確認する

確信

 

1.確信すること

 

 

1.確信すること

 

天界の秘義5096

 

 「牢屋に縛られているところの」。これは誤謬の間に在ったところの、を意味していることは、『牢屋に縛られていること』の意義から明白であり、それは誤謬の間に在ることであり(4958,5037,5038,5085番を参照)。誤謬の中にいる者は、まして悪の中にいる者は『縛られている』、『牢』にいると言われているが、それは彼らが縄を掛けられているということではなくて、彼らが自由ではないという理由によっているのである、なぜなら自由でない者たちは内的には縛られているからである。なぜなら誤謬を確認した者らは真理を選んで、それを受け入れる自由の中には最早全くいないのであり、それを甚だしく確認した者らは真理を認める自由の中にすらもいないのであり、ましてやそれを承認して、信じる自由の中にはいないからである、なぜなら彼らは誤謬は真理であり、真理は誤謬であると確信しているからである。こうした確信は他のことを何か考える自由をことごとく奪い去り、従って思考そのものに縄を掛けて、謂わば牢に閉じ込めてしまうといったものである。このことは誤謬を己が中に確認することを通して確信してしまっている他生の者らとの多くの経験から私に明白となったのである。

 

 

 

天界の秘義5096[2]

 

彼らは真理を全く容認しないで、それを跳ね返すか、または打ち返してしまうかする輩であり、しかもそれをその確信の度に応じて、特に誤謬が悪から発している時には、または悪が誤謬を説得させてしまっている時には頑強に行われるのである。これらの者がマタイ伝の主の譬の中に意味されている者らである―

 

ある種は固い道に落ちたが、鳥が来て、それを食い尽くした(マタイ13・4)

 

『種』は神的真理であり、『固い岩』は確信であり、『鳥』は誤謬の原理である。このような者は自分が縛られていることを、または牢にいることを知りさえもしないのである、なぜなら彼らは彼ら自身の誤謬に感動していて、それをそれが発生して来る源泉である悪のために愛しており、そこから彼らは自分たちは自由であると考えているからである、なぜなら何であれ情愛または愛に属しているものはことごとく自由に思われるからである。しかし確認された誤謬の中にいない者たちは、即ち、誤謬を確信していない者たちは容易に真理を容認し、それを認め、選び、それに感動し、後には誤謬を謂わば彼ら自身の下に認め、また誤謬を確信している者らがいかに縛られているかを認めるのである。これらの者は観察と思考とにおいて謂わば全天界を跋渉して無数の真理にまでも達することが出来る程の自由の中にいるが、しかし何人も善の中にいない限り、この自由の中にいることは出来ないのである。なぜなら善から人間は天界におり、天界では真理は善から現れるからである。

 

 

信仰11

 

(前の2、4−6に言われたように)、真理を内的に承認することが信仰であって、信仰と真理とは一つのものであるため、内なる承認のない外なる承認は信仰ではなく、また誤ったものを確信することも信仰ではないことが生まれてくる。内なる承認のない外なる承認は知らないものを信じる信仰であって、知らないものを信じる信仰は単なる記憶知であって、それが確認されると、確信ともなるのである。こうした知識と確信にいる者らは、何かが真理であると、誰かが言ったというために、そのように考えるか、または自分でそれを確認した結果、それが真であると考えるかしている、それでも誤ったものでも真のものと全く同じように充分に、時にはそれより更に良くさえも確認することが出来るのである。何かが真であると、それを確認してから考えることは、他の者の言っている何かが真であると考えて、そこから前もって検討もしないで確認するということである。

 

 

確かめられる?

 

天界の秘義2385[3]

 

何であれ原理はことごとく、誤謬そのものでさえも、一度取り上げられるとなると、それは無数の事柄により確認されて、その外なる形でも恰も真理そのものであるかのように、示されることが出来ることはたれでも知ることが出来よう。ここから異端が発しており、それが一度確認されると、その人間はそこから決して後退はしないのである。それでも誤った原理からは誤謬以外には何ものも流れ出ることは出来ないのであり真理がその間に混入しているにしても、それは誤った原理を確認するために用いられる時、誤謬化された真理となるのである、なぜならその真理は誤った原理の本質により汚されるからである。

 

 

天界の秘義6865〔3〕

 

 これらの者は教会の教義的な事柄を自分自身の中に確認している時は、自分自身が明るくされていると信じるが、しかしそれは世の光から発した感覚的な光であって、それがその時彼らを欺くのである、なぜなら凡ゆる種類の教義的な物は確認されることが出来るからであり、例えばユダヤ人の教義的な事柄はユダヤ人により、狂信的な事柄は狂信者により、ソツニウス的な事柄はソツニウス主義者により、異端は凡ゆる異端者により確信されることが出来るのであり、それらは確認されると、彼らには真理そのものとして感覚的な光の中に現れるのである。しかし天界の光の中にいる者たちは主から明るくされており、確認する以前に、下方に在って、そこに秩序をもって配列されている記憶知を覗き込むことにより、それが確認されてよい真理であるか、否かを識別するのである。ここからこの後の者は、記憶知の上方に在って、明確なものである内的な観察を持ってはいるが、これに反し前の者は、記憶知の中に在って、かくしてもつれたものである低い観察を持っていることが明白である。