回教
一夫多妻/
1.マホメット教は多くの民族の偶像礼拝を破壊するために主の神的摂理により起こされた
2.今村光一抄訳・編/『続スウェデンボルグの霊界からの手記』
3.1746年〜1765年の記録『霊界日記』 マホメットとマホメット教徒たち
4.1763年刊『続最後の審判』 霊界のマホメット教徒とマホメット(68〜72)
5.1771年刊『真の基督教』 霊界のマホメット教徒 (828〜834)
霊界日記2996(第4巻)
そのことをまた私は天界へ移された者たちを通して知ったのである。彼らはマホメットとマホメット教徒である、と私は信じているが、
霊界日記3040(第4巻)「マホメット教徒たちの合唱団」
霊界日記4748(第7巻)
彼(スウェーデン国王カルル12世)はマホメット教を基督教よりも誉めたたえ、後のものはただ単純な者らのためにのみ在ると言い、
霊界日記4831(第7巻)
わたしはマホメット教徒のいる地域へ連れられて行った。それは右の足のうらの面の中の右の方に在り、そこへ連れられて行き、主について、父は主の中におられ、聖霊は主から発しており、かくて主は唯一の神であられるという考えの中に留め置かれた際、そこにいる者たちは凡てそれと同じ考えの中に置かれて、そのことを充分に承認したのである。
「続き、他生における都と社会とについて、またマホメット教徒の最後の審判について」
霊界日記5060(第8巻)
私は、その二つの山を越えて行く際、そこにいる者たちとも話したが、そこにはマホメット教徒がいたのである、私は、そこにいる者たちは、キリスト教徒よりも、その住居で和合して生活していることを認めた。その最初の山の中では彼らは以下のように言った、自分たちは幸な生活をしている、なぜなら自分たちは、自分たちの長官には進んで自らを委ね、その言うことに服従するからであり―そのこともまた真のものであることが認められたのであるが―そのため、自分たちは安全に守られている、と。彼らはまた理解の点では大半のキリスト教徒にまさっていたのである。
霊界日記5061(第8巻)
彼らは他の一つの山から私と話したが、そこにもマホメット教徒がおり、彼らは話し合われた事柄を鋭利に把握したのである、彼らはそうした性格のものであり、また異なった資質のものでもあったため、キリスト教徒は彼らのもとへ来ることは出来ないのである。彼らはそこへ実際やって来ると、前にも示したように、空気中の魚のようになるのである。
霊界日記5062(第8巻)
そこにいるが、キリスト教徒の長男であって、そこの法律により、王の親衛隊員となり、かくてマホメット教徒とならなくてはならないと命じられている者たちは、自分らは依然心ではキリスト教徒である、と言った、しかし彼らの一部は中間的なものであった。
霊界日記5063(第8巻)
私はさらに彼らと話して以下のように言った、真のキリスト教は以下のことから成っているのである、すなわち、人間は隣人に対する仁慈の中に生きなくてはならないのであり、すなわち、誠実で、公正で、正直でなくてはならず、かくて誠実と公正と善いこととをそうしたことのために実践しなくてはならない、そうしたことは主御自身から発しているからには、主の神的なものがそうしたことの中に在るため、そうしたことを神的なものとして認め、尊重しなくてはならない、と。そのことをまた彼らは知っているのである、なぜなら彼らは以下のように言うからである、すなわち、自分たちのもとには上から、すなわち、神から来ているもの以外には善いものは何一つないのであるが、かくて彼らが基督教徒であるか、否か、の問題は生命の善〔生活の善〕から考慮されなくてはならないのである、と。さらに、私は言った、真の信仰は必ずしも不一致〔意見の相違〕を生み出しはしないのであり、実情はそうしたものでないことはキリスト教が腐敗した状態におかれているためである、と。(中略)
彼らはキリスト教徒がかくも愚鈍であることを怪しんで、自分たち自身その二つの点は知らない、と言った。私が、聖言から来ていて、教会の真の教義のものである色々な事柄について彼らと話した際、彼らはその事柄から聖いものを知覚するようになったのである。
霊界日記5064(第8巻)
以下のことが認められた、すなわち、キリスト教徒のマホメット教徒から来ている者たちが―その者たちについては前に述べたが(*)―
他の悪い者らから苦しめられたとき、彼らの都は下へ沈んだが、単に音もたてずに、まっすぐに、周囲の地との殆ど同じレベルに降ったにすぎず、このようにして彼らは、見えなくなったため、悩まされることから開放されたのである。彼らの周囲には、謂わば、山の壁のようなものが在った。それで彼らは、意のままに、昇り降りすることが出来たのである。
*すなわち、トルコ王の親衛隊、14世紀に組織され、1826年に廃止された。5062番を参照
「天界の形とそこの民と国民との位置について、またそこのマホメット教徒と異邦人とについて」
霊界日記5240(第8巻)
キリスト教徒は中央にいる。それでも彼らはその真理の光と愛の善との方面の状態に応じて凡ゆる方向へ広がっている。マホメット教徒はその中央の部分の周囲にいる。彼らはその部分の次の周辺、または周囲を構成しており、それも同じく凡ゆる方向へ広がっている。これらの地域には同じような土地、山、岩、谷が存在している。その周囲の外側には、異邦人たちが、その真理の光と善の愛とに従って、その方位の方面で、配列されている。これらの者の外側に、謂わば、海が現れたが、それは境界であった。以下のことに注意しなくてはならない、すなわち、凡てこれらの者は、平地ではなく、地球のような球体の中に、共になって、広がっているのである。それで、私は、マホメット教徒の間を通り抜けた後で、異教徒のもとへ連れられて行った際、斜めに降って行ったのである。
霊界日記5241(第8巻)
私は東の方向の、マホメット教徒のもとへ連れられて行き、彼らと話すことを与えられた。彼らは以下のように言った、すなわち、(彼らの主張したところでは)カトリック教の多くのキリスト教徒が、自分たちを改宗させようとして自分たちのもとへ来るが、しかし自分たちはそのことは利得と主権のためであることを認めている、と。(さらに)彼らは以下のように言った、すなわち、自分たちはその者たちに、ただ一人の神しかおられないのに、あなたらは三人の者を口にされて、各々の者を神とされ、またその者たちが三人の人格である、と言明されるからには、どうしてあなたらは一人の神を信じることが出来るか、を把握することが出来ない、と話した。また、あなたらは一人の神によって話されはするものの、三人の者を口に出された後では、どうしてあなたらは神は一人であられることを理解することが出来るかを自分たちは知ることも出来ない、あなたらはその三人の者を一人の者とされはするが、それでもその三人の者は三人の神であって、その三人の神をあなたらは一人の神と呼んでいるのである、と。こうした事柄を聞くと、その天使たちは彼らに以下のように話した、すなわち、天界ではそのようには話されてはいません、父、子、聖霊と呼ばれているかの三一性は一人格の中に、主の中に在り、また主の中に三一性が在って、そのことは一人の天使の中に三一性が在るのと全く同一であります―このことは説明のために言われたのであるが―すなわち、一人の天使の中には、最も内なるものであって、世では父から発している霊魂と呼ばれているところの、生命のエッセ〔存在〕が与えられており、人間の形をとって現れているところの、生命のエキシステレ〔現れたもの〕が在り、そこから発生しているものが在りますが、それは情愛、または、愛のスフィアであり、それにより天使は他の者たちから遠方からでも認められるのです。このことから主における三一性について一つの観念を抱くことが出来ましょう、すなわち、生命のエッセであるところの最も内なるものは父と呼ばれるものであり、生命のエキシステレであるものは、子と呼ばれる人間的なものであり、発出するものは、聖霊と呼ばれるものであります、なぜならそれは発生している聖いものであるからです、と。以下のことが附言された、すなわち、世では彼らは一人の者が他の者から出て行く、または発出している―子は父から、聖霊は子と父との二人から出て行き、または発出している、と言っていますが、それでも彼らは、出て行くこと、または発出することは何を意味しているかを全く知りはしないのです、彼らはその実情は以上述べたようなものであることを、聖言から、そこの記事から(知ろうと思えば)知ることが出来るのです、主はそこで、父と私とは一つであり、私は父の中に、父は私のなかにおられ、聖霊は私からではなくては聖霊自身では決して話しはしない、とはっきり言われているのです。それで、もし人々が欲するなら、その事柄については明るくされ、そこから、三一性は一人の方の中に在り、かくて、一人の神がおられることを知りもし、把握することも出来ましょう、と。
霊界日記5242(第8巻)
マホメット教徒はこのことを把握して、三人の神にかかわる自分たちの釈然としない感情もそのことで解消したように思われるからには、そのことについて自分たちは考えてみたい、と言った。
霊界日記5243(第8巻)
マホメットについては、彼はマホメット教徒の間にはいないで、キリスト教徒の間に、北東の方向のやや右寄りにおり、私が彼らを見る少しく前に、西の方向へさらに近く移されたが、しかし、依然、前のように、右の方へ移された。マホメット教徒は、彼は基督教に移ったため、その所にいるのである、と言った。私もまた彼がそこで話して、以下のように言っているのを聞いたのである、すなわち、自分は今は主を唯一の神として承認しており、主の中に父がおられ、父と主と一つであられ、主から発出している聖霊は、諸天界に満ち、諸天界を作っている神的なものである、と。
霊界日記5244(第8巻)
この後で、私はそのマホメット教徒がいるその円周の遥か彼方へ、東の方にいる異教徒のもとへ連れられて行き、彼らのもとへ球体の斜面に従って、下の方へ連れられて行った。彼らと話すこともまた私に与えられた。彼らは、自分たちは、神的なもの〔神〕が自分たちには現れられないため、悲しんでいるが、それでも自分たちは神的なもののことを考え、その方を拝し、その方のことを話しています、と言った。彼らは以下のように言った、すなわち、もし神的なもの〔神〕がおられるなら、その方は少なくとも自分たちに教える者たちを遣わすことが当然のことでありますが、自分たちはそのことを長い間徒に期待してきたのです―かくて彼らは神は自分らを棄て去ってしまわれたのである、と主張したのであるが―それで、自分たちは、そのため、死滅してしまうに違いないとしか考えることは出来ないのです、と。しかしその際天使たちは天界から彼らと話して、以下のように言った、すなわち、あなたらは神人が世に生れたもうたことを進んで信じようとはされないため、神的なもの〔神〕はあなたらには明らかに示されることは出来ないのであり、あなたらがそのことを信じない中は何ごともあなたらには示されることは出来ないのです、なぜならそのことは凡ゆる啓示の主要なもの〔第一原理、初歩となるもの〕そのものであり、また根元ともなるものそのものであるからです、と。彼らは、自分たちは実際、神は人間であられることを信じてはいますが、しかし神が人間として世に生れられたことを把握することが出来ないため、そのことを信じることは出来ないのです、と言った。しかし彼らは以下のように答えられた、すなわち、神は世に他の人間のように生れたもうたのではありません、なぜならその方は人間を父としてそこから生れたもうたのではなく、エホバ御自身からみごもられたもうたのであり―エホバ御自身がその方の父であられたのであり―処女から生れたもうたからです、それで、その方は他の人間のようにみごもって、生れたもうたのではなく、また、その方が世から去られたときは、その人間的なものをことごとく持って昇られて、背後に何一つ残されはしなかったのであり、かくて他の凡ての人間とは異なっておられたのである、なぜなら他の人間は世にはそこに身のまわりに持ち回っていた身体をことごとく残して行き、それを再び身には決して着けはしないからである。それをたれ一人再び身に着けはしないことは、そこに、また天界にいる者たちは凡て知ることが出来るのであり、凡ての者は世では人間であったのである、と。このことから彼らは主は、その最初のもののみでなく、その究極的なものの方面でも、他の人間とは全く異なった人間であられたことを認めたのである。さらに以下のことが言われた、すなわち、人間はその父から生まれており、情愛の方面では父に似ており、そのように似ていることは父の霊魂から派生しているためであり、また身体全体はその霊魂の生命の器官以外の何ものでもなく、それでそれと一つのものとなって活動しており、そのことは、何であれその霊魂が考え、欲することをことごとく、その身体は即座に遂行するという事実から明らかであり、ここから、その霊魂のあるがままに、その人間全体もあるのである。また、思考と愛とは顔から輝き出ており、身体はその霊魂の映像となっていることも明らかである。ここから、主の人間的なものは、その父の映像に応じて、神的なもの以外のものにはなり得なかったことは明白である、と。
