汚れた霊は

マタイ12・43

掃除する

 

マタイ12・43−45

 

汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」

 

ルカ11・24−26

 

 

天界の秘義3142[3]

 

 ダビデの書には―

 

 あなたはエジプトからぶどうをもってこられた、あなたは諸国民を追い出されて、それを植えられた、あなたはその前を掃かれて、その根を根づかせられた、かくてそれは地を満たした(詩篇80・8、9)

 

 ここでは最高の意義では主がとり扱われたもうており、『エジプトからとってきたぶどう』は記憶知から発した真理であり、『諸国民を放逐すること』はいくたの悪から清めることであり、『その前を掃くこと』はいくたの善が満ちるように用意することである。その対立した意義で『家を掃くこと』はまた自分自身から凡ゆる善と真理とを剥ぎ取り、かくて悪と誤謬とに満ちている人間にも言われている。例えばルカ伝には―

 

 汚れた霊は、休息を得ないで、言う、わたしは自分の出て来た家へ帰ろう、と。かれは来ると、それが掃かれて、飾られているのを見る、それで、かれは行って、自分よりも更に悪い七つの他の霊を連れてきて、かれらは中に入って、そこに住む(ルカ11・24−26、マタイ12・43−45)。

 

 

天界の秘義4744[3]

 

『不潔な霊』人間における生命の不潔なものを、またかれのもとにいる不潔な霊どもを意味している、なぜなら不潔な霊どもは人間の生命の不潔なものの中に住んでいるからである、『乾いた所』、または水のない所は真理が全くない所を意味し、『空ろな家[空家]』はさらに不潔なもの、すなわち、悪から発した誤謬に満たされている人間の内部を意味している。

 

 

天界の秘義5023[2]

 

人間の自然的な心と合理的な心とが『家』と呼ばれていることは、以下の記事から明白である―

 

(ルカ11・24−26)。

 

ここの『家』は自然的な心を意味しており、その中に、夫と妻であるところの善と真理とがなく、娘と息子であるところの善と真理との情愛[善と真理に対する情愛]がなく、下婢と下男であるところの確認するようなものもないときは、『空いて、掃かれている家』と呼ばれるのである。その人間その者が『家』であるのは、合理的な心と自然的な心とがその人間を作るからであり、そしてこれらのものがないなら、すなわち、善と真理が、それらのものの情愛が、その情愛に仕えるものがないなら、かれは人間ではなくて、獣なのである。

 

 

天界の秘義7045

 

もしこの愛が霊的な、また天的な愛と呼ばれている内なる愛を欠いているなら、内なるものを欠いた外なるものの中にいたかの民族の場合がそうであったように、それは汚れたものとなるのである。『内なるものを欠いた』と言われているが、そのことにより真理を何ら承認しないことが、善に対する情愛が何ら無いことが、かくて信仰が何ら無いことが、仁慈が何ら無いことが意味されているのである、なぜならこれらのものは内なる人のものであって、そこから外なる善と呼ばれている仁慈の幾多の活動が発出しているからである。信仰と仁慈とを欠いてはいるものの、幾多の悪と誤謬とに満ちているこの内なるものは、主からは『空しい』と呼ばれ(マタイ12・43−45)、そこから『内なるもののない外なるもの』と言われてるのである。

 

 

 

啓示による黙示録解説160

 

誤謬と悪以外には何ものも宿っていない人間は、聖言では『空しい』と言われている(例えばマタイ12・44その他)。ここから真理と善とを内に宿した人間は『完全である[充分である]』と言われている。

 

 

 

 

 

天界の秘義8394

 

人間は自分自身を点検して、己が罪を承認し、悔改めを為した後では、生涯の終わりまで善の中に絶えずとどまらなくてはならない。しかしもしかれが後になってその以前の生命へ再び落ち込み、それをかき抱くなら、かれは冒涜の罪を犯すのである、なぜならかれはそのときに善に悪を連結し、従ってその後の状態は、主の聖言に従って、以前の状態よりもさらに悪くなるからである。

 

 

黙示録講解257(7)

 

 マタイ伝には―

 

その不潔な霊はその霊自身よりはさらに悪い七つの他の霊を取り、そこに住むであろう(12・45、ルカ11・26)。

 

ここには冒涜がとり扱われており、その不潔な霊が連れて帰ってくる『その七つの不潔な霊』は悪の誤謬の凡てのものを意味し、かくて善と真理とを完全に破壊することを意味している。

 

 

黙示録講解731

 

『人間から出てゆく汚れた霊』は、人間が悔い改めるとき、その者からいくたの悪が除かれ、その結果いくたの誤謬が除かれることを意味しており、『かれが休息を求めてさまよう乾いた所』はかれの生命に属している悪と誤謬との状態を意味している。場所といくたの場所とが言われている聖言の他の所も同様である。

 

 

 

新しいエルサレムの教義169

 

 人間は自分自身を点検し、自分の罪を承認し、悔改めの業を行った後は、生涯の終りまでも善に堅く止まらなくてはならない。なぜならもし彼が後になってその以前の悪い生活に再び帰って、それをかき抱くなら、彼はそのときは冒瀆するからである。なぜなら彼はそのとき悪と善を連結し、かくて彼の後の状態は、主の御言葉によると、前よりも悪くなるからである―

 

 汚れた霊が人を出ると、乾いた地を経めぐって休みを求めるが、それを得ない、それで言う、私は私の出てきた家へ帰ろうと。彼は来て、その家が、住む者もなく、掃き清められて、自分のために飾られているのを見、去って、自分より悪い他の七つの霊を自分に集め、彼らは入って、そこに住む、それでその者の後のありさまは前よりも悪くなる(マタイ12・43−45)。