単一なもの

 

 

 

 

 

1.神的愛と知恵は絶対的な原質と形であり、かくて唯一の実在(リアリティ)である

2.形は、その形を構成するものが各々区別はあるが、しかも共に結合するに応じて、益々完全な形となる

3.現れた形をとらない存在はなく、存在を持たない現れた形はないように、真理のない善はなく、また善のない真理もない

 

 

 

 

 

 

1.神的愛と知恵は絶対的な原質と形であり、かくて唯一の実在(リアリティ)である

 

 

神の摂理4

 

そして形を構成する物は凡て、もしその形が完全であるならば、鎖の環のように、相互に関連しているゆえ、形そのものが単一なものを構成し、それ故、主体を構成しており、それについて、その形の完全さに従って、性質、状態、活動、その他のことを述べることが出来るのである。世の目に見える物は凡てこのような単一なものであり、また目に見えない物も凡て、それが自然の隠れた奥所に或いは霊界にあるにしても、このような単一なものである。人間はこうした単一なものであり、人間社会もそうである。教会と全天使的天界も主の眼前にはそうである。約言すれば、創造された宇宙は、全般的にも、個別的にも、このような単一なものである。凡ての物は、全般的にも、個別的にも形であるためには、これを造られた者がそれ自身であり、形として造られた物は凡て、形それ自身から由来しなくてはならないことが必然である。それ故これは「神の愛と知恵」を扱った著作に設立された事柄である、即ち、神的な愛と知恵は原質であり、形である(40−43)。神的愛と知恵は絶対的な原質と形であり、かくて唯一の実在(リアリティ)である(44−46)。神的愛と知恵は主の中には一つのものであり(14−22)、一つのものとして主から発している(99−102その他)。

 

 

 

 

2.形は、その形を構成するものが各々区別はあるが、しかも共に結合するに応じて、益々完全な形となる

 

 

神の摂理4

 

形は、その形を構成するものが各々区別はあるが、しかも共に結合するに応じて、益々完全な形となる」もし理解が明るくされていないならば、これを理解することは殆ど出来ない、なぜなら形はその構成部分の類似によってのみ一つの単一なものになることが出来るように見えるからである。このことにつき私は天使たちと再三語ったが、彼らは、それはアルカナ[秘義]であり、彼らの中の賢い者には明白に認められ、それ程賢くない者には漠然と認められてはいるが、しかし形は、それを構成するものが個別的には区別はあるが、しかもその各々が各々なりに他のものに結合するに応じて益々完全になるというのが真理であると語った。彼らはこれを天界の諸々の共同体と―この共同体は全体として見られると天界の形を構成している―各共同体の天使に言及して確証したのである。なぜならその共同体の形は、各天使が更に完全に自分自身のものとなり、かくて完全に自由となり、その友を恰も自分自身からまた自分自身の愛情から愛するかのように愛するに応じて益々完全なものになるからである。彼らはまたその例として善と真理との結婚をあげ、その二つは明らかに区別されるに応じて益々完全に結合することが出来るのであり、愛と知恵もそれと同様であることを示し、また区別されないものは混乱し、そこから形の不完全が凡て生まれると語ったのである。

 しかし完全に区別される物が如何にして結合して一つとなるかを、彼らはまた多くの事に言及して証明した、彼らは特にに人間の中に在る物に言及したのである、[すなわち]その中には無数の物が区別されているが、しかも結合している、すなわちその膜により区別されてはいるが、靱帯により結合しているのである。同様に彼らは愛と愛を構成する凡ての物もそれと同じであって、その各々は絶えず一つのものとして認められることを示したのである。これらの主題については更に多くのことが「神の愛と知恵」を取扱った著作(56と489)に見ることが出来よう。これらの事実は天使的知恵の内容であるゆえ示したのである。

 

 

 

 

3.現れた形をとらない存在はなく、存在を持たない現れた形はないように、真理のない善はなく、また善のない真理もない

 

 

神の摂理11

 

善は真理なしに存在し、真理は善なしに存在することが出来るように思われるが、そうではない、なぜなら愛は―そこから生まれるものは善と呼ばれる―物の存在であり、知恵はそこから生まれるものは真理と呼ばれる「神の愛と知恵」を取扱った著作に示されているように(14−16)その存在から発して現れた物の形であるから。それ故現れた形をとらない存在はなく、存在を持たない現れた形はないように、真理のない善はなく、また善のない真理もない