これらの事柄を聞くと、彼らは、自分たちはその方は他の人間に似ていて、人間を父として生れ、他の人間のように死に、後には人間から神として認められたのである、としか考えはしなかったが、しかし自分たちは今は主は、世では、他の者らのように人間ではあられなかったことを知ります、と言ったのである。さらに以下のことが言われた、キリスト教徒はこのことでは誤っているのである、なぜなら彼らは主の人間的なものを人間の人間的なもののようにして、それを主の人間的な性質と呼んでいるからであり、また彼らは主が神的なものそのものから懐妊されたことを考えはしないし、また主が復活されたことも考えないし、かくて今し方言われたことに従って、考えはしないのであるが、それでも彼らは彼らの間に、こうしたことを凡て教えている聖言を持っているのであり、また、キリスト教徒は凡て、すなわち、欧州の凡ての者は、聖言から、主はエホバからみごもられ、世で持っておられたその全身体をもってよみがえられたことを知っているのである。(*)
*ラテン語原本では、この番号の欄外〔余白〕に以下の注釈が記されている『私は以下のことを信じている、すなわち、人間の霊魂は原質的なものから発していて、生命ではなく、生命の受容器である、しかし主の霊魂は凡てのものに生命を与える生命それ自体であり、それでその相違は有限なものと無限なものとの間の相違であり、かくて人間的なものと神的なものとの間の相違に等しいものである』(英訳者注)。
霊界日記5245(第8巻)
私は復活についてマホメット教徒と話して、以下のように言った、すなわち、復活は世界の凡ゆる物がまさに死滅するばかりにならない中は起りはしないのであり、そのときになると〔死滅するばかりになると〕身体と霊魂とは結合すると、キリスト教国に信じられており、また、学者たちの中では僅かな者しか― 一千人の中殆ど一人位しか ―人間は死後も生きることを、すなわち、人間の形をとって生きることを信じてはいないのである、と。こうした事柄に彼らは驚いて、言った、自分たちは、自分たちが死後も生き、その際人間となることを知っており、自分たちは、世で、かの粗悪なスフィアの中で ―自分たちに役立ったその着物をただ脱ぎ去ったにすぎないのである、と。彼らはキリスト教徒がこうしたことを、それが最大に重要な意義を持っているものであるにも拘らず、知りはしないことを怪しんだのである。
霊界日記5246(第8巻)
マホメット教徒の多くの者は、主の中に父がおられ、主は父の中におられるため、主を唯一の神として承認して、キリスト教徒となっている。その際彼らは、天界へ導き入れられるとき、先ず東へ東から北へ導かれ、そこで益々高く遠く西に至るまでも登り、そこにさらに高い所にとどまるが、しかし依然、その位置に従って、迂回して、または巡回して連れられて行くのである。
霊界日記5247(第8巻)
彼らの中にはさらに遠くへ行くように見える者がおり、南へ降るように見える者がおり、他の所へ運ばれて行くように見える者がいた、なぜなら、その部分から、凡ての者はその定められた場所に配列されるからである。
霊界日記5248(第8巻)
マホメット教徒はキリスト教徒にもまさって自然的な光の中にいて、キリスト教徒にもまさって真理を知ろうと求めている。彼らはキリスト教徒よりもさらに迅速に以下の事実を理解し、受け入れ吸引もしたのである、すなわち、天と地における一切の物は真理と善とに帰着するのであり、真理が信じられるとき、それは信仰のものとなり、善が認められるとき、それは愛のものとなり、それゆえ二つの能力が人間に与えられており、すなわち、理解と意志とが与えられており、信仰のものである真理は理解であり、愛のものである善は意志であり、さらに、人間は真に人間となるためには、真理と善とは一つのものとならなくてはならず、従って愛とは、全般的には、理解と意志とが一つのものとならなくてはならないのである。キリスト教徒の間から来ていた学のある者らはこうした事柄を聞いたが、その中にはまた信仰のみを、かくて真理のみを告白した者がおり、善い業のみに固執した者もいた。前の者は改革派の者であり、後の者はカトリック教の者であった。これらの者はそれらの事柄を把握することは出来なかったものの、マホメット教徒はそれらを明らかに理解したのである。彼らはまた以下のことを明らかに認めたのである、すなわち、生命の善の中にいる者たちは真理の情愛〔真理に対する情愛〕の中にいるが、そのことは、真理はいわば、善の糧であるからには、善は真理を渇望するという理由のためであり、後には、その同じ者たちのもとに、真理が善を切望するのである、なぜなら真理はその際その生命を善から受け入れ、かくて一方のものは他方のものを相互的に欲求することが起こってくるからであり、知恵と理知の人間である人間はこうした欲求の特性を得るのである。彼らは以下のことを確認した、すなわち、キリスト教徒の中非常に多くの者は理知と知恵とを狡猾の中においてはいるものの、それは理知と知恵には反したものであり、それで、狂気と愚鈍である。
「続き、マホメット教徒とその最後の審判」
天界の秘義5258(第8巻)
これらの者はキリスト教徒の周りに円周を構成しており、キリスト教徒は中核を形成していることは前に〔5240番〕に述べたところである。私は彼ら〔マホメット教徒〕が西から連れて来られるのを見たが、そこの周囲にいた者らは―それは非常におびただしい数にも達していたが―明らかに円形をなして、北東に向って連れて来られ、その途中で、悪い者らはかの地域の外側へ投げ出されたが、そこは非常に広々と広がっているのである。こうした者らは他の者らから分離されてしまったのである。そこには荒野が在り、また沼と池が在り、森も在った、そうした所へ悪い生活を送った者らは投げ込まれた。この地域は私がすぐ前に話したかの山の背後に在ったが、そこには〔その山には〕非常におびただしい数の修道院が在り、それらはその山とともに破壊されたのである。かの地域の片側には、北方に、広大な湾が在り、そこへ多くの者は投げ込まれてしまった、その者らについては以下に。
天界の秘義5259(第8巻)
他の者らは、迂回して、東にさらに遠く進んで行き、そこで多少背後に向い広大な地域にわたって散らばった。父なる神を承認し、御子を予言者として・・・・承認した者らはそこへ連れて来られた。それでここにはさらに善良な者たちがいた。かの広大な地域もまた山と谷に分れ、その上に彼らは配置されたが、そこに彼らは恙無く暮らしているのである。
天界の秘義5260(第8巻)
さらに彼らよりも善良であり、他の者たちよりもさらに大きな光を享受したようなものである者たちは前面に連れて来られたが―そこではキリスト教徒の天界との交流が与えられており、またそれは中間の地域であるが―そこで、教えられて、主を受け入れ、そこから南の方へまっすぐに連れて行かれ、そこでその部分におけるキリスト教徒の背後に彼らの天界を持ち、かくて、また、そこでさらに遠ざかった境界を構成している。
天界の秘義5260イ(第8巻)
二人のマホメットがおり、彼らはキリスト教徒の間に、左の、下にその所を得ている。彼らは、主の力を彼ら自身に僭取することにより、主に反抗して暴動を起し始めたため、それで、最も近くにいた一人の者はその所から非常な深淵の中へ落され、そこで身動きが出来ないほどにも鎖に縛り付けられてしまい、しかもそのことが彼の追従者らと共に起ったのである。私は地が彼らの下に開くのを見たが、彼らは呑み込まれてしまったのである。
天界の秘義5261(第8巻)
後で、他の一人は―彼も同じく主の力を自らに僭取したため、その湾の一つへ投げ込まれてしまった。
天界の秘義5262(第8巻)
このことが行われたとき、キリスト教徒の背後にいたマホメット教徒らの間に大きな騒擾が起ったが、しかし彼らはそこから連れ出され、その一部は前に記したかの荒地とそれに近接した裂け目の中へ投げ込まれてしまった。他の者たちは連れ回されて、途中で追い散らされてしまうか、またはその住居が在る所へ連れて来られるか、した、しかし或る者は東の、また南のその者らの天界へ挙げられた。多くの者もまた、キリスト教徒とマホメット教徒のいる平原を横切って、西の方へ、まっすぐに連れて行かれた。
「異教徒とその最後の審判」
霊界日記5263(第8巻)
異教徒はさらに遠方の地帯を構成しているが、しかし、その大部分の者は東におり、キリスト教世界から遠ざかっており、マホメット教徒の彼方にいる。
霊界日記5264(第8巻)
マホメット教徒の天界が在る所に、そこの両側に、裂け目が現れており、それが深淵へ向って下降している。そこへ、彼らの中で、偶像を拝し、神については何ごとも考えはしないと同時に、悪い生活を送った悪い者らは投げ込まれてしまった。
霊界日記5265(第8巻)
マホメット教徒の荒野の北側にも同じような裂け目が在る。そこへ彼らの中の悪い者らが投げ込まれたが、また、カトリック教徒で、聖者の像を拝し、主については何ら考えはしなかった者らも投げ込まれた。これらの者は異教徒らと混じり合って、そこへ投げやられた。
霊界日記5268(第8巻)「マホメットについて」
最初のマホメット(*)は足の裏の面の下の左に住んでおり、そこで彼はその会議を開き、そこからそのマホメット教の人々の中へ流れ入ったが、しかし主の導きの下にいた。そこにろうそくの火から発するような、一種の輝いたものが現れた。私はそこへ送られて、婚姻の状態と混じり合っている好色を認めたが、それは汚れたものであった、なぜならそれは色情を掻き立てたからである。そのスフィアは嫌悪すべきものであった。以下のことが言われた、すなわち、こうした者らがマホメットについて非常に考えているという理由のために、主によりそこに留めおかれなくてはならないのであり、そのことは彼らの幻想〔妄想〕が破壊されないために行われているのである。かの好色のスフィアは妻の複数性から発しており、彼らは複数の妻と結婚することは正当なことと考えているのである。私は最初は大して不快でもない温かさに包まれて臥していることを与えられたが、しかし、その温かさは、たちまち、不快な、非常に激しい好色の熱となり、私はそこから抜け出そうと必死に求めたのである。
霊界日記5297(第8巻) 「西と南との間に在るバベル、または大いなるバビロン」5280〜5304の一節
霊界日記5314(第8巻) 「キリスト教徒と他の者らとの位置について」
真中はルーテル派と改革派と呼ばれているキリスト教徒により占められ、各セクトはその資質に応じている。これらの者は岩の上にいる。これらの者を囲んでいる凡ゆる側に、カトリック教を奉じているような者らがいる。次にそれらの者の周囲にマホメット教徒がいるが、異教徒らはマホメット教徒を囲んで、西にいる、善良な者たちは東へ移され、そこでマホメット教徒の周囲に置かれている。
霊界日記5326(第8巻)「バビロンの徹底的破壊について」5322〜5336の一節
このことが行われると、前方の地域を占めている金持ちはそこから、前に記したところの(5265番)、西の、マホメット教徒の周囲の回教徒の地獄へ投げ落とされ、修道士と小修道院長と修道院長とは、凡ての物がむき出しにされるのを見た際、その修道院から飛び出して来て、西の海の北の部分へ連れられて行った。
霊界日記5556(第8巻)「天使たちは人間の形を持っていること」
