ありてあるもの

 

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(ヨハネ1・1)

 

 

1.聖書より

2.スウェーデンボルグ

3.サンダー・シング

4.ヴァッスーラ

5.マリア・ワルトルタ

6.グリニョン・ド・モンフォール

 

 

 

1.聖書より

 

出エジプト3・13−14

 

モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」

神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」

 

 

ヨハネ8・24

 

だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。

 

 

ヨハネ8・28

 

そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。

 

 

ヨハネ13・19

 

事の起こる前に、今、行っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。

 

 

ヨハネ18・4−8

 

イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」

 

 

黙示録1・8

 

神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」

 

 

黙示録1・17,18

 

わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。すると、その方は右手をわたしの上に置いて言われた。「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。

 

 

黙示録4・8−11

 

この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りにも内側にも、一面に目があった。彼らは、昼も夜も絶え間なく言い続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方。」玉座に座っておられ、世々限りなく生きておられる方に、これらの生き物が、栄光と誉れをたたえて感謝をささげると、二十四人の長老は、玉座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝し、自分たちの冠を玉座の前に投げ出して言った。「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです。」

 

 

イザヤ52・6

 

それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう。それゆえその日には、わたしが神であることを、「見よ、ここにいる」と言う者であることを知るようになる。

 

2.スウェーデンボルグ

 

真の基督教19

 

エホバは「我在り」と存在を意味することは良く知られ、神は最古代からそのように呼ばれたことは、創造の書または創世記によって明らかである。

 

 

 

出エジプト3・14

 

神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」

 

 

 

ヨハネ8・23,24

 

イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」

 

 

 

天界の秘義6880

 

「わたしはわたしは在るというものである」。これは宇宙の凡ゆる物の存在と発生とを意味していることは、『わたしは在る[わたしは存在している]』は存在であり、主のみが存在であられるため、それは主格で言われているという事実から明白である。『わたしは在るというものである』と言われているのは、前のものは存在を意味し、後のものは発生を意味しているためであり、かくて前のものは『父』と呼ばれている神的なものそれ自身を意味し、後のものは『子』と呼ばれている神的な人間的なものを意味しているためである。なぜなら神的な人間的なものは神的なものそれ自身から発生しているからである。しかし主はその人間的なものの方面でもまた神的な存在またはエホバとなされたもうたとき、そのときは主の神的な人間的なものから発出する神的真理は神的存在から発生した神的なものである。このことから以下のことを認めることができよう。すなわち、神的存在はそれ自身をそこから発生してくる神的なものによらなくては何人にも伝えることはできないのである。すなわち、神的なものそれ自身は神的な人間的なものによらなくてはそれ自身を伝えることはできないのであり、神的な人間的なものは霊の聖いものである神的真理によらなくてはそれ自身を伝えることはできないのであり、このことは凡ゆる物は聖言により作られたと言われていることにより意味されているのである(ヨハネ1・3)。神的真理はそこからは何ものかが発生することが出来るようなものではないかのように人間には見えるのである、なぜならそれは、唇で発音されると消えて行く声のようなものであると信じられているからである。しかしそれは全然異なっているのである、すなわち、主から発出している神的真理は真の実在であり、凡ゆる物はそこから発生し、また凡ゆる物はそこから存続しているほどの実在であるのである、なぜなら何であれ主から発出しているものはことごとく宇宙における真の実在であり、それが凡ゆる物が作られた手段である聖言と呼ばれている神的真理であるからである。

 

 

 

天界の秘義7636

 

 「エホバ」の名は「存在している」を意味し、かくて凡ゆる物の存在と発生との源泉であられ、かくてただ一人のものでないわけにはいかないかたを意味しているためである。

 

「エホバ」は主を意味していることについては、1343,1736,2921,3023,3035、5663,6303,6905,6945,6956番を参照し、これらの言葉により主はただ一人の神であられることが意味されていることについては、7401,7444,7544,7598番を参照されたい)。

 

 

 

天界の秘義10579[6]

 

