この世の楽しみ

不潔

 

1.トマス・ア・ケンピス

2.アグレダのマリア

3.人間はこれを楽しまなくてはならない、なぜなら人間は死ぬときは、全く死んでしまうのだから

 

 

1.トマス・ア・ケンピス

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・10・1

 

世間のあらゆる楽しみはむなしいか、そうでなければ汚らわしい。しかし霊魂の喜びばかりは楽しく正しい。というのは、それは善徳から生じ、神によって清い霊魂に注ぎこまれるからである。

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・12・4

 

 そればかりか、生きている間ですら、その楽しみのうちにありながら、悩みや倦怠や恐れを覚えずにはいられないのである。

 なんとなれば、かれらの楽しみを求めようとしたそのことさえ、しばしばかれらに悲しみの苦罰を与えるからである。

 かれらは、気ままに楽しみを追い求めたのであるから、不安と悩みとを味わわずにいられないのも当然なのである。

ああ、これらの楽しみは、すべていかにはかなく、むなしく、放縦(ふしだら)で、恥ずべきものだろう!

 しかもかれらは酔って盲目になっているので、それがわからない。そしておろかな畜生のように、はかないこの世のつまらない楽しみを追うて、そのため霊魂を滅ぼしてしまうのである。

 だからわたしの子よ、「あなたは自分の情欲に従わず、自分の我意を捨てよ。」(集会の書18・30)

「主に在って喜べ。そうすれば主はあなたが心に願うことを、あなたにお与えになるだろう。」(詩篇36・4)

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・12・5

 

 だからあなたは、もしほんとうの楽しみを味わい、いっそう豊かな慰めをわたしから受けたいと思うならば、いっさい世間の物事を軽んじ、あらゆる卑しい楽しみを捨てるがよい、そうすればあなたは祝福をこうむり、豊かな慰めを与えられるだろう。

 そしてあらゆる物質的慰めから離れれば、離れるほど、あなたはわたしの慰めのますます甘美で力強いことを知るだろう。

 けれども、その境地に達するには、まず多少悲しみをなめ、骨を折って戦わなければならない。

 抜き難い習慣は、あなたに抵抗するだろう。しかしそれにはいっそうよい習慣をもって打ち勝とう。

 からだも恨み歎くだろう。けれども精神の熱烈な力をもってこれを抑えよう。

 あの老獪な蛇はあなたを誘い悩ますだろう。しかし祈りをもってこれを追払おう。その上わけても有益な仕事にいそしむことによって、その入ってくる口をふさぐようにしよう。

 

 

2.アグレダのマリア

 

アグレダのマリア/神の都市/P170

元后の御言葉

 

 私の娘よ、主が私から姿を消されたのは、私が悲嘆の涙にくれながら主を追い求め、ついに主を発見し、再び喜び、豊富な実を得るためでした。汝も同様に主をしっかりと抱きしめ、決して見失わないように熱心に主を探求しなさい。無限の智慧なる主は、私たちを主の永遠の幸福に至る道に導きましたが、そこまで行き着くかどうか私たちが疑うこともご存知です。疑っても最終の目的地に達したいという希望と、達せないのではないかという怖れがある限り、最大の邪魔者である罪を一生嫌悪することになります。この怖れ、不安、嫌悪は信望愛や自然な理解力に加えて必要です。主を忘れないように。主のおられない時にはそのことに気付くように。主を忘れると、たくさんのこの世の宝物やごまかしの楽しみを自分の物とし、それを自分の最終目的にします。この危ない愚行に注意しなさい。この世のあらゆる楽しみは気違いであり、この世が笑うことは悲しみであり、官能的快楽は自己欺瞞であり、心を酔わし、本当の智慧を壊す愚であることを弁えなさい。主を完全に抱くと主以外の何物にも喜べないのです。

 

 

 

3.人間はこれを楽しまなくてはならない、なぜなら人間は死ぬときは、全く死んでしまうのだから

 

天界の秘義7352

 

「川は蛙を這い出させるでしょう」。これは、これらの誤謬から幾多の理論が発生するであろう、を意味していることは以下から明白である、即ち、『エジプトの川』の意義は誤謬であり(6693、7307番)、『蛙』の意義は(前の7351番のように)理論である。『蛙』が理論を意味していることは、彼らは水の中にいて、盛んに騒がしい音を立て、鳴き、また不潔な物の中にいるためである。単なる誤謬そのものから発した理論のいかようなものであるかを若干の例により説明しよう。凡ゆる物は神的なもの[]から発生しており、自然は神的なものが働く媒介的な手段であるのに、凡ゆる物を自然に帰して、殆ど何ごとも神的なものに帰しはしない人間は単なる誤謬そのものから論じるのである。人間は獣のようなものであって、単に考えることが出来るため、獣よりは完全であるに過ぎない、それで獣のように死んでしまうと信じ、かくして信仰に属した思考と愛に属した情愛とを通して人間が神的なものと連結していることを否定し、そこから人間の復活と永遠の生命を否定する者、こうした人間は単なる誤謬そのものから論じており、こうした人間は誤謬そのものから語っているのである。地獄は存在しないと信じている者も同様である。そしてまた人間の得る一切はこの世の生命の歓喜であり、それで人間はこれを楽しまなくてはならない、なぜなら人間は死ぬときは、全く死んでしまうのだから、と信じている者も同じである。一切の物は自分自身の才智に、また運にかかっていて、神の摂理には―その全般的なものを除いては―かかってはいないと信じている者は単なる誤謬そのものから論じているのである。また宗教は単純な者を拘束する以外には無用の長物であると信じている者もまた同じである。聖言は神的なものではないと信じる者らは特に誤謬そのものから論じているのである。約言すると、真理の神的なものを全く否定してしまう者らは誤謬そのものから論じるのである。