それで、キリスト教国では、彼らは、死後の霊魂について考えるときは、人間の形を考えることは出来ないものの、そうした考えにより死後の生命にかかわる内的な認識を根絶してはいない凡ての者のもとにはその考えは残っているのである、例えば、学界の外にいる者たち、凡てのマホメット教徒、賢明な異教徒のもとには残っているのである。
霊界日記5600(第8巻) 「マホメット教徒の間の一人の或るキリスト教徒について、唯一の神について、アウラエヴィルについて。」
マホメット教徒については以下のことが報告された、すなわち、彼らは主を承認しているが、しかし単に最大の予言者としてのみ承認していて、その神性を承認はしていない、そのことは、神的なもの〔神〕がいかようにして三人格に分割されて、従って三人の神に分割されて存在することが出来るかを彼らは理解することが出来なかったためであり、それで彼らは宇宙の創造者、一人の神を承認はしたが、主を最大の予言者として承認し、聖霊は霊たちと天使たちである、と主張したのである。そうしたものが彼らの教義であり、見解であるが、否かを、かのキリスト教徒は知ろうとした。彼は、その事について彼らに質問しようと願って、西の部分にいる彼らに近づいた。彼らはその宗教から考えているままに話したが、しかしそのキリスト教徒に、あなたは神についていかように信じておられるか、その方は一人であられると信じておられるか、否か、とたずねた。彼は、自分は神は一人であると信じている、と言ったが、しかし彼らは彼の思考のいくたの観念を点検した―そうしたことは他生では容易に行われるのである。彼らは以下のように言った、あなたは神は一人であられるとは信じないで、三人である、と信じている、なぜならあなたの考えの中にはあなたは三人格を考え、その三人格の各人格を神として考えておられるからである、と。さらに、彼らは以下のように言った、あなたは一人の神を話されはするが、しかし心では、信仰ではまたは思考の中では、三人の神を信じておられる、キリスト教徒はその考え、信じているままに話して、その考え、信じていることと異なったことを話してはならないのである、と。彼はそのことを否定することが出来なかったため、彼らはさらに以下のように言い続けた、すなわち、三人の神を考えることはキリスト教徒の恥辱となるに違いない、異教徒たちでさえもがキリスト教徒よりは賢明である、なぜなら彼らの賢明な者は、一人の神がおられる、と考え、キリスト教徒とは異なって、一人の神以上のものを考えはしないからである、と。それで、彼は退いて、自分は今後彼らのもとへ決して帰りはしない、と言った、なぜなら彼は恥辱に身も心も焼き尽くされたからである。彼は三人は一致していることを通して一人である、と言おうとしたが ― 神は一人であられるものの ― 一致している三人の神の観念を考えていたのである。神的な三一性が在るが、しかし主の中に三一性が在ることについては「新しいエルサレムとその天界の教義」の中の主にかかわる項目―306番―を参照されたい。そのマホメット教徒たちは、他生に行われる流儀に従って彼をその思考の観念の中に留めたため、彼はその観念から自らを引き離すことは出来ず、かくて、それを否定することは出来ず、従って、恥辱に身も心も焼き尽くされてしまったのである。その後で、私は、一人格における三一性を、しかもその三一性が主の中に在ることを、聖言からとった或る幾多の言明された事柄とともに、述べたが、すると、彼らは、そのことはそうで在り得ることを自分らは認めます、と言った。それでも彼らは以下の事実から、主は彼らの信じている以上の方であられることを認めているのである、すなわち、主はマホメットを拘束されたのであり、また主は神の子と呼ばれたまい、神御自身からみごもりたもうたのである。
「マホメット教徒とマホメット、その最後の審判について」(5663〜5669)
霊界日記5663(第9巻)
マホメット教徒は西側に、キリスト教世界の外側の、多くの山に住んでいて、非常な数にさえも達している。彼らの間で善良な者たちは東側に移された、すなわち、彼らの中で、世では主を最大の予言者として承認し、主を神の子と呼び、主を、人類に数えるため父から遣わされた方、従って主は他の者たちよりは賢明な方である、と信じた者たちは(そこへ移されたのである)。こうした者たちは、同時にその宗教的な信念に従って良く生活し、宗教から公正と誠実とを実践し―たとえマホメットをまた偉大な予言者であると言明はするものの―宇宙の神を承認したため、東の方へ移されたのである。この移されたことは前に取扱ったところであり、また以下のことも取扱ったのである、すなわち、その際当時マホメットであった者は低い地域へ投げ落とされ、そこで鎖につながれて、外へ出られないようにされたのである。彼が投げ落とされた理由を、後で彼自身が明らかにしたのであるが、その際、彼はいかような性格のものであるかが明らかにされたのである、すなわち、彼は彼を拝さない者たちは凡て東の方を眺めることを知り、たれかがそうしたことを行うとすぐにも、その者たちは彼自身を拝しはしないことに気付くようになり、そうした理由のため、群集全体がそこへ〔東の方へ〕移されるのを認めた際、彼は全く置き去りにされてしまうことを、身をもって知り、それで彼は怒りに燃え上って、彼らを行かせまいとしたのである。これがその理由であったのである。
霊界日記5664(第9巻)
多くの者は―数十万の数にさえも達していたが―他の側に、キリスト教国が終っている境界の中にとどまった。そこで彼らはかのマホメットを神として拝し、宗教についても考えもしないし、宇宙についても僅かしか考えもしなかった。彼らは凡てマホメットをその足かせから自由にして、彼をそのもとの位置に回復しようとかいがいしく努めはしたが、そのことが徒労に帰した後では、他の一人のマホメットを、最初は彼ら自身の仲間から、彼らのために任命した、しかしこのことも期待に添わなかったため、キリスト教国の上の方の、或る一つの高い山に或る一人の者を選び、これと協議し、これに、前にマホメットに服従したようにも服従した。しかしその一味は―そうした性格のものであったため―そのことにも満足しないで、その新しいマホメットの勧めを容れて、キリスト教世界へ出かけて行き、色々な方法で、また色々な術策を弄して、彼ら自身に権力を要求しはじめさえもした。彼らは或る者らのもとへ流れ入り、キリスト教徒を害い、またその最も狡猾な者を私のもとへ送り込んだ、彼は私の左の耳の領域を占領して、しばらく隠れており、そのことにより彼らを強力なものとしたため、しまいには彼らには殆ど抵抗することが出来なくなってしまった。
霊界日記5665(第9巻)
しかしそのことが発見されたとき、調査が行われて、それは西側の境界にいるマホメット教徒らから来ていることが明らかとなり、あなたらはいかような種類の者であり、なぜ―前にはキリスト教国へ侵入はしなかったからには―そうしたことを行ったのか、と尋ねられた。その際、その一味の者らは、マホメットを一種の神として拝し、その宗教上の信念に従って、主についてはいかようなことも考えはしないといった性格のものであったことが明らかにされたのである。あなたらは父なる神についてはいかような種類の考えを持っておられるか、ともまた尋ねられ、以下のことが明らかにされた、すなわち、彼らは創造(つく)られた宇宙の考えしか持ってはいないで、その考えには、他の凡ての者におけるように、人間の考えは欠けていたのであり、従って、彼らは父なる神についてはいかような考えも持ってはいなかったのである。彼らは以下のように言った、すなわち、自分らは、もし欲するなら、その宗教上の信仰から主について考えもすることが出来、マホメットよりもむしろ主に近づくことも出来たのである、なぜならマホメットは、自分らの宗教上の信念に従うと、主よりは劣った予言者であるからである、と。しかし彼らは言った、自分たちはそのことを行うことは出来ない、なぜなら自分たちは世ではその考えを、自分たちの敵であるキリスト教徒のために斥けてしまったからである、と。後で、彼らはいかに節操のない民族であるかが確かめられた、彼らは―全くそこの山にいて、政治と政治の形態とを持っている者らのように―いかようなことも行おうともしないし、またいかような種類の仕事にも従事しようともしないのである。
霊界日記5666(第9巻)
かの一味は、マホメットをそれほどまでにも甚だしく拝するといった性格のものであったからには、それで、マホメットはいかようになっているかが彼らに示された。コーランを書き、メッカに埋葬されたマホメットその者は、そのいるその者自身の場所から連れ出された。彼は右足のやや後の場所の深い所にいて、私の頭の左へ挙げられ、そこで彼らに現れた。彼は下卑て、浅黒く見えた。こうしたものが形体的な人間であり、生命は僅かしか持っていない。かの場所にいる者らは殆ど白痴である。私はかのマホメット教徒らに話し掛けて、彼はそうした者であり、そこの形体的な者らの間にいる、と言った。後で、また、彼はその場所へ退いた。
霊界日記5667(第9巻)
この後で、第二のマホメットが―彼は鎖につながれており、彼らはその者を探したが―連れ出され、世ではたれであったかが発見された、すなわち、彼はサクソニーに生れ、後に船長になり、アルジェリア人により捕えられ、また彼らにより自由にされたが、そこでマホメット教を信奉したため、そこで船長として信頼されたのである。それから彼はジェノア人により捕えられ、また彼らにより自由にされ、かくてキリスト教にもマホメット教にも浸透した。彼はまたキリスト教の世界でも或る地位を得―そのことについては私は前で話したのであるが―彼はその境界内にいる者らに、自分はマホメットであると説きつけ、支配欲にとりつかれていたため、全く長期間にわたって彼らを治め、キリスト教からは主を承認し、そこから主により導かれることが出来たのである、彼については、前に述べた多くの事柄を参照されたい。また他の一人のマホメットがおり、彼はギリシャ出身のキリスト教徒であり、かの者のうしろに(後に?)地位を得、ときとしてその義務を引き受けて、勤勉に働いたため、前のマホメットからマホメットとして布告され、彼らの間で多くのマホメットを考えている若干の者らからもマホメットとして承認されもしたのである。他の一人の者についても同じであった。
霊界日記5668(第9巻)
そこの山にいる者たちについては、彼らは、他生に初めて入ってくると、実にマホメットのことを考えはするが、しかし後では、彼を棄て去って、宇宙の創造者、父なる神のことを考え、主を人間の中で最も賢明な方、神の子として考える。彼らは一人の神、宇宙の創造についてはいかような考えを抱いているかについて点検されたが、それは何か人間のようなものであって、前の者たちにおけるような、宇宙を考えるようなものではないことが確かめられた。
霊界日記5669(第9巻)
マホメット教徒の中で若干の者らは、主について多くの事柄を聞いた際、教会に加入しようと願った、しかし彼らは以下のように話された、すなわち、もし彼らが主については―そのコーランの教義に従って―主は最大の予言者、神の子、人間の中で最も賢明な者であると考えるにすぎないなら、彼ら自身の宗教にとどまってよろしいのである。なぜなら彼らは心(ハート)の中で主の神的なものを承認することは出来ないし、たんに或る者は、そうした教理〔教目〕に対する信念を子供時代から自分自身に浸透させているからには、口で、また知的なものからその主の神的なものを承認するに過ぎないのであり、霊的な善は世における彼らの信仰に属したような事柄により形作られており、それは新しい信仰箇条によってはそのように急には消滅することは出来ないからである。彼らは彼らの善の中に生き、誠実と公正とも遵守し、公正はことごとく神的なものであることを承認することで充分なのであり、また、彼らはかくして彼らなりに幸に生きて、徐々に主へ導かれて行くのである。以下のことが付言された、すなわち、公正の中に、また彼ら自身の善の中に生きる者たちはキリスト教徒よりも善良な者になることが出来るのである、なぜならキリスト教徒は主から神性をことごとく取り去っており、大半のキリスト教徒は、法王派と呼ばれて、天と地における主の権能(ちから)を彼ら自身に僭取し、従って主から神性をことごとく取ってしまって、その神性を主の中に承認はしないで、彼ら自身の中に承認しているからである。そして他のキリスト教徒は―改革派と呼ばれているが―神的なものは主に属しており、主は父と一つであることを、実に知ってはおり、教義から告白はしてはいるものの、それでも、主のことを考えると、主を彼ら自身に似た人間を考えるようにしか考えはしないし、そうしたときは主の神性は全く考えはしないのであり、それで、また、彼らは父に、御子のために彼らの求めるものを与えてくださるようにと祈願して、主には行きはしないのである。そうしたものがかのキリスト教徒の考えである。ここから彼らは、善良なマホメット教徒らは、その心の中では、主については、キリスト教徒よりも善く考えていることを認めたのである。
