ありてあるもの

 

 

1.聖書

2.生命それ自体

 

 

 

1.聖書

 

ヨハネ1・1−18

 

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

 

 

 

2.生命それ自体

 

真の基督教39

 

「神は愛それ自体、智恵それ自体にて在す故、生命それ自体、あるいは生命自体に於ける生命である。」

ヨハネ伝に「言は神と偕にあり、神は言なりき。之に生命あり、この生命は人の光なりき」(ヨハネ1・1,4)と記されている。そこの神は神的愛を、言は神的智恵を意味し、神的智恵は生命であり、生命は、その真中に神エホバの在す霊界の太陽から発する光である。火が形成するように、神的愛は生命を形成する。火には二つの特質、燃焼と光輝があり、燃焼は熱を生み、光輝は光を与える。同様に愛には二つの特質があり、一は火の燃焼する特質に相応し、人間の意志を最も深く動かし、他は火の輝きに相応し人間の理解を最も動かすのである。そこから人間は愛と智恵を取得する。

 

 

天界の秘義3704[12]

 

 主は永遠から存在されたことは、予言者により語られた方は主であられ、そうした理由から、また神的真理は主から発したため、主は『聖言』と呼ばれたもうたという事実から認めることができ、そのことについてはヨハネ伝に―

 

 初めに聖言が在った、聖言は神とともに在り、神は聖言であった。聖言は初めに神とともに在った。凡ての物はかれにより作られ、かれがなくては作られた物は一つとして作られはしなかった。かれの中には生命があった、生命は人の光であった。そした聖言は肉となされて、わたしたちの間に住みたもうた、わたしたちはその栄光を、父の独り児の栄光としての栄光を見たのである(ヨハネ1・1−4、14)。

 

 『聖言』は神的なものから発しているところの、諸天界と地上の真理のすべてを意味している。

 

 

天界の秘義6880

 

「わたしはわたしは在るというものである」。これは宇宙の凡ゆる物の存在と発生とを意味していることは、『わたしは在る[わたしは存在している]』は存在であり、主のみが存在であられるため、それは主格で言われているという事実から明白である。『わたしは在る[わたしは存在している]』と二度言われているのは、すなわち、『わたしは在るというものである』と言われているのは、前のものは存在を意味し、後のものは発生を意味しているためであり、かくて前のものは『父』と呼ばれている神的なものそれ自身を意味し、後のものは『子』と呼ばれている神的な人間的なものを意味しているためである、なぜなら神的な人間的なものは神的なものそれ自身から発生しているからである。しかし主はその人間的なものの方面でもまた神的な存在またはエホバとなされたもうたとき、そのときは主の人間的なものから発出する神的真理は神的存在から発生した神的なものである。このことから以下のことを認めることが出来よう、すなわち神的存在はそれ自身をそこから発生してくる神的なものによらなくてはそれ自身を伝えることは出来ないのである、すなわち、神的な人間的なものは霊の聖いものである神的真理によらなくてはそれ自身を伝えることは出来ないのであり、神的な人間的なものは霊の聖いものである神的真理によらなくてはそれ自身を伝えることは出来ないのであり、このことは凡ゆる物は聖言により作られたと言われていることにより意味されているのである(ヨハネ1・3)。神的真理はそこからは何ものかが発生することが出来るようなものではないかのように人間には見えるのである、なぜならそれは、唇で発音されると消えて行く声のようなものであると信じられているからである。しかしそれは全然異なっているのである、即ち、主から発出している神的真理は真の実在であり、凡ゆる物はそこから発生し、また凡ゆる物はそこから存続しているほどの実在であるのである、なぜなら何であれ主から発出しているものはことごとく宇宙における真の実在であり、それが凡ゆる物が作られた手段である聖言と呼ばれている神的真理であるからである。

 

 

天界の秘義7004〔2〕

 

