確信
確認する/
信仰11
(前の2、4−6に言われたように)、真理を内的に承認することが信仰であって、信仰と真理とは一つのものであるため、内なる承認のない外なる承認は信仰ではなく、また誤ったものを確信することも信仰ではないことが生まれてくる。内なる承認のない外なる承認は知らないものを信じる信仰であって、知らないものを信じる信仰は単なる記憶知であって、それが確認されると、確信ともなるのである。こうした知識と確信にいる者らは、何かが真理であると、誰かが言ったというために、そのように考えるか、または自分でそれを確認した結果、それが真であると考えるかしている、それでも誤ったものでも真のものと全く同じように充分に、時にはそれより更に良くさえも確認することが出来るのである。何かが真であると、それを確認してから考えることは、他の者の言っている何かが真であると考えて、そこから前もって検討もしないで確認するということである。
真の基督教339
人々は救い主イエス キリストなる神を信じなければならない、即ち、彼に対する信仰を持たなければならないのは、これは見えない神がその中に在すところの見える神に対する信仰であるからである。何故なら、人でありまた神である見える神に対する信仰は人の受け入れ得るものであるからである。信仰の本質は霊的なものであるが、その形は自然的であり、それ故信仰は人間の中に霊的かつ自然的なものになるのである。何故なら、霊的なものは凡て、人間がこれを現実のものとして所有するためには、自然的なものの中に受け入れられねばならぬからである。純粋に霊的なものは実際人間に入りはするが、受け入れられない。
それはエーテルの如きものであり、人間を感動さすことなくして彼に流れ入り、また流れ去って行く。人間を感動さすためにはそれは人間の心に認められ、かつ受容されねばならず、これは彼の自然的な心の中にのみ可能である。他方単に自然的な信仰または霊的本質を欠いた信仰は信仰ではなく単なる確信あるいは知識に過ぎない。確信は外的には信仰のように見えるけれど、内的には霊性を欠いている故、その内には救うものは少しも存在しない。これがアリウス派、ソツヌス派のように、主の人間性の神性を否定する凡ての者の信仰である。信仰はその対象無くして何であろうか。それは空間を凝視し、視覚がそれ自らを虚空に失うようなものである。それは鳥が大気を越えてエーテルの中へ飛び入り、真空内にあるように、息絶えてしまうに似ている。かかる信仰はイオラスの翼の風のように、流星の光のように、人間の心に止まることは出来ず、長く尾を曳く彗星のように現れると間もなく過ぎ去り、消え去ってしまうのである。約言すれば、見えない神に対する信仰は盲目である。それは人間の心はその神を見ないからである。而して、このような信仰の光は霊的自然的なものでない為、蛍のそれのような或は沼地、硫黄を含んだ土、或は腐敗した木材から発する光のような、偽りの光である。この光によって見られる物は凡て錯覚に過ぎず、外面的なものが真実なものとして誤認されるのである。