彼らはまたモーセを偉大な予言者として、しかし主よりは劣った者として承認してはいるが、しかしモーセのことはもはや考えはしないのである。
霊界日記5729(第9巻)「モガル人(*)、また最後の審判について」
*モガル人は16世紀にインドを征服したバベル、またはジンキスカンの部下またはその子孫であるモウコ人。
霊界日記5731イ(第9巻)「いかような仁慈の中にもいない者らの剥奪、すなわち、最後の審判について」
次いで、その間、信仰のみの中にいる者らは、または、彼らから信仰の教義と呼ばれている教義の中にいて、仁慈を救う効果を持っているものとしては斥け、天界は仁慈の中に在ることを否定して、天界は信仰のみの中にいると提唱している者らは、こうした者らは、たれ一人彼らを挑発はしないのに、そのとき他の者らにもまさって、純粋な教義に反抗して立ち上がり、共になり、しまいには、東の方向を除いて、凡ゆる方向から、可能な限り多くの者をことごとく呼び出そうと協議した。彼らは東の方向には、そこにいる者たちは主から守られているため、来ることは出来なかったが、その企ては、西の側のマホメット教徒にも、南の方向のマホメット教徒にも、さらにまた、北の方向の、山の上に、またそこの平原にいる者たちにも及んだのである。
霊界日記5776(第9巻)「天界について」
凡ゆる者は世におけるその者の礼拝に類似した礼拝を持つ理由は、それが内的な生命の中に根を張っていて、彼らは先ずその中に入れられ、徐々にそこから遠ざけられるためである。地球全体における凡ての者のもとでもそのことが行われており、偶像崇拝者はその礼拝へ入れられ、善の中にいる者たちは善へ連れて行かれ、悪い者らは悪へ連れて行かれ、キリスト教徒はその者らのものへ、同じく、カトリック教徒はその聖徒と像とを拝することへ、ユダヤ人、マホメット教徒、異教徒はその礼拝へ連れて行かれ、彼らが神々として拝した人間のもとへさえも連れて行かれるのである。
霊界日記5809(第9巻)〔8〕
以下のことが私に話された、すなわち、マホメット教徒の間に、一冊の書が在り、それは彼らの手の中に在って、そこでは共通のものとなっており、その中のいくらかの頁は相応したものにより記されており、その相応したものにより、諸天界にはそこからいくらかの光が発しているのである。これらの者は凡て、その性質の方面が、胸に注がれる流入を通し、また、快適な、また不快な知覚を通して感じられたのである。
「エーテル性の霊らがマホメット教徒、バビロン派の者、改革派の者により破滅したことについて」
霊界日記5856(第9巻)
マホメット教徒の中でぶらつきまわっている一味たちの者らは―彼らは南寄りの西の方向の前面にいたが―キリスト教徒の方を眺め、そこからとりつき悩ませはじめた、彼らは西にいる極めて邪悪なバビロン派の一味の者らと交流したが、この者らは自らをエーテル化することに巧みであり、かくてたれからも気付かれることは出来なかった、これらの者と、また、改革派の或る者らが交流したが、その者らも、同じく自らを他から見えないものにする術策に巧みであり、それで彼らは彼らの間にいはするものの、たれからも見られることは出来なかった。
霊界日記5857(第9巻)
マホメット教徒らは、バビロン派の者らと共になって、私の左の耳にとりついて、これを悩ませ、周囲に一団の霊どもを置き始め、かくてその目的を達成しようとした、彼らはそのことを極めて覚られないように、気付かれないようにやってのけたため、それは殆ど知覚されはしなかった。それでも彼らはすぐにも発見され、マホメット教徒らは―彼らは西の前方にいたが―地(*)により破滅し、そこで彼らは彼らの上をころげまわり、かくて地獄へ投げ落とされてしまった。
* 「地」は「地震」の意味と思われる。
霊界日記5861(第9巻)
しまいには、破滅は西の前の方にいるマホメット教徒らに臨み、彼らは凡て、彼らの下に在る地により飲み込まれてしまった、なぜなら彼らはキリスト教世界を注視したが、そのことは彼らには禁じられていたからである。
霊界日記5895(第9巻)「西の非常な遠方にいる者らはいかようなものであるか、について」
以下のことが、すなわち、西のバビロン派の共同体の中の最も邪悪な者らの先の方に、徐々にさほど凶悪なものではないいくたの地獄が在り、またその邪悪さは、人がマホメット教徒と異教徒のもとに達するまでは徐々に減少しており、そのことは均衡が存在するようにとの目的のためである。
霊界日記5952(第9巻)「ギリシャ人とマホメット教徒について、主について」
マホメット教徒と共に住んでいるギリシャ出身の多くの者が私と共にいた。彼らはマホメット教徒について以下のことで訴えたのである、すなわち、マホメット教徒は、あなたらは三人の神を拝している、と私たちにしばしば告げるが、私たちは自分たちは一人の神を拝しており、その三人は一人の神である、と答えはするものの、それでも彼らは、三人の神がいて、その神をあなたたちは拝しているのである、なぜならあなたらは三人の神を口に出して、三人の神を考えるからである、と言い張るのであるが、それでも私たちは自分たちは一人の神を拝しているのである、と答えるのである。
霊界日記6021(第9巻)「主について、すなわち、マホメット教徒らと話し合ったことについて」
マホメット教徒らは神性における三人格を極度に嫌っている、なぜならそのときは三人の神がいることになるからである。それで、キリスト教徒とマホメット教徒らは神について共に話し合うときは、マホメット教徒らはキリスト教徒らは三人の神を作っている、と言うが、しかしキリスト教徒は自分らは一人の神を持っていると言うと、マホメット教徒らは憤激して、その三人の神の中どちらが真に神であるか、と詰問するのである、その際或る者は、父なる神が宇宙を創造されたため、父なる神が真に神である、と答えるのである。そのマホメット教徒らは、その場合、他の二人は低級な神であって、単に神と名付けられているにすぎない、と言う。しかし彼らは、その三人は平等であることを聞くと、その場を去り、キリスト教徒を、霊的な事柄では判断力を僅かしか、実に、殆ど全く持ってはいない者として、軽蔑してしまうのである。或る一人の者がマホメット教を奉じている男の僕を持っていたが、その僕に彼はまた神について尋ねて、あなたはキリストについてはいかようなことを信じますか、と言った。彼は、キリストは救い主であります、と答えた。神についてはいかように。神は宇宙の創造者であられ、また維持者であられる、と彼は答えた。次いで彼は神は救われるか、救われませんか、と尋ねた。彼は神は救われる、と言った。それではあなたはキリストについていかように信じますか、キリストは神ですか、それとも神ではありませんか。彼はキリストは神です、と言った。するとその主人は、それでは二人の神がいます、と言った。するとその僕は彼のもとを去って、言った、あの方は二人の神を作っている、だから自分はあの方の僕とはなりたくはない、と。しばらくして、そのキリスト教徒の主人は、自分が救い主と呼んでいるキリストをそのマホメット教徒の僕は救いの方面の創造者なる神として考え、かくて同一の者であって、他の異なった者ではない、と考えていることを理解したのである。かくて救われるマホメット教徒は主を父と一つの者であられることを承認し、キリスト教徒を、三人の神を作っているという理由のために、殆ど憎悪しているのである。同様にユダヤ人もキリスト教徒を嘲笑しており、特に、たれもが神は一人であられることを知っているのに、キリスト教徒は三人の神を作っているために、嘲笑しているのである。それで、また、ロマ カトリック教徒は、自分ら自身に神の権能を僭取しているため、当然恥じなくてはならないのである。
『最後の審判とバビロンの滅亡』
最後の審判とバビロンの滅亡47
この最後の審判はどのようにして行われたかはその細目についてはこの小さな著作には記されることは出来ない。なぜならそれらは夥しいからであるが、しかし「黙示録の説明」の中にそれを記すであろう。なぜなら審判は単に基督教会の凡ゆる人々の上のみでなく、マホメット教徒と呼ばれている凡ての者の上にも、さらに、全世界の凡ゆる異邦人の上にも行われたからである。そしてそれは以下の順序で行われた。すなわち、先ず教皇派の人々の上に、次にマホメット教徒の上に、後に異邦人の上に、最後に改革派の上に行われた。教皇派の人々に対する審判は、破壊されたバビロンを取扱っている以下の項目に示され、改革派に対する審判は過ぎ去った第一の天を取扱っている項目に示されるであろう、しかしマホメット教徒と異邦人とに対する審判については、以下の項目に若干語っておく。
最後の審判とバビロンの滅亡48
以下が審判されることになっていた凡ゆる国民と民族の霊界における排列であるように見えた。改革派と呼ばれている者が中央に集められているのが見え、ここに彼らはまたその国々に従って分けられ、ドイツ人は北方に、スエ―デン人は西方に、デンマーク人は西に、オランダ人は東南方に、イギリス人は中央にいた。この改革派の居る中間地域全体を取り巻いて、教皇派の人々が集められているのが見え、その大部分は西方に、或る部分は南方にいた。彼らの外側にマホメット教徒が居て、同じくその国々に従って分かれ、凡ての者は西南に現れた。これらの者に外側に、莫大な数の異邦人が集まって、円周そのものを形作っていた。さらにこれらの者の外側に謂わば海のようなものが現れて、それが境界となっていた。
最後の審判とバビロンの滅亡50
この項目に取扱われているマホメット教徒と異邦人とに対する審判については、それは以下のように行われた。マホメット教徒はその南西の、共に集められた所から基督教徒の周囲の道によって西から北を通って東へ、その南の境界までも導かれ、その途中善良な者は悪い者から分離された。悪い者は沼地と湖に投げ込まれ、多くの者はまた或る遠い荒地に散らされた。しかし善良な者は東を経て南に近い非常に広大な地に導かれて、そこに住居を与えられた。そこに導かれた者たちは世で主を最大の予言者として、神の子として認め、主は人類を教えるために父から遣わされたもうたことを信じると同時にその宗教上の主義に従って道徳的な霊的な生活を送った者である。これらの者は大半、主に対する信仰を、教えられると、受け入れ、主が父と一人であられることを認める。主から発する流入により基督教天界との連絡もまた彼らに与えられるが、しかし彼らはその天界に混入はしない。なぜなら宗教が彼らを分離しているからである。その宗教を奉じている凡ての者は、他生で彼ら自身の者の間へ入ると直ぐに、先ずマホメットを探し求めるが、しかし彼は現れず、その位置に他の二人の者がいて、自分をマホメットと呼び、基督教天界の下の、その左の部分の方面の中央にその住居を得ている。この二人はマホメットの地位にいる。なぜなら凡ての者は、死後、その宗教は何であれ、先ずその者たちが世で拝していた者の許へ導かれるからである。なぜなら各人の宗教はその者に密着しているからである。しかし彼らはこれらの者が自分たちに何の援助も与えてくれることが出来ないことを認めると、そのもとを去って行く。彼らを彼ら自身の宗教から引き出す唯一可能な方法として、彼らはこのように先ずその宗教に委ねられるのである。マホメット自身は何処にいるか、彼はいかようなものであるか、彼の地位を占めるその二人は何処から来ているかは、「黙示録」を説明した書に述べられるであろう。
最後の審判とバビロンの滅亡51