なぜなら『わたしはわたしはいます』はエホバであるからである(出エジプト3・14)

 

 

天界の秘義9167

 

「主エホビ」

祈願がささげられるとき、「ああ、善にましますエホバよ」

 

 

 

天界の秘義624

 

教会が無い所には『神』が用いられる言葉であり、教会が在る所には『エホバ』が用いられている。例えば教会が存在しなかった創世記第一章には『神』と言われているが、第二章には教会が存在した時、『神エホバ』と言われているのである。『エホバ』という名は非常に聖くて、教会にのみ属しているが、しかし『神』という名はそれ程聖くはないのである。なぜなら神々を持たない国民は無く、それ故神という名はそれ程聖くはなかったからである。たれでも真の信仰を知らない限り『エホバ』という名を語ることは許されなかったが、しかしたれでも『神』という名は語っても良いのである。

 

 

 

天界の秘義1735

 

「いとも高い神が祝福されますように[ほめたたえられますように]」(創世記14・20)。これは主の内なる人を意味していることは内なる人についてすぐ前に言われたことから明白である。古代教会では、『高いもの』は内なるものを表象し、それでそのことを意味し、かくて『いとも高い者』は最も内なるものを意味したという理由からエホバは『いとも高い』神と呼ばれたもうたのである。そこから古代教会の礼拝は高いところに、山に、岡に行われたのである。最も内なるものもまた外的なものと最も外なるものに対しては、最高のものが低いものと最低のものとに持っている同じ関係を持っているのである。もっとも高いものは、または最も内なるものは愛の天的なものであり、または愛そのものである。エホバは、または主の内なる人は、愛の天的なものそのものであり、すなわち、愛そのものであったのであり、この愛には純粋な愛の属性いがいには、かくて全人類に対する純粋な慈悲の属性以外にはいかような属性も適合していないのであり、それは凡ゆる者を救って、かれらを永遠に幸福にし、かれらにその持っている凡ゆるものを与えようと欲するといったものであり、かくて純粋な慈悲から、進んで従って来ようとする者をことごとく天界に、すなわち、それ自身に、愛の強い力により引きよせようと欲するといったものである。この愛そのものがエホバである。

 

[2]愛を除いては何ものにも存在が属性づけられることはできない。凡ゆる生命の存在そのものが、すなわち生命そのものがこの愛から―それが愛の中に、または愛そのものにぞくしているため―発している。そしてエホバのみが愛であられるため、かれのみが生命の存在であられ、または生命そのものであられるため、一切のものはことごとくそこからその存在と生命とを得ているのであり、また何人もエホバのみによらなくては、すなわち主のみによらなくては、自分自身からは存在し、生きることはできないため、人間が人間自身から生きているように人間自身に思われているのは感覚の妄想[迷妄]である。天使たちは主の愛の中に生きているため、主の生命の存在そのものの中に生きているからには、かれらは自分たちが自分たち自身から生きているのではなくて、主から生きていることを明らかに認識しているのである。しかしそれでもかれらにはかれらはかれら自身から生きているという外観が言いつくしがたい幸福とともに他の凡ての者にもまさって与えられているのである。それでこれが主の中に生きることであって、それはわたしたちが主の愛の中に、すなわち、隣人に対する仁慈の中に生きない限り、決してありえないのである。

 

 

エホバの日

 

天界の秘義10609

 

主が来られること。そのとき教会の剥奪が起こる。

 

 

 

3.サンダー・シング

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P438

 

人の知識に限りがあり、つける名が不完全なために、神は自らの御名を明かすことができず、ただ「わたしは在る」とのみ称せられたのである。

 

 

4.ヴァッスーラ

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P163

‘88・3・19

 

イエス、みもとに参りました。

 

ああ ヴァッスーラ、書くことに疲れてしまわないように。 今日は飢えた仔羊たちを養う、明日はあなた方を一致させ 私の神秘を知らせる、私を喜びで満たし 愛して証しする全ての人に聖なるロザリオの祈りを伝えなさい、

 

全てのキリスト者にですか?

