記憶知に対する情愛
ハガル/
天界の秘義2675
「ハガルに与えた」。 これはその生命に植えつけることを意味していることは、『ハガル』の意義が外的な人の生命であることから明白である(1896、1909番)。外的な人の生命は記憶知の情愛[記憶知を求める情愛]であり、それが『エジプト人ハガル』により、とくに意味されているのである。霊的なものになりつつある者たちにあっては、善と真理とは記憶知の情愛の中に主により植えつけられるが、しかもそのことはかれらが合理的なものになり、霊的なものになるという目的のために、またその用のために、善いものと真のものとを知り、学ぶことを欲するためである。なぜなら記憶知の情愛[記憶知を求める情愛]は、それを通して、霊的なものがその中に存在している合理的なものが生まれてくる母であるからである(1895、1896、1902、1910番)。同じようなものが実に主からすべての者のもとに流れ入っているが、改良されることができる者たちを除いてはたれ一人それをその目的のために、また、その用のために受けはしないのであり、改良されることができる者たち以外の者はそれを無数の他の目的と他の用のために行っており、自分自身と世とを顧慮しているのである。
天界の秘義3049
「かれの主人の善いものはことごとくかれの手のうちに在った」。これは自然的な人におけるこれらの知識のもろもろの善と真理とを意味していることは以下から明白である、すなわち『かれの主人の善いものはことごとく』の意義は善のみでなく真理であり―なぜなら真理はそれが善から発しているため、それ自身では善であり、真理は善の形であり、すなわち、善が知的に認識されるように形作られるとき、それは真理と呼ばれるからである―また『手』の意義は力であり(878番を参照)それで『かれの手の中に』はかれがもっていたものを意味している。全般的な記憶知はそれ自身では善ではなく、また生きてもいない、それらを善であるようにさせ、また生かすものはその記憶知の情愛[その記憶知に対する情愛]である、なぜならこの情愛が在るとき、記憶知は用のために存在するからであり、それはたれ一人いかような記憶知または真理によってもそれが何らかの用に役立たない限り、感動を受けはしないし、用が記憶知または真理を善となし、用のあるがままに善もあるからである。
天界の秘義3264
「サラの下婢、エジプト人のハガルがアブラハムに生んだところの」。これは記憶知の情愛[記憶知に対する情愛]へ注がれる神的な流入から霊的な人が生まれることを意味していることは以下から明白である、すなわち、『生むこと』の意義は存在するようになることであり(2621、2629番)、『エジプト人ハガル』の表象は外的な人の生命であり(1896、1909番)、『下婢[下女、女中]』の意義は外的な人のものであるところの記憶知と知識とに対する情愛である(1895、2691番)。『サラの下婢』と言われているのは、サラにより主の神的な真理が表象され、それに記憶知に対する、また真理の知識に対する情愛が服従しているためである。イシマエルにより霊的な人が表象されているため、『サラの下婢、エジプト人ハガルがアブラハムに生んだところの』というこの言葉により、記憶知に対する情愛へ注がれる神的流入から霊的な人が生まれたことが意味されていることが明白である。
天界の秘義3264[2]
人間の合理的なものはこのようにして生まれることについては189、1896、1902、1910、2094、2557、3030、3074番を参照されたい、従って霊的なものはこのようにして生まれるのである、なぜならこのことは合理的なものの中にのみ可能であるからであり、それ故霊的な人と合理的な人とはほとんど同一であって、霊的な者たちは単に理性の性質とその理性から由来してかれらの間に行きわたっている生命の性質とに従ってかれら自身の間で相違しているのみである。かれらが生まれることまたは再生することはいくたの知識の序愛へ注がれる神的な流入から発していることもまた前に見ることができよう(1555、1904、2046、2063、2189、2675、2691、2697、2979番)。イシマエルについて前に述べられもしまた示されもしたことを参照されたい、すなわち、かれにより未だ神的なものでなかったところの主の最初の合理的なものが表象され(1893番)、後に真に合理的なものが、または霊的なものが表象され(2078,2691番)、そのことにより主の霊的な教会が表象されたのである(2699番)。