審判はマホメット教徒に対すると殆ど同じ方法で異邦人に対しても行われた、しかし彼らは彼らのように円を描いて導かれず、ただ西の近道から導かれ、そこで悪い者は善良な者から分離され、悪い者はそこで、深淵へ斜めに伸びている二つの大きな深い割れ目の中へ投げ込まれたが、善良な者は基督教徒の居る中央の上方の、東方のマホメット教徒の地の方へ向って導かれ、その住居は南方の広大な範囲にわたって、マホメット教徒の後と向こう側とに与えられた。しかし異邦人の中で世で神を人間の形の下に拝し、己が宗教上の主義の生活を送った者たちは天界の基督教徒と連結した。なぜなら彼らは主を他の者以上に承認し、崇拝するからである。彼らの中最も知的な者はアフリカから来ている。そこに現れた異邦人とマホメット教徒との群は巨万を単位にしてのみ数えることが出来るほども大きかった。この莫大な群に対する審判は僅か数日中で行われた。なぜなら人は各々その者自身の愛とその者自身の信仰とに委ねられた後で、直ちにその者自身に似た者のもとへ行くように決定づけられ、連れ去られるからである。
最後の審判とバビロンの滅亡53
「黙示録」に予言されている凡ての事柄は現今成就されたことは前に(40−44)見ることが出来、そして最後の審判はすでに完成されたことは前の項目に見ることが出来よう。そこにはまた審判がいかようにマホメット教徒と異教徒とに行われたかが示されている。
最後の審判とバビロンの滅亡58
[3]「霊界における彼らの住居はそれまで何処に在ったか」。霊界の凡ゆる国民と民族とは以下のようにいることが見られたことは前に述べた(48)。すなわち、中央に改革派と呼ばれる者が集められ、この中央の周囲に教皇派の人々が居り、マホメット教徒がその外側に、最後に色々な異教徒が居るように見えた。ここから教皇派は中央の改革派の周囲に最も近い円周を作っていることが明らかとなるであろう。この理由は聖言から真理の光に居る者たちは中央に居り、聖言から真理の光に居る者たちはまた天界の光の中に居るということである。なぜなら天界の光は神的真理から発し、聖言はこれを内に宿すものであるから。天界の光は神的真理から発することは「天界と地獄」の著作(126−140)に、それが神的真理であることは303−310に見ることができよう。さらに光は中央から円周に向って発して、照らしている。教皇派が中央に最も接近してこれを囲んでいることはここから起こっている。なぜなら彼らは聖言を持っており、たとえそれは人々から読まれなくても、教職階級の者から読まれているからである。これが教皇派の国民が霊界で聖言から真理の光の中に居る者たちの周囲に住居を得ている理由である。
最後の審判とバビロンの滅亡69〔1〕
「第一の天は誰から成ったか」。最初の天は最後の審判を受けた凡ての者から成っていた。なぜならそれは地獄にいる者にも、天界にいる者にも、霊たちの世界にいる者にも行われず―この世界については「天界と地獄」の著作(421−520)を参照されよ―現在尚生きている者にも行われず、自分たちのために天界に似たものを作って、その大部分の者は山と岩の上に居た者らにもっぱら行われたからである。これらの者はまた主がその左に置かれた『山羊』により意味された者であった(マタイ25・32、33以下)。このことから第一の天は単に基督教徒のみでなく、凡て自分自身に対し自分自身の場所でこうした天を形作ったマホメット教徒や異邦人からも存在したことが明らかとなるであろう。
最後の審判とバビロンの滅亡72〔3〕
「いかようにして第一の天は過ぎ去ったか」は、前にマホメット教徒と異邦人とに対する(50、51)、教皇派に対する(61−63)最後の審判を記した際に記されている。なぜなら彼らもまた彼ら自身の場所で第一の天を作り上げたからである。今はプロテスタントとも、福音派とも呼ばれている改革派に対する最後の審判につき、または彼らにより構成された第一の天がいかようにして過ぎ去ったかにつき若干述べておかなくてはならない。なぜなら審判は、第一の天を構成した者に対してのみ行われたからである。
「マホメットとマホメット教徒」
最後の審判・遺稿69
「最後の審判」を取扱った小著(50番)におけるマホメット教徒に対する審判にかかわる若干の事柄と基督教天界の下に二人のマホメットがいることとを参照されたい。
最後の審判・遺稿70
多くの者が共になり心を一つにして語り、行動するときは合唱が起り、合唱によって心の一致へ入れられ、また彼らの言葉の中に歌が聞かれることについては「天界の秘義」を参照(1648、1649、2595、2596、3350、5182、8158番)。
「マホメット」
最後の審判・遺稿71
私はマホメットの代理人となっていて、基督教天界の下にその居所を持っているマホメットと話した、主の栄光がマホメット教徒に示されたかのように見え、そのとき彼らは顔を地につけて平伏したが、彼らのマホメットも同じことをした。
最後の審判・遺稿72
私はマホメット教徒がマホメットを承認はしているが、しかし宇宙のただ一人の主のみを崇めて、或る基督教の霊たちに恥辱感を覚えさせるほどにも巧みにまた思慮深く話すのを聞いたが、そのときマホメットは自分には何の力もないことを証し、また彼もそのとき主を崇めたのである。
最後の審判・遺稿73
私はマホメットが彼を崇める群衆を彼自身から追い払うのを時折見たが、そのとき彼はあなたらは宇宙を支配しておられる主のもとへ行かなくてはならないと言った。
最後の審判・遺稿74
マホメットから霊たちが私のもとへ遣わされたが、彼は洗盤のように見えるものを生み出すことが出来た、それはその流れるような形をして快いものであった。
最後の審判・遺稿75
両方のマホメットとも主は善良なものと真のものの一切の源泉であられると告白している。
最後の審判・遺稿76
マホメットの周囲にいる霊たちは、彼ら自身が主から天使たちを通して働きかけられて、考え、欲し、話すのに甘んじるようにとの目的から天使たちの合唱団により一致と同意へ入れられる(合唱団については前の記事を参照)。私は彼らが世の救い主、主について美しい表象物をそれら〔その一致と同意〕により示すのを見もし、聞きもした。合唱団の業はマホメット教徒により非常な功績をもって遂行される。そこのマホメット教徒の合唱団は私には他の者たちよりも親しいものとなった。私は或る注目すべき場合にマホメットと共にいた、それはまた私がアムステルダムに、そこの裁判所の庁舎にいたときであったが、彼はそれを私の目を通して見て、賞賛した。彼はそこの大理石を歓んだが、その大理石はマホメット教徒たちの情愛に相応しているのである―彼らは或る程度霊的なものなのである―なぜなら凡ゆる物は相応したものであるからである。黄金の物は第三の天界の天使たちの情愛に、銀の物は第二の天界の天使たちの情愛に、銅の物は第一の天界の天使たちの情愛に相応し、インドの磁器は最後の天界の天使たちの情愛に、マホメット教徒の天界の天使たちの情愛には大理石の物が相応しているのである。
最後の審判・遺稿77
その二人のマホメットはかつて天界へ上げられた、彼らはそれを望んだからである、その時彼らはそこから私と語った。彼らは以下のように言った、自分たちはそこから、思考の一つの観念の中にも無数の物を見たが、その無数の物も、自分たちは天界の下にいるときはただ一つのものであると信じたのである、と。このことが行われたのは、彼らが主はいかようにして人間を無数の事柄により導かれるかを知るために為されたのであり、その無数の事柄も自然的な状態では人間には一つのものとして見えはするものの、その事柄の各々の物の中には表現を絶した幾多の物が存在しているのである。このことは極微動物の最小の物と比較することが出来よう、その最小の物は肉眼には一つの明確でない点のようなものとして見えはするが、しかし強力な顕微鏡の下で見られると、それでもそれは肢体をそなえ、同じく幾多の器官をそなえ、内部には筋肉、繊維、心臓、頭脳、その他多くの物をそなえた動物なのである。人間の思考の一つの観念も同じであり、それゆえ主のみを除いてはたれ一人その人間はいかような種類の思考を持っているかを、その者の中にいかほど生きているものが、すなわち、天界が在るかを知りはしないのである、なぜならその者の中に在る天界と同量の人間的なものがその者の中に主から存在しているからである。こうした事柄をその二人のマホメットは天界へ挙げられて知ったのである。
最後の審判・遺稿78
西の方にいるマホメット教徒が岩の上に住んでいた、彼らは基督教の地域にいるマホメットにより斥けられたのである、なぜなら彼らはマホメットを神として拝し、彼を崇めたからである、そのことは彼らに禁じられたが、そのとき彼らは主については何事も考えず、最大の予言者、神の子としての主についてさえも何事も考えなかったことが明らかにされたのである。そして彼らは父なる神についていかような種類の観念を持っているかと尋ねられ、彼らは神を人間として考えていないのみでなく、些かも神を考えていなかったことが明らかになったとき―神を考えなくてはいかような天界との連結も与えられはしないのであるが―彼らはむしろ、主は偉大な予言者であられ、神の子であられるから、主について神の観念〔考え〕を持つことが出来よう、と彼らは言われた、しかし彼らは自分たちにはそれは出来ない、なぜなら彼らは方々をさすらって歩く民族のものであるから、と言った。彼らはマホメットを拝したため、それでコーランを書いて、メッカに埋葬されたマホメット自身がその場所から―それは右足の遥か後方の右の方に在ったが―そこから連れ出された。彼は地のやや上方に挙げられて、彼らに示された。彼は野卑で色が黒く見え、全く生命を殆ど持っていない形体的な霊に似ていた。彼は彼らと語り、それが私であり、私はそうしたものである、と告白した、彼は彼らに示された後で、彼の場所へ帰された、しかしマホメットの礼拝者は散らされた。
最後の審判・遺稿79
その後で基督教天界に居所を得ているその二人のマホメットは何処から来ているかが明らかにされた、その中の一人はサクソニーに生まれて、アルジェリア人により捕えられ、そこでマホメット教を信奉して、船長になった。それから彼はジェノア人により捕えられ、そこで基督教を受け入れた、かくて彼は主を承認したため、両方の宗教に浸透するようになった、それで彼は支配を求める愛により導かれて、そこでマホメットの代理とされ、マホメット教徒に自分がマホメットその者であるという信念を注ぎ込んだ、彼は利口であった。
最後の審判・遺稿80
しかし他のマホメットはギリシャから来た基督教徒であることが明らかにされた。彼もまた世で多くのマホメットのことを考えた者たちにより承認された。
最後の審判・遺稿81
最初のマホメットのもとには、小さな松明から発しているような光ったものが現れており、マホメット教徒はその方を眺めると、そこから霊たちの媒介を経て流入が注がれる、なぜなら霊界では距離は外観にすぎず、たれかのことを考えると、その距離は死滅して、そこへその者が現れてくるからであり、マホメットは彼のことを尋ねる者らに巧妙に教えるのである。私は彼の生命のスフィア認めることを与えられたが、それは外部は楽しいものであったが、内部は好色〔淫欲〕を秘めており、これを彼らは多くの妾との結婚から持っているのである。それは不潔な熱であったが、しかしマホメット教徒には快適な熱なのである。
最後の審判・遺稿82
マホメットたちが絶えず他のマホメットにとって代っている理由は人は各々死後その者が世で抱いていたその宗教上の信念の中へ入れられるためであり、それは生命の連続したものである。しかし彼は後にはその生命に従って徐々に善か、悪か、その信念の何れかへ連れ去られ、その生命に応じてまた真理を、または誤謬を受け入れるのである。
最後の審判・遺稿83
私はマホメットが以下のように言うのを聞いた、自分は主をただ一人の神として承認しております、主の中に父がおられ、主は父と共になった一人の神であられ、主から発出している聖いものは諸天界に満ち、諸天界を作っている神的なものであります、と。
最後の審判・遺稿84
私はマホメット教徒のいる地域へ連れられて行ったが、その地域は右足の裏の面における右の方に在った。私はそこにいると、主について、父は主の中に、主は父の中におられ、聖霊は発出するという思いの中に留め置かれ、かくて一人の神がおられ、その方の中に三一性が在るという思いの中に留めおかれた。そこにいた者たちも凡てそのときそれと同じ観念〔考え〕の中におかれ、ともどもにそれを承認したが、しかもそのことはその全地域に遍く行われたのである。そこから私は、マホメット教徒から主について主は父と一つであられるという信念を受ける者が多く来ていることを知ることを与えられたのである。