 主から神的真理は直接にまた間接に発出しており、直接に発出しているものは天使たちには全く理解されはしないが、間接に発出しているものは諸天界の天使に、また人間に適応しているのである、なぜならそれは天界を通り過ぎ、そのことによって天使の性質と人間の性質をつけるからであるが、しかしこの真理の中へもまた主は直接に流れ入られていて、天使も人間も間接にまた直接に導かれているのである(6058番)。なぜなら各々の物は、また凡ての物は最初の存在から発しており、その最初の存在がそこから派生しているものの中に間接的にも直接的にも存在し、かくて秩序の最も外なるものの中にも、その最初のものの中にも等しく存在するように秩序が定められているからである、なぜなら神的真理そのものは唯一の原質的なものであって、そこから派生しているものはそこから派生している継続的な形以外の何ものでもないからである。このことからまた神的なものは各々のまた一切の物の中にまた直接に流入していることが明らかである。このことからまた神的なものは各々のまた一切の物の中にまた直接に流入していることが明らかである、なぜなら凡ゆる物は神的真理から創造されており、神的真理は唯一の本質的なものであって(6880番)、かくて凡ゆる物の存在の源泉であるからである。神的真理〔神の真理〕はヨハネ伝に『聖言(ことば)』と呼ばれているものである―

 

 はじめに聖言があった、聖言は神と共にあった、神は聖言であった、すべての物はかれにより作られ、かれが無くては作られた物は何一つ作られはしなかった(ヨハネ1・1、2)。

 

こうした流入により主は摂理〔供え給うこと〕により普遍的なものにおいてのみでなく、また個々の凡ゆる物においても、否、凡ての物の中でも最も単一的なものにおいてさえ人間を導かれているのである。これらの理由から発言される物は神的な人間的なものから発出していると言われているのである。

 

 

天界の秘義7004〔3〕

 

 私は、主の直接的な流入が在るところにはまた間接的な流入が在り、かくて秩序の最初のものの中に在ると同じく秩序の最後のものの中にも在ることを天界から話されたが、またそれを生き生きと認めることも出来たのであり、また間接的な流入により、即ち、天界とそこにいる天使たちを通して遂行されるものは相対的には極めて僅少であることも、更に、主は間接的な流入によって天界を導かれると同時にその流入によってそこの凡ゆる物を関連づけられ、秩序づけられておられることも話され、認めることも出来たのである。

 

 

 

天界の秘義7678

 

いな、神的な善[神の善]から発出している神的な真理には、それを通して宇宙の凡ゆる物が創造されているほどの力が存在しているのである。ヨハネ伝の『聖言(ことば)』はこの真理を意味している―

 

 はじめに聖言(ことば)があった、聖言は神とともにあり、神は聖言であられた、あらゆる物はかれにより作られた(1・1、3)。

 

奇蹟がモーセにより行われたのはこのことから起っている、なぜならモーセは神的な真理[神の真理]を表象しているからである。聖言、または神的な真理はたんにエホバから発した言葉にすぎない、それがそのように為されなくてはならないという命令であると大半の人々から信じられてはいるが、しかしそれは、それから、またそれにより凡ゆる物が作られる本質的なものそれ自身であるのである。エホバから発出するかの存在(esse)が、従って凡ゆる物の発生(existere)が『神的な真理[神の真理]』により意味されるものである。このことは天使たちから説明することができるのであり、すなわち、天使たちからは仁慈と信仰とのスフィア[霊気]が発出しており、それは明らかに認められ、またそれは驚くべき結果を生み出しているのである、このことから主の神的善から発出する神的真理をやや考えることができよう。

 

 

天界の秘義9987

 

「これがあなたがかれらに行わなくてはならない[話さなくてはならない]言葉である」。(出エジプト記29・1)

 

