掃除する
天界の秘義3142
「なぜならわたしは家を掃いたからです」(創世記24・31)。これは凡ゆるものが整えられて、善に満ちたことを意味していることは以下から明白である、すなわち、『掃く[掃除する]こと』の意義は整えて[準備をして]、満たされることであり(そのことについては私たちは間もなく述べよう)、『家』の意義は善である(それについては、前の2233、2234、2559番を参照、人間自身は、その中に存在する善から家と呼ばれている、3128番)。『掃く[掃除する]』ことは準備をして[備えをして]満たされることを意味している理由は、人間には家を掃く以外のことは、すなわち、悪の幾多の欲念とそこから派生してくる誤謬の信念を斥ける以外のことは何ら求められていないということである、なぜなら彼はそのとき善に満たされるからであるが、それは、善は主から絶えず流れ入ってくるためである。しかし(その善は)『家』の中へ、すなわち、その流入を妨害するもの、すなわち、その流入してくる善を跳ね返すか、または歪めるか、または窒息させるかするものから清められている人間の中へ流れ入ってくるためである。ここから古代人にあっては家を掃く、または清める、ということは、また道を掃いて、整えるということは普通のことであったのであり、家を掃くことにより幾多の悪から自己を清め、そのことにより善が入ってくるために自己を整えることが意味されたが、しかし道を掃くことにより、真理が受け入れられるために自己を整えることが意味されたのである(なぜなら『家』により善が意味され、3128番、『道』により真理が意味されたからである、627、2333番)。
天界の秘義3142[2]
例えばイザヤ書には―
荒野に叫ぶ者の声、エホバの道を掃けよ(整えよ)、われらの神のために砂漠に大道を直ぐにせよ(イザヤ40・3)。
同書には―
投げ上げよ、投げ上げよ、道を掃けよ(整えよ)、わたしの民の道から躓かせるものを取り去れよ(イザヤ57・14)。
さらに―
門を通って行けよ、通って行けよ、民の道を掃けよ(整えよ)、投げ上げよ、投げ上げよ、公道を、石を集め出せよ(イザヤ62・10)。
マラキ書には―
見よ、わたしはわたしの使い[天使]を遣わす、彼はわたしの前に道を掃く(整える)であろう。そしてあなたたちの求めている主は不意にその神殿へ来られるであろう(マラキ3・1)。
これらの記事の中では『道を掃く』ことは、真理を受け入れるために自分自身を整え、用意することを意味している。この中に取扱われている主題は主の降臨であり、それに備えて彼らは信仰の真理を受け入れ、そのことによって仁慈の善を受け入れ、またそのことにより永遠の生命を受け入れるためには自らを整えねばならなかったのである。
天界の秘義3142[3]
ダビデの書には―
あなたはエジプトから葡萄を持って来られた、あなたは諸国民を追い出されて、それを植えられた、あなたはその前を掃かれて、その根を根付かせられた、かくてそれは地を満たした(詩篇80・8、9)
ここでは最高の意義では主が取り扱われたもうており、『エジプトから取って来た葡萄』は記憶知から発した真理であり、『諸国民を放逐すること』は幾多の悪から清めることであり、『その前を掃くこと』は幾多の善が満ちるように用意することである。その対立した意義で『家を掃くこと』はまた自分自身から凡ゆる善と真理とを剥ぎ取り、かくて悪と誤謬とに満ちている人間にも言われている。例えばルカ伝には―
汚れた霊は、休息を得ないで、言う、私は自分の出て来た家へ帰ろう、と。彼は来ると、それが掃かれて、飾られているのを見る、それで、彼は行って、自分よりも更に悪い七つの他の霊を連れて来て、彼らは中に入って、そこに住む(ルカ11・24−26、マタイ12・43−45)。