教皇支配

あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる(マタイ16・18)

 

 

1.スウェーデンボルグ

2.教皇の無謬

 

 

1.スウェーデンボルグ

 

信仰8

 

真理から分離した信仰は法王の統治[教皇支配]とともに教会に入ってきて、これを専有したのである。なぜならその宗教の主要な安全弁は真理に対する無知であったからである。そうした理由からまた彼らは聖言を読むことさえも禁じたのである。なぜならそうでもしないとその聖徒たちは神として拝されることは出来なかったであろうし、その聖徒らに祈りを捧げることも出来なかったであろうし、偶像崇拝も、死骸や骨や墓が神聖視されて、金儲けのために利用されるほどにも定められることが出来なかったからである。このことから盲目的信仰はいかに途方もない誤謬を生み出すことが出来るかが明白である。

 

 

新しいエルサレムとその天界の教義305

 

教皇を主の代理として承諾しようとして教皇のために会議を通過した教令の結果、基督教世界は主の人間性は神的なものであることを承諾していない、(そのことが)他生における彼らの会話から(明らかにされている)(4738番)。

 

 

天界の秘義4738[2]

 

さらにこの真理については古代教会はそれを承認し、また原始基督教会もそれを承認したことを知らなくてはならない、しかしイザヤ書にバビロンの王について、『おまえは心の中で、私は天に昇り、私の王座を天の星の上にも上げ、集会の山に坐り、雲の高い所の上にも昇り、至高者のようにもなろうと言った』と言われているように、法皇権が全人類の霊魂を治める主権にさえ至るまでも昂進して、それ自身を高めてしまった後では、主の人間的なものからは神的なものは取り去られてしまったのであり、すなわち、主の神的なものと主の人間的なものとが区別されたのである。

 

 

天界の秘義4738[3]

 

 このことが或る会議でいかようにして布告されたかもまた私に啓示されたのである。或る霊たちが左手の前方の足の裏の面に私から少しく離れた辺りに現れ、共に語り合っていたが、しかし何について語り合っていたかは私は聞かなかったのである。そのとき私は、彼らが主の二つの性質について、すなわち、神的なものと人間的なものとについて布告がなされた会議を構成した者らの中の者であったと話されたのである。まもなく私は彼らと語り合うことを許された。彼らは以下のように言ったのである、即ち、その会議で最大の影響力を持って、位階と権威で他の者に優っていた者らが薄暗い室で共になり、そこで神的な性質のみでなく、人間的な性質も主に帰さなくてはならないと結論したのであるが、それはもしそうしないなら法皇の支配権を保持することが出来ないという理由からであったのである。なぜならもし彼らが、主御自身が言われているように、主は父と一つであられることを承認したなら、誰一人地上の主の代理者としては承認されることは出来なかったからである、なぜなら分派が当時起っていて、そのため、こうした発明品を強化しようとして彼らは聖言からそれを確認するものを探し求めて、他の者を説きつけたのである。

 

 

天界の秘義4738[4]

 

 その霊どもは尚付け加えて以下のように言ったのである、即ち、こうして彼らは天と地とを支配することが出来たのである、なぜなら彼らは聖言から主には天地の一切の力が与えられていることを得たからであり、その力は、もし主の人間的なものもまた神的なものであることが承認されたなら、いかような代理者にも帰せられることは出来なかったのである、なぜなら彼らは、誰一人自分自身を神と等しくすることは許されてはいないのであり、神的なもの[神]はそれ自身でこうした力を持ってはいるが、しかし人間的なものは、その人間的なものにその力が、後にペテロに与えられたように与えられなかった限り、その力は持っていないことを知っていたからである。彼らは更に言い続けた、即ち、当時の分派の者たちは見識の鋭い人間たちであって、彼らはその者たちをこのようにして沈黙させることが出来たのであり、またそのようにして法皇権も確認されたのである、と。この凡てから、こうした区別は単に主権のためにのみ発明されたのであり、そうした理由から彼らは主の人間的なものに与えられた天地の力は主の人間的なものもまた神的なものであることを示していることを知ろうとはしなかったことが明白である。主が天界の鍵を与えられたペテロはペテロを意味しているのではなく、仁慈の信仰を意味しており、それは、主のみから発しているため、主のみが持たれる力であることは、創世記22章の序言に見ることが出来よう。

 

 

神学論文集P104−P105

 

宗教上の事柄における最高教役者

 

その基礎は私たちの救い主であられる主を拝することであり、その基礎の上に、何らかの教会も今建てられないとするなら、私娼窟が建てられることでありましょう。(中略)

 

最高控訴院の二人の方は枢密院は宗教上の事柄における最高教役者であると言われました。その時私は何らお答えはしませんでしたが、しかしながら、もし彼らがこの見解を私に繰返されるなら、私は以下のことを申しましょう、その方たちは最高教役者であるどころか、私たちの救い主キリストのみが最高教役者であられるからには、最高教役者の代理人の代理である、と言いましょう、国会の上院、下院は主の代理人であり、それ故、その方に責任を持っており、枢密院は国会の上院、下院の代理人であり、単にそうしたものとしてのみ全権をもっており、従ってそれは最高教役者の代理人の代理人であります。ローマカトリック教会の法王は自らを最高教役者であると呼んでいることは傲慢から発しております、なぜなら彼は地上におけるキリストである、と人々に信じ込ませ、私たちの救い主、キリストの権能をことごとく自分自身に要求し、これを僭取しているからであります。

 

 

最後の審判とバビロンの滅亡64

 

「今後地上のそこから来る者たちの状態」。最後の審判が今や完成し、それにより凡ての物が主により秩序に帰し、内的に善い者は凡て天界に上げられ、内的に悪い者は凡て地獄に投げ込まれるゆえ、今後は、これまでのように、天界の下に、そして地獄の上に社会を形作ることも、また他の者と何かを共有することも彼らには許されない。彼らはそこに来ると直ぐに―それは各々の死後に起こるが―凡て分離され、霊たちの世界で或る時を過ごした後、彼ら自身の場所へ連れられて行くのである。それ故聖物を冒涜する者は、すなわち、天界を開き、罪を赦す権能を―しかしこれは主にのみ属する権能であるが―己がものとして要求し、教皇の布令を聖言と等しいものとし、支配を目的とする者はかの黒い海へ、または冒涜者の地獄が存在している深淵に直ちに投げ込まれる。しかし天界から私は以下のように言われた、その宗教を確信してこのような者になった者は死後の生活を心で否定している故、それを些かも顧みず、ただこの世の生活のみを顧み、かくて永遠に存続するはずのこの死後の彼らの運命を何ら顧みず、これを無意味なこととして嘲笑しているのである、と。

 

 

 

アタナシウス信条についてP54

 

主の人間的なものを神的なものから分離することはニカヤ会議において、法王のためになされたのであり、法王が地上の神と呼ばれるためであったのである。

 

 

 

 

2.教皇の無謬

 

カトリック新聞2013.6.9

 

教会が偉大な家族だと語った教皇(フランシスコ)は次のように話した。

「確かに、教会には人間的な側面があり、それは教会を構成する司牧者と信者によっています。誰にも欠点や不完全さ、罪があります。教皇にもそれらがあります。しかもたくさんあります。けれども素晴らしいことに、私たちは自分たちが罪人であることに気付くとき、神のいつくしみを見出すのです。神はいつも私たちをゆるしてくださいます。このことを忘れてはいけません。神は常にゆるしてくださるのです。