最後の審判・遺稿85
私が主により凡ゆる所を通って連れて行かれた際―それはそこにいる種々の国民から来ている者たちの性質を知るためであったが―私は二つの山へ来たが、その山の上にマホメット教徒がいた。一つの山には道徳的には善い生活をしていた者たちがおり、彼らは、自分たちは総督に服従しているため、善を持っている、と言った。他の山には霊的な事柄を非常に認めることが出来る者たちがいた。彼らは最初以下のように述べた、自分たちのもとへは同じような気質を持った者たち以外にはたれ一人来ることは出来ない、基督教徒は来ることは出来ない、もし彼らが来るなら、彼らは狼に飲み込まれてしまうかのように自分たちには見える、それでもやって来る者たちを、自分たちは牢獄へ送って、虐待し、後には追い返してしまう、そうした者らは術策を弄して自分自身を入り込ませることの出来る修道士であるが、彼らは見破られる、と。私は彼らと多くの妻について話した、彼らは、一人の妻のみを受け入れなくてはならないことが基督教の教義に従っている理由を聞いた。彼らはその理由の中に公正なものを認めはしたが、以下のように答えた。私たちはまだ多くの者との結婚から遠ざかることは出来ません、私たちは東洋人であって、東洋人は多くの妻がなくては燃え上って姦淫を犯し、かくて死滅してしまうという理由から、世では私たちの宗教からそのことは私たちに許されたのです、と。
最後の審判・遺稿86
私はまた、親衛兵と呼ばれるサルタンの陸軍の警備兵であって、マホメット教徒となった基督教徒たちの長子たちと話したが、彼らは自分たちは今でも心では基督教徒であり、或る者は中間的なものであるが、しかし或る者はマホメット教徒である、と言った。
最後の審判・遺稿88
私は或る都の中でマホメット教徒が基督教徒にとりつかれて悩まされているのを見たが、彼らがそこから救い出されるのは容易ではなかった。それはいくたの術策により行われたが、霊界ではそれには多くのものが在るのである。そのときその都の間中の部分が沈下して、周囲に壁が作られるのが見えた。しかしその沈下は僅かだったため、それで彼らは昇り降りすることが出来た。かくて身を引いた者たちは移され、そのとりつかれて悩まされる状態から救われたのである。
最後の審判・遺稿89
私は東の方面にいるマホメット教徒のもとへ連れて行かれ、その者たちと語ることを与えられた。彼らは以下のように言った、ロマ・カトリック教の若干の基督教徒が自分たちのもとへ来ますが、自分たちはそのことが彼らによりただ利得と主権を得るためにのみ為されているのを認めています、と。神について彼らと話し合ったが、彼らは言った、私たちは、ただ一人の神しかおられないのに、彼らが三人の神の名を言い、その三人を三人格と呼びながら、どうして一人の神を認めることが出来るかが、分かりません、それなのに私たちは基督教徒たちがまた一人の神とも言っているのを彼らから聞いています、これは矛盾です、と。彼らは私が神について知っていることを尋ねた。私は以下のように言った、すなわち、基督教天界ではそうしたことは信じられてはいないし、また言われてもいません、三一性は一人格の中に在ります、その中に言われている三一性は父と子と聖霊であり、それは主の中に在り、主の中では最も内なるものが―それは生命のエッセ〔存在〕でありますが―父と呼ばれており、第二のものが―それはそこから発している生命のエキシステレ〔現出したもの〕ですが―子であり、第三のものが発出しているものであって、聖霊と呼ばれており、このように結合したものが父なる神により、その神が世に来られることにより遂行されたのであり、基督教徒もまた(望みさえすれば)そのことを明らかにされることが出来るのです、なぜなら主は公然と〔明らかに〕、父は私の中におられ、父と私とは一つのものであり、聖霊は聖霊自身から語るのではなくて、私から語るのであると教えられているからです、しかしロマ・カトリックの宗教の者たちは、自分たちが地上の主であるという理由からそのことを容認しませんし、信仰のみの宗教にいる改革派の者も容認はしません、と。(私がこのように言ったのは)そこまでマホメット教徒はそのことを把握したからである。彼らは自分たちは考えますが、教えられることを願っています、と言った。そのことが後になって彼らに与えられた、なぜならこうした事柄は聖言から教えられなくては把握されることは出来ないからである。
最後の審判・遺稿90
私はマホメット教徒たちと復活について以下のことを話した、すなわち、基督教徒は以下のように信じているのです、復活は先ず世の破壊と共に起ることになっており、身体はそのときその身体の霊魂に結合することになっており、その身体が撒き散らされている凡ゆる方面から共に集められることになっており、それまでは自分たちは霊であって―彼らは霊を風のようにしか、特に呼吸のようにしか考えていないのですが―エーテルか、星空か、そのどちらかの中を、聞くことも、見ることも、または他のいかような感覚もなしに飛びまわっているのです、彼らは審判を期待しており、この地球の初まりの時そのものから死んだ者たちもまたそのように期待しており、それでその者らは今や六千年間も宇宙をこのように飛び回っているのであり、或る者たちは或る場所に―それは場所ではなくて、何かの所といったものですが、そこに共にいると考えており、また天使たちもそのようなものであると考えているのです。(後略)
最後の審判・遺稿91
多くのマホメット教徒は、父が主の中におられるため、主を唯一人の神として承認し、基督教徒となっている。これらの者は、天界へ導き入れられるときは、先ず東の方へ導かれ、それから北の方へ導かれ、そこから西の方へ益々高く登り、そこで高い所にいるが、しかしそれでも下の方の位置に従って、一めぐりして、または一巡して登るのであり、中には南の方面へ登るように見えた者もおり、彼らは主の神性を確認した者たちであった。
最後の審判・遺稿92
多くの回教徒は、自然的な光から、霊的な事柄については基督教徒よりもさらによく把握している、なぜなら彼らは大いに考え、真理を求めるからである。(後略)
最後の審判・遺稿93
審判において私は以下のことを見た、マホメット教徒は西から、または法王派の者をぐるりと取り巻いた周囲から、北向きの道により東の方へ、外観では円を描いて連れて行かれ、その途中で悪い者は地域が非常に拡がっているかの領域から外へ投げ出され、或る者はそこの荒野の中へ、ある者は沼地の水たまりの中へ、或る者は暗い森の中へ投げ込まれたのである。これらの事柄は彼らの山の後ろ側に起ったが、北の彼らの地域の側には渦巻きが涯しもなく拡がっていて、その中へまた、多くの者が、悪い生活を送っていたため、投げ込まれた。その他の者は東の方へ巡回しながら進み、さらに後ろの方へ拡がっている広大な地域の中へ拡がった。そこへ父なる神を、子を父とともにおられる最大の予言者として承認した者たちが連れて行かれた。かの地域は広くて、山と岡と谷間に分かれ、その上に彼らは配置されたが、そこでは彼らは順調に生活するのである。他の者よりもさらに知的な光を享受して、さらに善良であった者たちは同じく、基督教天界との交流が在る、かの所へ、間に介在して分離している地域は連れて行かれた。これらの者は、教えられて、主を受け入れる者たちであり、善く受け入れる者は南へ連れて行かれ、そこで彼らはそこの基督教徒の背後に彼らの天界を得たのである。
最後の審判・遺稿95
マホメット教徒から来ている者で、他の者のように、父なる神のみを承認し、主を最大の予言者として承認している者が幾人かいた。彼らは自分たちは神的なものが三人格に分割され、かくて三神に分割されることを理解することは出来ないと言った。((後略)
最後の審判・遺稿96
マホメット教徒の邸宅(マンション)は死後は宮殿である。彼らの大部分の者は西の地方にいる。最後の審判の後多くの者が新しくかの方面へ入って来たが、彼らは宇宙の神については殆ど考えはしないし、主については全く何一つ考えはしないで、マホメットを神として拝したのである。彼らは彼を見つけなかったため、基督教の地域の上の方にそびえている山の上で、他の一人のマホメットを選出し、このマホメットの見解を尋ね、その見解に従った、それからその新しいマホメットの命令により、基督教の地域になだれ込み、彼らを色々な方法で悩ました。しかし巡視を受け、彼らは当てもなくぶらつき回る国民であり、怠けることを歓び、何一つ有益なことを為そうとはしないものであることが暴露された後で、彼らの地獄へ投げ込まれた。彼らがバビロン派の者らとぐるになっている限りは、自分自身を目立たないものにすることも出来たのである。ついには彼らの住んでいた地は彼らの上の方へ覆い被さって来て、彼らは地獄へ投げ込まれた、彼らの地獄は火のように見えた。
最後の審判・遺稿97
マホメット教徒の中で多くの者は、主について多くの事柄を聞いたとき、天界の基督教教会へ行って、それに加わろうとした。しかし彼らは以下のように言われた、あなたたちは尚、主は人類に教えるために遣わされた最大の予言者、神の子、凡ての者の中でも最も賢明な方であるという、あなたらの宗教の中に、またはコーランから来ているその教義の中に尚とどまっていなくてはならない、それはあなたらは心の中で主の神的なものを承認することは出来ないで、ただ口先のみでしか承認していないという理由のためである、なぜならあなたらはそうした事柄を幼児の頃から吸収し、あなたらの霊的な善はあなたらの信仰のものであったようなものから部分的に形作られ、それは新しい信仰箇条によってはあまり急には消滅することは出来ないからであり、あなたらはただ誠実と公正の中に生き、かくてその善の中に生きなくてはならない、なぜなら誠実と公正はことごとくそれ自身においては主から発出している神的なものであり、あなたらはあなたらの流儀で依然誠実に生き、徐々に主のもとへ連れて行かれることが出来るからである、と。彼らは以下のように言われた、多くの基督教徒は主の神的なものを考えないで、ただ主の人間的なもののみを考えており、その人間的なものを神的なものとはしていない、例えば、ロマ・カトリック教徒は、同じくまた改革派の者も、そうしたものであり、彼らはそうした理由から父なる神が御子のために慈悲を持たれるようにと、父なる神のもとへは行くが、主御自身のもとへは珍れにしか行きはしないのであり、そうした信念と祈りのために、彼らは主については、主は他の凡ての者のように人間であると絶えず考えているのである、と。
最後の審判・遺稿98
私は以下のように話された、マホメット教徒たちの間には彼らが共通して手にしている一冊の書物が在るが、その中のいく頁かは、私たちの手にしている聖言のように、相応したものにより書かれており、その頁から若干の光がその諸天界に発している、と。
最後の審判・遺稿99
彼らに対する審判はさらに遠く西の方の長い地域へ進み、同じく北の方へも進んだが、そこで彼らは悪い法王派の者と入り混じり、私は彼らがそこの地獄と渦巻きの中へ投げ込まれるのを見た。
最後の審判・遺稿100
ギリシャから来ていて、世ではマホメット教徒と共に住んでいた多くの者が私と共にいて、以下のように訴えた、彼らは〔マホメット教徒らは〕今のようにあのときも自分たちが三人の神を拝しているということで自分たちを激しく罵りました、自分たちもまた彼らに向って、自分たちは一人の神を拝しており、その三人は一人であると答えましたが、それでも彼らはあなたらは三人を口にする以上は、それらは三人であり、その三人をあなたらは拝しているのであるとあくまでも食い下がって、その三人の中でどの神をあなたは一番拝するのか、と尋ねます、自分たちが自分たちは凡ての者を共々にして拝しているのですと答えると、そのときは彼らは、それでは一人の神がおるのであり、他の二人の神は小さな神であり、ただそのように言われているにすぎないのである、と言います。しかし彼らはその三人の神は平等である、と言われるのを聞くと、引き下がり、基督教徒は霊的な事柄においては判断力を僅かしか、または全然持ってはいない、と言って、基督教徒に反抗するのです、と。彼らは自分たちが三人の神は一人の神の三つの名前であると言わない中は、彼らは自分たちにとりついて自分たちを悩ませますが、そのことを言うと彼らは黙認するのです、と訴えた。彼らはその後でその一人の神の三つの名について尋ねた。彼らは天界から以下のように話された、すなわち、基督教徒はその三つの名前を聖言の文字の意義から得ていて、そこでは一人の神の三つの名前が言われていますが、父によりそこでは宇宙の創造者が意味され、子により人類の救い主が意味され、聖霊によっては明るくすることが意味されています、この三つのものは主のみの中に在り、主の中にその三つのものは一つのものとなっており、主はそのことを聖言の中に教えられています。(後略)