これが秩序の法則を意味していることは『言葉』の意義から明白であり、それは神的な真理[神の真理]であり、引いては秩序の法則である(このことについては下記を参照)。『言葉』はその全般的な意義では口が語ったもの、または話しを意味しており、話しは言葉により発しられた心の思考[考え]であるため、それで『言葉』は考えられている事柄を意味し、そこから、原語では、現実に存在して、何らかの意義をもった物はことごとく『言葉』と呼ばれているのである。しかし『聖言(ことば)』は、すべて現実に存在して、何らかの意義をもった物はことごとく神的な真理[神の真理]から発しているという理由から、卓越した意義では神的な真理である。それゆえダビデの書には以下のように言われている―

 

エホバの御言葉により諸天は作られ、その御口の息により諸天の軍勢はことごとく作られた(詩篇33・6)。

 

ここでは『エホバの御言葉』は主から発出している神的な真理を意味し、『エホバの御口の息』はそこから派生している生命を意味し、『それにより作られた諸天とその軍勢の凡て』は神的な真理の受容体であるかぎりその天使たちを意味している。『諸天』が天使たちを意味していることは、天使たちが天[天界]を構成しているためであり、天使たちは神的な真理の受容体であるため、それで『天使』によりその抽象的な意義では主から発している神的な真理が意味され(8192番を参照)、またその同じ意義では『諸天の軍勢』も神的な真理を意味している(3448、7236、7988番を参照)。

 

[]ここからヨハネ伝の『聖言(ことば)』により意味されていることを認めることができよう―

 

初めに聖言(ことば)が在った、聖言は神とともに在った、神は聖言であった。凡ての物はかれにより作られ、かれがなくては作られた物は一つとして作られはしなかった。そして聖言は肉となり、わたしたちの中に住まわれた。わたしたちはその栄光を見まつった(1・1、3、14)。

 

 主がここに『聖言』により意味されていることは明らかである、なぜなら『聖言は肉となられた』と言われているからである。主は『聖言』であられる、なぜなら主は世におられたときは神的真理[神の真理]そのものであられ、世から去られたときは、神的真理は主から発したからである(9199、9315番に引用したところを参照)。

 

 

天界の秘義10182[]

 

 真理の力はことごとく愛の善から発していることは、力を物質的にしか考えていない者らによっては把握されることはできない、それでこのかんの実情のいかようなものであるかを述べなくてはならない。諸天界では力はことごとく主の神的な善[神の善]から発出している神的な真理[神の真理]から発しており、この真理から天使たちは力を得ているのである、なぜなら天使は主から発した神的な真理の受容体であるからである(1752,4295,8192番)。かれらがこの真理から得ている力により人間を人間から地獄を遠ざけることにより庇護しているのである、なぜなら一人の天使でも地獄から来ている一千の悪霊さえも征服しているからである。この力がペテロのかぎにより意味されているものであるが、しかしそこに『岩』と呼ばれているペテロにより愛の善から発した信仰の真理の方面の主が意味されているのである(創世記22章序言、3750、4738、6000、6073、6344、10087番を参照)、『岩』は信仰の真理の方面の主を意味しているのである(8581番)。

 

 

天界の秘義10182[]

 

神的な真理の力はヨハネ伝の『聖言』によってもまた意味されている―

凡ゆる物は聖言によって作られ、かれなしには作られた物は何一つ作られはしなかった(ヨハネ1・3)。

 

『聖言』が神的な善[神の善]から発出している神的な真理[神の真理]を意味していることについては、前を参照されたい(9987番)、それでまた主は世におられたとき御自身を神的な真理[神の真理]とされたのであり、そのことがまた『聖言は肉となられた』によっても意味されている(14節)。主がそのとき御自身を神的な真理とされた理由は主は凡ゆる地獄と戦って、それらを征服し、かくしてそこの凡ゆる物を秩序づけられると同時に、諸天界の凡ゆる物も秩序づけられるためであったのである(9715,9809,10019,10052番を参照)。

 

 

天界の秘義10182[]

 

