認められもしないし、霊的な生命から分離した道徳的な生命の中にいる者らによっても認められはしないのである、なぜならこの生命もまた自然的な生命であるからである。

彼らがそのことを知りはしないし、または認めはしないのは、彼らは自然的な光(ルーメン)の中にのみいて、この光は霊的な生命に比較すると、夕の暗黒が真昼時の光に対する関係に等しいためである。さらに、そうした者らには暗黒は光のように見えるのである、なぜなら彼らの内的な視覚は―それはその思考の視覚であるが、それは―その暗黒に適応していて、そのことは丁度ふくろう、こうもり、夜間飛び回る他の鳥の視覚が暗がりに適応していることに全く似通っているからである。(中略)

霊的な生命は霊的な生命から分離した道徳的生命に比較されると、それは目覚めている状態が、眠りに比較されるようなものであることは、更に以下のことから認めることが出来よう、即ち、霊的な光の中にいる者たちは天使の持つ知恵と理知の中におり、その知恵と理知とは自然的な光の中にのみいる者らには把握出来ないもの、言語に絶したものといったものであり、しかもそのことは人間のもとに、その者が世に生きている間にも起るのであり、またその人間が死後霊となる時も、その者のもとに起るのであり、その時は理知と知恵とが目を覚ましている状態を構成しているのである。このことから、ここの『目を覚ましていなさい』は、彼らが彼ら自身のために霊的な生命を得なくてはならないことを意味していることを認めることが出来よう。

 

 

 

黙示録講解1006

 

「目ざめている者は幸いである」は、主を注視している者たちの幸福な状態を意味している。このことは以下から明白である、即ち、『幸』の意義は幸な状態にいることであり、また『目ざめている』の意義は自分自身のために霊的生命を得ることであり(187番を参照)、このことは人間が主を注視することにより得られるのは、主は生命そのものであられ、主のみから永遠の生命が発するためである。人間が主から発する生命の中にいる時は、目ざめている状態の中にいるが、しかし人間が人間自身から発する生命の中にいるときは眠っているのであり、または、同じことではあるが、人間は霊的な生命の中にいる時は、目ざめているが、しかし霊的な生命から分離した自然的な生命の中にいる時は、眠っており、人間がそのとき見るものは、人間が夢の中に見るものに似ているのである。この生命に生きることは聖言の中では『眠ることとうたたねすること』によりまた意味されている(例えばマタイ13・25、25・5、6、マルコ4・26、27、13・36、イザヤ5・27、エレミヤ51・39、57、詩篇13・4,76・7、その他)。このことは『目ざめていること』により意味されていることを明らかにしている。

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P40

 

私に絶え間なく祈っていなさい。絶え間なく祈るとはあなたの前にいる私の現存に気づいていること。私の現存に気づいているとは目覚めていること。目覚めているとは光のうちにいて健全であることです。