最後の審判・遺稿101
彼らは、以下のように言われた、すなわち、主は父と一つのものであられるという信仰を受け入れるマホメット教徒がおり、その者たちはその中では凡ゆる者が幸福である天界を持っており、彼らはそこに主から善と真理との霊的な結婚の中に生きている、と。
最後の審判・遺稿126
最後の審判の時ごろ、基督教徒はそこの中央に現れ、そこで中心から周囲にかけて距離をおいて配置され、また愛の善から発した真理の光に応じて色々な方向に配置された。この中央の周囲にマホメット教徒は善から発した真理の光に従って基督教徒に近く種々の方向に同じように配置されているのが見られた。(後略)
最後の審判・遺稿127
最後の審判が行われていたとき、マホメット教徒の先の方で西の方向にいた者たちは東の方へ導かれて行った。(後略)
最後の審判・遺稿128
マホメット教徒の荒地の北側にはまた同じような割れ目が在る。(後略)
最後の審判・遺稿167
(仁慈から)分離した信仰の中にいる者らは立って暴動を起して、殆ど全部の者にわたる反抗をかき立てた。彼らの教理とその学問のある指導者らは主を、また主から発する愛の生命を承認する者らに反抗して立ち上がった。彼らは東の方にいた者らを除いて凡ての者を煽動したが、これらの者は(東の方にいた者は)、北の方にいたマホメット教徒にさえ至るまでも主に守られた。(後略)
最後の審判・遺稿372
静思社『最後の審判と霊界の諸相』に見当たらず。365まで。
天界の秘義408
教会がもはやいかような信仰も存在しないほどに荒廃すると、その時―その前ではないが―新しく教会が始り、すなわち、聖言に『朝』と呼ばれている新しい光が輝き出てくるのである。新しい光または『朝』が教会が荒廃してしまわないうちは輝き出ない理由は、信仰と仁慈に属したものが汚れたものと混合して、そうした状態に在る限り[汚れたものと混合している限り]、光のまたは仁慈の如何ようなものも導入されることは不可能であるということである、なぜなら『毒麦』は『良い種子』を凡て破壊してしまうからである。
しかし信仰が存在しない時は、信仰はもはや冒涜される筈はない、それは人々は自分らに宣べ伝えられることを信じないし、そして承認も、信じもしないで、単に知るに過ぎない者は上述したように冒涜することはできないからである。現今のユダヤ人の場合がこれである、かれらは基督教徒の間に生活している結果、主がかれら自身が今まで期待してきた、また今後も期待しつづけるメシヤであると基督教徒により承認されていることを知っているに違いないが、そのことを承認もしないし、また信じもしていないため、そのことを冒涜することは出来ないのである。主について聞いている回教徒、異邦人の場合も同様である。ユダヤ教会が何物も承認しないし、何物も信じない迄は主は世に来られなかったのはこうした理由からであった。
天界の秘義2595
私は一種の旋回音を聞いたが、それは普通のものよりは荒々しいものであった。私はその音からすぐにその者らは異邦人から来ていることを知ったのである。(中略)これらの者は一夜の中にでも合唱隊の中へ、引いては調和の中へ入れられることが出来るものの、大半の基督教徒は三十年かかってもその中へは殆ど入れられることは出来ないと話された。(後略)
天界の秘義6047[3]
先ず教会の教義的な事柄が学ばれて、次にその教義的なものが真であるか否かを見るために、聖言を調べなくてはならないのである、なぜならその教義的な事柄は教会の主だった者らがそのように言っており、その信奉者連がそれを確認しているからといって真ではないからである、なぜならその場合凡ゆる教会と宗教との教義的な事柄は、たんにそれらがその国に在って、人々は生まれ落ちた時からそれらを信奉しているといった理由のみから、真理であると呼ばれねばならなくなり、教皇派のみでなく、クエーカ派の教義的なものも、またユダヤ教徒の、実にマホメット教徒の教義的なものさえも、その指導者たちがそう言っており、その信奉者らがそれを確認しているために、真のものとなってしまうからである。このことが聖言を調べて、そこにその教義的なものが真であるか否かを見なくてはならぬことを示しているのである。このことが真理を求める情愛から為されると、そのときはその人は主から明るくされ、何が真であるかを、何処からかは知らないが、認めることができ、その人の中に宿っている善に応じてその真のものを確認するのである。
天界の秘義9021
こうした理由から主を否定することは、教会の外にいる者たち、例えば異教徒、回教徒、ユダヤ人における冒涜ではない。
結婚愛332
(8)現在マホメット教徒は一人以上の妻と結婚することを許されているのは、彼らは主イエス・キリストが父エホバと一つであられることを認めず、かくて天地の神として認めておらず、それで彼らは真の結婚愛を受けることが出来ないためである。
(9)マホメット教の天界は基督教の天界の外側に在り、低い天界と高い天界の二つの天界に分けられており、畜妾を拒否して、一人の妻と共に住み、主を父なる神と等しく、天地を統べる支配権を与えられている方として認めている者以外たれ一人その高い天界には挙げられない。
結婚愛341
(8)「マホメット教徒は主イエス・キリストを父なるエホバと一つの方であることを承認しないため、それで主を天と地との神として承認しないため、彼らは現在一人以上の妻と結婚することが許され、それで真の結婚愛を受けることは出来ない。」(中略)
主を承認し、主に天地の神として近づくとき、彼の教えに従って生きる者のもとに、それが開かれる理由は、それ以外の方法では、連結はなく、連結がなくては受容もないということである。人間のもとに主は現存され、また主と連結することも出来る。主のもとへ行くことは現存をもたらしはするが、主の教えに従って生きることが主との連結を生むのである。そして主の現存のみは、主のものを受容しなくても存在はするが、しかし現存と同時に連結は受容とともに存在するのである。それらの事柄について私は霊界から得た以下の新しい事柄を述べよう。そこでは、たれか他の人を考えると、その考えられた人は凡て眼の前に現れてくるが、しかし一人として愛の情愛によらなくては他の者と連結しないのであり、そして愛の情愛はその他の者の言葉とその好むところを行うことによってもたらされるのである。この事実は、霊界では熟知されていて、その起原は主にあるのである。すなわち主もその方法で現存され、その方法で連結されるのである。
結婚愛342
(9)「マホメット教の天界は基督教の天界の外側に在って、低い天界と高い天界の二つの天界に分かれ、妾を斥けて、一人の妻とともに住み、私たちの主を、天と地を治める主権を与えられている、父なる神と等しい方として承認する者を除いてはたれ一人その高い天界に挙げられはしない」。これらの天界について特に何ごとかを話す前に、マホメット教の勃興に関連して主の神的摂理について多少話しておく必要がある。(中略)その宗教は多くの民族の偶像崇拝を破壊するために、主の神的摂理により起されたことを充分に明らかにするために、そのことを多少順序をもって説明しよう。(後略)
結婚愛343
マホメット教徒にもまた天界がある理由は、全世界遍く一人の神を承認して、悪を神に対する罪として避ける者はすべて救われるということである。マホメット教の天界は低い天界と高い天界の二つの天界に分かれ、低い天界では彼らは、世にいた時のように、幾多の妻や妾とともに住んでいるが、しかし妾を斥け、一人の妻と共に住む者はその高い天界へ挙げられることを、私は彼ら自身から聞いたのである。私はまた彼らには私たちの主が父と一つのものであることを考えることは不可能であるが、しかし主を父と等しいものとして、また主は父の子であられるから、天地を治める主権が主に与えられていると考えることは可能であることを聞いた。それでこれは主によりその高い天界へ挙げられる者たちの信仰である。
結婚愛344
私はかつて一夫多妻の結婚愛の特質を認めることが出来た。私はマホメットの地位を占めている者と話した。マホメット自身は決して現れないが、世から来て間もない者たちが、謂わば彼を見るため、その代理が彼の位置に任命されている。この代理は遠方から若干私と話し合った後で私に黒檀のスプーンを送り、またそれが彼から送ったものであることを示す他の物も送った。それと同時にそこにいる者らの結婚愛の熱を伝えられたが、それは浴場の悪臭を放つ熱として私から認められた。これを認めると、私は面をそむけた。するとそれを伝える道は閉じられたのである。
結婚愛348
(13)「一夫多妻が宗教から来ている者たちには、それは罪ではない」。宗教に反したものは凡て神に対する罪であると信じられ、他方、宗教とともに在るものは凡て神とともに在るため、罪ではないと信じられている。イスラエルの子孫のもとでは、一夫多妻は宗教から来ており、現在のマホメット教徒のもとでも、同じであるため、それが彼らに罪として帰することは出来なかったし、また出来もしない。さらにそれが彼らに罪とはならないように彼らは自然的に止まって、霊的にはならず、そして自然的な人は受け入れられた宗教に属したものに何かの罪があることを認めることは出来ないのであって、それを認めるのはただ霊的な人のみである。この理由から、コーランから彼らは私たちの主を神の子として承認はするものの、主には近づかないで、マホメットに近づき、そして彼らがこれを行う限り、自然的に止まり、それで一夫多妻には何かの悪が在ることを知らず、また、実に、その中に好色のあることも知りはしない。
主はさらに言われている―
もしあなたらが盲目であるなら、罪がないであろう。しかしあなたらは自分らには見えると言うからには、あなたの罪は残っている(ヨハネ9・41)。
一夫多妻は彼らに罪を自覚させることが出来ないため、死後彼らは彼ら自身の天界を持ち(342)、そこに彼らの生活に応じて歓びを得ている。
結婚愛352
(16)「しかしこの二つの天界のどちらからも、たれ一人基督教天界の天使と交わることは出来ない」。その理由は、基督教天界には神的真理である天界の光が在り、神的愛である天界の熱が在り、この二つは善と真理とがいかような種類のものであるかを明らかにしており、また同じく悪と誤謬がいかような種類のものであるかを明らかにしているということである。基督教天界とマホメット教天界との間の連絡(*)は全く取り去られており、同じく基督教天界と異教徒の天界との間の連絡もことごとく取り去られているのはその理由によっている。
*連絡・・・「思想感情の伝達」を意味している。
結婚愛466
この結婚的なものは、一夫多妻的姦通を犯す基督教徒の場合その姦通により破壊されることは、彼はマホメット教徒のように、妾と妻とを平等に愛することは出来ないのであり、彼が妾を愛し、または妾に熱するに応じて、その妻を愛しなくなり、これに冷ややかになるという事実から極めて明白である。そしてさらに忌むべきことには、それに応じて彼は心で主を単に自然的な人間として、マリアの子として認めて、同時に神の子としては認めなくなり、またそれに応じて基督教を無価値なものにしてしまうのである。
真の基督教9
真の基督教137
真の基督教183
真の基督教268
真の基督教342
真の基督教479
真の基督教678
真の基督教828 済み
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真の基督教835
続最後の審判14
続最後の審判29
続最後の審判68 済み
続最後の審判69 済み
続最後の審判70 済み
続最後の審判71 済み
続最後の審判73
1.マホメット教は多くの民族の偶像礼拝を破壊するために主の神的摂理により起こされた
スウェーデンボルグ/神の摂理255(ロ)