善から発した真理には凡ゆる力があるが、反対に悪から発した誤謬には全く力がないことは他生では充分に知られている。そうした理由から世からそこへ来る悪い者は、説得的な信仰を剥奪され、同じく真理にかかわる知識も剥奪されて、その者の悪の誤謬に委ねられている。

 

 

天界の秘義10182[]

 

善から発した真理にはこうした力があることは、真理とその信仰とは単に思考にすぎないと考えている者らからは把握されることは出来ないが、それでも人間の意志から発したその思考はその身体の凡ゆる力を生み出し、もしそれが主により主の神的な真理により生気を与えられるなら、人間はサムソンの力でさえも持つであろう。

 

 

 

真の基督教224

 

(八)「聖言の言い尽くし難い力について」

 現今殆ど何人も真理の中に力のあることを知っていない。何故なら真理は単に或る権威を持った人の言葉として妥当性を持ち、従ってそれは単に唇の息、耳の音響に過ぎないと一般に想像されているからである。しかし、真理と善とは、霊界と自然界の凡ゆる物の原理であり、それによって宇宙が創造され、維持される手段であり、またそれによって人間が造られた手段である。(中略)

そして宇宙はこれによって創造されたゆに、またこれによって維持されている。何故なら、存続は不断の存在であり、維持は不断の創造であるからである。

 

 

 

 

真の基督教777

 

主は聖言にて在すことはヨハネ伝の以下の記事によって明白である。「太初に言あり、言は神と共にあり、神は言なりき。而して言は肉体となり給えり」(1・1、14)。この記事の言もまた神的真理を意味している。何故なら言は凡ゆる基督教会が神的真理なる活ける水を汲み出す源泉であるから。然し神的真理は、聖言の自然的な意義の中には、謂わば雲の中におかれ、その霊的意義と天的意義によって、栄光と権能とをもって存在する。聖言の中には、自然的、霊的、天的の三つの意義がある(聖書及び十誡に関する章を参照)。それ故ヨハネ福音書の言は神的真理を意味することは明白である。ヨハネはまたその第一書簡にこれと同一の事を証している。「神の子すでに来りて我らに真のものを知る理解を賜ひしを我らは知る、我らは真の者に居り、その子イエス・キリストの内に居るなり」(5・20)。主が極めてしばしば「真に(アーメン)我は汝らに告ぐ」と語り給うたのはこの理由によるのである。何故ならヘブル語ではアーメンは真理を意味するからである。彼はそのアーメンにて在すことは黙示録(3・14)に見ることが出来よう。彼はまた真理である(ヨハネ14・6)。学者達はヨハネ伝1・1の言を如何ように理解されるかと尋ねられると、それは聖言の卓越性を意味すると語るが、聖言の卓越性とは神的真理以外の何であろうか。これらの考察によって主は聖言によって再び来り給うことが明らかである。

主は身体をもって現れ給わない理由は、主はその昇天以来、その栄化せる人間性の中に在し、この中に在って主はその霊的な眼の開かれていない者には何人にも現れ給うことは出来ないということである。それ故彼は悪い者、謬った者によっては、即ち主がその左手に置き給うた山羊によっては、見られることは出来ない。それ故主は自らをその弟子達に示し給うた時、先ず彼らの眼を開き給うたのである。何故なら、「而して彼らの眼開け、イエスなるを認む、而してイエス見えずなり給う」(ルカ24・31)と録されているからである。

主の甦りの後墓を訪れた婦人達も同様であった。彼らは墓に座す天使達を眺め、彼らと共に語ったが、然し何人も肉体の眼を以ってしては天使を見ることは出来ない。主はペテロ、ヤコブ、ヨハネの前に変貌し給うた際、彼らはその身体の眼でその栄化せる人間性における主を眺めたのではなかった。何故なら我々は「彼らいたく睡気さしたり」(ルカ9・32)と告げられているから。彼らは主を霊の眼を以って眺めたのであり、目が覚めると、夢を見たのだと考えた。それ故主は天の雲に乗り身体を以って現れ給うであろうと想像することは無意味である。主は主から発し、主そのものにて在す聖言によって現れ給うであろう。

