ハガル

記憶知に対する情愛

 

天界の秘義1896

 

 「その名はハガルであった。」これは外的なまたは自然的な人の生命を意味していることはこれまでに言われたことから、また『他国人』または『宿る者[滞在人]』という『ハガル』の意義からも認めることができよう。他国人は教えを受けねばならない者を表象し、宿ること[滞在すること]は、前に示されたように(1463番)、教えを受けることを、また生命の原理を表象したのである。ここに『その名はハガルであった』と言われているように、聖言の中でたれかの名前が述べられているときは、それはその名前の中に注意しなくてはならない何ごとかが含まれているということを意味している、なぜなら『名を呼ぶ』ことは(前の144、145、340番に示されたように)人間の性質を知ることを意味しているからである。聖言では一音節でも原因なしには、または内意における何か実際的な事柄の意義なしには記されてはいないのである。

 

 

天界の秘義1920

 

 「ごらんなさい、あなたの女中はあなたの手の中にあります。」これはみごもった合理的なものが善に接合された真理の情愛の力の中に[支配下に]あったことを意味していることは『手』の意義が(前の878番に説明された)力であり、『エジプト人ハガル』の意義が(これもまた前に述べたが)記憶知の情愛であることから明白である。内なる人が外的な人のいくたの記憶知の情愛の生命の中は流入することにより合理的な者がみごもった後では、そのときはまた『女中[下婢]』により、胎の内にあったかのかれんな合理的なものが意味されているが、しかしそれが生まれて、成長したときは、以下の記事にとり扱われているイシマエルにより表象されるのである。主は主の内にあった合理的なものに対する無上の支配権を持たれたことは、またそれを主御自身の力により征服されたことは、やがて言われることから見られるであろう。

 

 

天界の秘義1960

 

『ハガル』は外的な人における記憶知の情愛の生命を意味していることは前に言われ(1895、1896番)、

 

 

天界の秘義2675

 

「ハガルに与えた」。 これはその生命に植えつけることを意味していることは、『ハガル』の意義が外的な人の生命であることから明白である(1896、1909番)。外的な人の生命は記憶知の情愛[記憶知を求める情愛]であり、それが『エジプト人ハガル』により、とくに意味されているのである。霊的なものになりつつある者たちにあっては、善と真理とは記憶知の情愛の中に主により植えつけられるが、しかもそのことはかれらが合理的なものになり、霊的なものになるという目的のために、またその用のために、善いものと真のものとを知り、学ぶことを欲するためである。なぜなら記憶知の情愛[記憶知を求める情愛]は、それを通して、霊的なものがその中に存在している合理的なものが生まれてくる母であるからである(1895、1896、1902、1910番)。同じようなものが実に主からすべての者のもとに流れ入っているが、改良されることができる者たちを除いてはたれ一人それをその目的のために、また、その用のために受けはしないのであり、改良されることができる者たち以外の者はそれを無数の他の目的と他の用のために行っており、自分自身と世とを顧慮しているのである。