単一なもの

 

 

 

神の摂理4

 

しかし互いに区別される二つの物が如何にして一つのものとして、活動するかは知られていないゆえ、私は形のない単一のものは在りえず、形そのものがその単一なものを構成することをここに説明し、次に形を構成している種々の物は個々としては区別されるが、しかもそれらが結合するにつれ、その形は更に完全な単一なものとなることを説明しようと思う。

「形そのものが単一なものを構成するゆえ、形のない単一なものは在りえない」―まじめに考える者はすべて、形なしには単一なものは在りえない、もし単一なものが仮にも存在するならば、それは形でなくてはならないことを明らかに理解するであろう、なぜならもし単一なものが仮にも存在するならば、それは形でなくてはならないことを明らかに理解するであろう、なぜなら凡ての物はその形からその性質、属性、状態の変化、関係その他を得ており、それ故形を持たない物は凡ていかなる点でも他から影響を受けることは出来ず、それは存在しないことと同一であるからである。そうしたすべての性質を与えるものは形である。

 

 

 

 

天界の秘義1919[4]

 

しかし主の人間的な本質がその神的な本質に結合されると同時に、エホバとなってしまった後では、主はそのときは諸天界の中に存在し、そこから地上に存在している秩序の上方におられたため、認識と呼ばれるものの上方にもおられたのである。秩序の根源[源泉]であられるものはエホバであり、かくてエホバは秩序そのものであられると言うことができよう、なぜならエホバはエホバ御自身から秩序を統べ治められるからである、それは一般に考えられているように全般的にのみ統べ治められるのではなく、単一なものそれ自身をも統べ治められているのである、なぜなら全般的なものはこの単一なものから発しているからである。全般的なもののことを語って、それを単一なものから分離することは、その中に部分が何ら存在していない一つの全体のものを語り、それでその内には何物も存在していない何ものかを語るということ以外の何ものでもないであろう、それで主の摂理は全般的なものであって、単一なものそのものの摂理ではないと言うことは、全く誤ったことを言うことであって、ens rationis(すなわち、想像の作りごと)と呼ばれるものである。なぜなら全般的なものを供え、またその全般的なものを統べ治めはするが、個別的なものは供えはしないし、またそれを統べ治めはしないことは絶対に何ものをも供えないし、また何ものをも治めないことであるからである。これは哲学的に真であるが、しかも驚くべきことには、、哲学者自身は、そのいとも高く天がけている者すらも、そのことをそのようには把握しておらず、またそのように考えてもいないのである。