 

♡ そう 愛する者よ、私が母を尊ぶようにあなたも尊ぶのです、あなたの主が喜ぶ仕方で行う十字架の道行も 伝え示すのです、私を証しする全ての人に、

 

全てのキリスト者に、主よ?

 

♡ そう 私を愛するすべての人に、私、主は、いかなる教会の分裂も望まない、あなた方は、私のために、一致し 私の名のもとに私を愛し、従い 証しするのです、私が愛するように互いに愛し合い、一致し 一人の牧者のもとに一つの群れとなるのです、あなた方皆が知っているように 私はペトロを選んだ、権威を与えて、皆が知るように 天の王国の鍵をペトロに渡した、ペトロには私の仔羊 そして羊の面倒を見て、これらを養うように頼んだ、この権威は私が与えたものだ、私の望みをあなた方に変えてもらいたくはなかった、集まりなさい 愛する者たちよ、私の教会を強化し、私が何を望むかを 我がうちに探し求め、あなた方のでなく 私の利益を求めるように、私の栄光を求めなさい、一致することにより私の栄光は讃えなさい 被造物よ、我がからだに活力を与えて、 あなた方皆を愛している ♡ 耳を開いて十字架からの叫びを聞きなさい! ♡ ヴァッスーラ あなたの家がどこにあるか 覚えているか? そう、私の聖心の中にある、来なさい、さあ 愛する者よ、待っている、限りなく愛している

 

お愛しします、主よ、救い主。どうぞお喜ばせする方法をお教えください、あなたとともにいて 用いていただけますように。

 

あなたを教えているところだ、しなやかなまま 私の利益にだけ注意を向けていなさい  ♡ どのときも、「私たち」、私はあなたのために、あなたは私のために、あなたの傍らに私はいる(I Am)、祈りなさいヴァッスーラ 霊魂の救いのために、このメッセージのためにあなたを創造した。 ♡♡♡

 

ありがとうございます、イエス。

 

5.マリア・ワルトルタ

 

マリア・ヴァルトルタ/天使館/第5巻上/P53

 

あなたなのですか?」

わたしは在るという者です。わたしの奇跡とわたしの教えは、わたしは在るという者であることを語っています」。

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P185

 

在って在るもの』は、の昔のであり、はモーセに、自らをこの名で呼び、それはモーセによって、をこう呼ぶようにと、その民に教えられた。の全永遠、力、知恵はこの名に光り輝いている。

 

 在って在るもの、すなわち永遠。には過去は無い。未来も無いだろう。は在る。永遠の現在。

 

 たとえ人間知性の、その中でも最も力ある知性であっても、たとえ有力者、人間の中でも最も有力であっても、人間的傲慢を免れた純粋な思考と純粋な願望をもって、のこの永遠性に思いを凝らすなら、なるものと彼であるもの、すなわち一切と無、永遠と一時的存在、不変と無常、計り知れなさと有限を彼に感じさせるいかなる有効な学習、瞑想、観想もないと感得するはずだ。(そこから)謙遜が生まれ、礼拝されるべき神的存在に相応する礼拝が生まれる。なぜなら、この一切の前ではまた、この一切によって無から創造された一切を前にしては、塵の粒子、無である人間は、永遠から存在し、その無限の愛を注ぐために、人間たちにかくあれと望むあの方の保護の光の下に立っていると感じるからだ。

 

 

 

6.グリニョン・ド・モンフォール

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳/157

 

さいごに、有りて有る者は、無くて無い者のところにおいでになって、無くて無い者を有りて有る者に、すなわち神にしようとお望みになりました。有りて有る者は、ご自分を、おとめマリアに与えることにより、ご自分をまったく彼女に隷属させることによってこの世紀の大偉業を、めでたく完成されたのです。―永遠の昔からそうだったように、時間と空間の規制を受けてからも依然として、有りて有る者であることを失わないで。

 だから、マリアをとおしてこそ、わたしたちも、たとえ自分が無くて無い者ではあっても、マリアにあってすべてをもっているのだから、恩寵と栄光とによって、まちがいなく、神に似た者となることができるのです。