 

 

 

聖書2

 

初めに聖言が在った、聖言は神とともに在った、神は聖言であられた、かれ(聖言)の中に生命が在った、生命は人の光であった(ヨハネ1・1、4)。

 

ここの『聖言』は神的真理の方面の主[主の神的真理]を意味し、その中にのみ生命があり、また光があるのである。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P45

 

 先生は大抵、口を開かず、ただ何かを教えたり、使徒たちの間違った考えを訂正したり、気の毒な人々を慰めようとするときだけ、話をする。イエズスは「みことば」であるが、決しておしゃべりではない。だれよりも忍耐強く親切である。

 

 

真の基督教263

 

如何にして、主は聖言にて在し給うかは僅かな者にしか理解されていない。何故なら、彼らは主は聖言によって、人類を照示し、教え給うことは出来るけれど、しかも聖言とは呼ばれることは出来ないと想像しているからである。

 

しかし、人間は各々彼自らの意志と彼自らの理解であり、かくして彼は他の人間から区別されることが理解されねばならない。しかして、その意志は愛の受容器官であり、それ故その愛の凡ゆる善の受容器官であり、理解は智慧の受容器官であり、それ故その愛の凡ゆる善の受容器官であり、理解は智慧の受容器官であり、それ故その智慧の凡ゆる真理の受容器官である故、各人は自分自身の智慧であり、あるいは自分自身の善と自分自身の真理であることが推論される。

 

その他のいかなる理由によっても人は人ではない、またこれ以外の如何なるものも人ではない。主について言えば彼は愛そのもの、智慧そのもの、また善そのもの、真理そのものであって、主は聖言のすべての善と真理を成就し給うことによって、かかる者になり給うたのである。何故なら、真理のみを考え、また語る者は、その真理となり、善のみを欲し、また行う者は、その善となるからである。かくして主は自然的な意義と霊的な意義における聖言の凡ゆる神的善と真理を成就することによって、善そのもの、真理そのものとなり、かくして聖言と成り給うたのである。

 

 

真の基督教261

 

「言は肉体となりて、我らの間に宿りたまへり、我らその栄光を見たり、実に父の独子の栄光にして、恩恵と真理とにて満てり」(ヨハネ1・14)。

 

肉となることは究極的なものに於ける聖言となることである。

 

 

マザー・テレサ/愛と祈りのことば/PHP文庫/P166

 

 多くの街の本当に貧しい界わいに私たちが住み、働いていて、みすぼらしい小屋に住んでいる人々と親しくなった時に、驚いたことがあります。それは、彼らが、飢えで死にかけていたり、裸で着るものがない時でさえも、彼らが第一に求めるのは、パンや衣服ではないということです。何と、彼らは、神のみ言葉、キリストについて教えてくださいと頼むのです。

 人々は神を求めています。そのみ言葉を聞きたいと切望しているのです。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P153

‘90・5・12

 

あなた方の世代は私の目に不快な 我が思いとは異なるさまざまな像を造り出した、そしてこの造り上げてしまったバビロンに私は降り 殆どの被造物が囚われているのを見い出した、そう、悪魔から神不在の精神、合理主義と非道を養われ、虜になっている、私にこのすべてが見えないだろうか?

(中略)

この清めの後には一つの言葉:  と呼ばれる、私自身の言葉を あなた方は話しているであろう。 神の愛 ♡ 

 

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/2卷P509/126・9

 

神の思惟を訳出するロゴスであるわたしには、そう言うことができます。

 

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P45

 

 先生は大抵、口を開かず、ただ何かを教えたり、使徒たちの間違った考えを訂正したり、気の毒な人々を慰めようとするときだけ、話をする。イエズスは「みことば」であるが、決しておしゃべりではない。だれよりも忍耐強く親切である。