マホメット教は多くの民族の偶像礼拝を破壊するために主の神的摂理により起こされたことをさらに詳細に示すために、この主題をある順序をたてて説明しなくてはならない。
先ず、偶像崇拝の起源について一言しなくてはならない。マホメット教が生まれる以前は、偶像礼拝は全世界にあまねく行われていた。その理由は主の来られる以前の諸教会は凡て表象的な教会であったということである。イスラエル教会もまたこのようなものであった。幕屋、アロンの衣装、いけにえ、エルサレムの神殿に関連した凡ての物、また律法そのものも表象的なものであった。賢者の科学そのものである相応の科学は、種々の物体により表象されるものにかかわる知識を実に内に含み、世界の古代民族の間に存在し、特にエジプトで盛んに行われ、そこに彼らの象形文字を生んだのである。その知識は彼らに凡ゆる種類の動物、樹木、山、岡、川、泉、また太陽、月、星、の意義を教えた。彼らの礼拝は凡て表象的であって、全く相応から成っていたため、彼らは山と岡、また森、庭園で礼拝を行った。それゆえ彼らは泉を清め、神を礼拝するときは、顔を登る太陽に向けた。
更に彼らは馬、牡牛、子牛、羊、また鳥、魚、蛇の彫像すら作って、それを家やその他の所にその物が相応し、または表象している教会の霊的な物に基礎づけられた順序を以って排列した。彼らはまた神殿に類似の物をおいて、その意味している霊的な物を思い浮かべた。しばらくして、相応の知識が忘れられたとき、彼らの子孫は、彫像そのものを聖いものとして礼拝し始めた、彼らは、先祖たちが彫像の中に何ら聖いものを認めないで、単にそれをその相応により聖い物を表象し、かくてそれを表現するものとして眺めたにすぎないことを知らなかったのである。
これが全世界に満ちた偶像礼拝がアジアとそれに近接した島々のみでなく、アフリカとヨーロッパに起った由来である。これらの偶像礼拝を根絶するために、主の神的摂理は、東洋人の性格に適合して、両契約聖書の聖言から来ている物を多少含み、主は世に来られたこと、極めて偉大な予言者であり、人間の中最も賢明な者であり、神の子であられたことを教える新しい宗教を設立させられたのである。これはマホメットを通して行われ、彼に因んでその宗教はマホメット教と呼ばれた。既に述べたように、主の神的摂理は東洋人の性格に適合したこの宗教により非常に多くの民族の偶像礼拝を破壊し、彼らに、霊界に入る前に主に関わる知識を与えようとしてそれを起こされたのである。
そしてこの宗教は彼ら凡ての者の考えと生活に適応し、順応していなかったなら、かくも多くの王国により奉じられず、また彼らの偶像崇拝を根絶しなかったであろう。この宗教は主を天地の神として承認しなかった、なぜなら東洋人は神を宇宙の創造者として認めていて、神が世に来て、人間性をとられたことを理解することが出来なかったからである、それは丁度基督教徒がそれを理解しないで、その思いの中に主の神性を人間性から分離してその神性を天界の父の近くにおいているが、その人間性は何処にあるのか知らない様に似ている。
これらの考察から、我々はマホメット教もまた主の神的摂理によって生まれ、その宗教を奉じ、主を神の子として承認し、同じようにその持っている十誡の教令に従って生活し、悪を罪として避ける者は凡てマホメット教の天界と呼ばれる天界に行くことを認めることができるのである。この天界もまた三天界、すなわち最高、中間、最低の天界に分かれている。主を父と一つのものとして、かくて唯一の神として承認する者は最高の天界におり、一夫多妻主義を捨てて、一人の妻とともに生きる者は第二の天界におり、最後の天界には教えを受けつつある者がいる。「続最後の審判と霊界」(68−72)にマホメット教につき更に多くのことを見ることが出来よう、そこにはマホメット教徒とマホメットが取扱われている。
2.今村光一抄訳・編/続スウェデンボルグの霊界からの手記
昭和60年11月20日第1刷 平成5年7月14日第56刷/経済界刊/リュウブックス/(平成6年)1994.2.1購入
今村光一抄訳・編/続スウェデンボルグの霊界からの手記
P228
第6章 私は霊界でこの人物に会ってきた
マホメッド
マホメッドに最初に会ったのは、まだ私の「死の技術」の初期のころで、日記をめくってみると、1748年1月6日の日記に、私は初めて彼のことを書いている。
そしてこの日の午後、私が日中の普通の意識状態でいたときに、ヴィジョンの中に彼が現れてきたと日記には書いてある。ヴィジョンの中の霊界の彼は、自分のところに押しかけていた霊たちに怒って言っていた。「わしのところへ来るな、キリストのところへ行け!」彼はそう言って霊たちを追い払おうとしていた。そして、怒りながら何かを叫び続けているのだった。
このあと一ヵ月ぐらいの間に私は何度か彼に出会ったが、それは言ってみれば、地獄の霊によって誘惑され、試されるマホメッドであった。彼がこのように試されたのは、彼の中にそのような欲望があったからだと、私は今結論的に言えると思っている。
ある夜、彼は『聖書』に出てくる龍によって誘惑されていた。しかし、私はそのとき眠っていて『聖書』のこと以外に考えていなかった。だから、彼が誘惑され、試されているのは知らなかったが、私が目をさますと彼は言った。
「わしの前で姿を変えて、わしを試そうとしたのはお前だろう」
私は、自分は眠っていたのだから、そんなことは知らないと答えた。しかし、彼の言葉から、彼は試されはしたが、自分の信仰を売り渡したりしなかったことが分かった。
彼はまた、仮面をかぶった龍によってさまざまに試された。しかし、彼はゆるがなかった。
このあと私は何日間かにわたってマホメッドの周囲に集まった霊たちが最上界の天国の霊たちがするように輪を描いて彼の周囲を回り、音楽が奏でられている光景を見たりした。
3.1746年〜1765年の記録『霊界日記』 マホメットとマホメット教徒たち
霊界日記339
死んだ者たちの中で天界の入口にいる或る者らは、怒ったため、そこから去り、その考えるところに従って、神メシア以外の者に治められている他の天界を探し、ついに他の一つの天界を、すなわち、マホメットにより治められている天界を見つけ出したように彼ら自身に思われた。疑いもなく彼らは亡くなって数年にもならないマホメット教徒らと話し合った。彼らはその口説き落とそうと願っている他の者らにそのことを示そうと願うと、そのときその他の一つの天界と言われているものが深淵に開かれたように私には思われ、そこから私は彼らが話しているのを聞くことが出来たが、私はそのとき、彼らはマホメット教徒であって、自分らはそこで自分たち自身の天界へ来たのであり、すなわち、そこにいるのである、と考えていることを教えられたのである。私がしばらくの間彼らと話した際、神メシアは一人の天使により(*)[一人の天使を手段として]栄光の中に彼らに現れたもうと。
*これはマホメット自身ではなく、マホメットの代理者である、と思われる、と英訳者は注を施している。
彼らはそのとき平伏して、敬虔な態度で崇拝した。その後マホメットがそこから速やかに引き挙げられ、私と共になり、私と多く話したが、私は彼が神メシアについて教えられた際、彼はつつましく語り、実に多くのキリスト教徒よりもさらにつつましく語ったことを証することが出来るのである。私は彼がそのようにも考えていることを感じることが出来た。彼はまたその深淵にいる者たちに以下のように教えた、すなわち、自分は自分自身では何一ついかようなことも行うことは出来ない、自分は自分が神ではなくて、単純な人間であり、また、恐らく或る霊たちが自分と話したことを認めている、と。彼はまた真の信仰の教義を教えられることを願っている。私はまた彼にアムステルダムの都とそこの市役所を二つの面から示し、またその内部を示したが、彼はその非常に数多い大理石の像に驚いた。彼は今もまたその場にいて、同じことを言明している。 1747年[59歳]12月14日
霊界日記340
そのマホメット教徒たちもまた、彼らが聖言のさらに内的な事柄と天界の諸真理を聞いた際、天界の幸福な状態に陥ったことを告白した。そして今私がこれらの事柄を記している際、彼らはイエス・キリストであられる宇宙の神を崇めつつ、平伏しており、自分たちもまた天界の天使たちと同じようにそのことを認めています、と言っている。このことについては他を参照(342番)。1747年[59歳]12月14日。
(マホメットについて)
霊界日記344
いわば、他から明確に区別された天界が表象され、そこにはマホメットを拝する者らがいたが―しかしただ霊たちのみがいて―天使たちはいなかった。その霊たちはその天界で言われていることを聞いたとき、自分たちもまた登って話したいと願った、彼らはやってくると、極めて巧妙に思慮深く、またキリスト教徒の天界の霊たちも恥じるほどの快い機敏さをもって話した。彼らはマホメットについて尋ねられ、自分たちはマホメットを承認していたのであり、それ以外のことは知らない、しかし自分たちは天と地の創造者、一人の神のみを崇拝したく願っている、と答えた。そのときまたマホメットは、かの天界の、いわば、波がうねるような動きとともに―なぜなら多くの者たちがいたからであるが―彼らに、自分は自分自身では何一つ行うことは出来ない、話すことさえ出来はしない、自分は自分自身では何ら力を持ってはいない、たんに只一人の個人に過ぎない、と答え、そのことを霊たちの前に証言した。かくて彼はそこから挙げられ、至高の神を、疑いもなく、神メシアを崇拝した。1747年[59歳]12月14日
霊界日記345
マホメットは、彼のいる天界の霊たちは至る所で数が減りつつあるが、彼は彼らの行った所を知ってはいない、と話した。しかし彼は彼らが天使たちの天界へ連れて行かれて、そこで信仰の教義を教えられていることを知らされ、さらに、彼らの小さな子供たちは凡て天界にいることを知らされた。
霊界日記346
マホメットはまた自分は地上に生きているとしか考えていない、と言った、なぜならそうしたことが他生の凡ての者の状態であり、彼らは、例えば彼らは身体の中では生きてはいないといった個々の事柄について教えられはするものの、それでもすぐその後ではそのことを忘れてしまうからである、なぜなら彼らはそうした事柄の記憶を、必要ないくたの理由のために、与えられないからである。彼のまわりの霊たちもまた自分らは自分らが地上に生きていると考えている、と言ったのである。
(マホメット教徒の小さな子供のみは直ぐにも天界へ入ってくるが、少年と少女たちは直ぐには入らない)
霊界日記347
マホメット教徒の子供たちについて、年の余りいかないその少年少女たちもまた神メシアの天界へ連れて行かれるか、否かと不安の思いが起こった。しかし私は、彼らの小さな子供たちは挙げられはするが、しかし約十歳前後の少年、少女たちはその教育、能力、性質に従って挙げられることを話された。後の者たちは直ぐには天界へ挙げられはしないで、彼らの霊に委ねられ、かくて徐々に完成され、引き挙げられるのである。私はまた、自分たちは、その以前知っていた者たちの中で多くの者は何処に行っているかを知ってはいない、と言われるのを聞いた。私はまたその少年少女たちがそんなに速やかに挙げられない理由は彼らが異教の教えに固く滲み込んでいるということであることを認めた。
(マホメット教の霊たちはそのマホメットに対しては非常に従順であり、心から彼に一切の務めを果たしているが、キリスト教国の多くの霊たちはそうではない。)
霊界日記403
私は再びマホメットと話したが[339、344番]、異なった方法で教えられた霊たちがそこから私のもとへ遣わされた。これらの者はマホメットに他の、また新しい方法で歓ばしいことを作り、または楽しいことを導入することを教えられていたが、彼はそれが私に伝えられるように願っている、と言った。しかしそれは許されなかった。しかし彼は、自分は霊たちを送って、その者たちの従順さと服従とを示す許しをすでに得ている、と言った。その際これらの者は、実に小さな者も大きな者も、神メシアのみを崇拝しなくてはならないことを教えられた、なぜならたれにでも宇宙を治めたもう神メシアを崇拝する許しが与えられているからである。この教えにより彼らは心を燃やされて、極めてへりくだって神に感謝をささげ、そのことを自分たちの心の中に抱いておかなくてはならない、と約束した。1747年[59歳]12月26日。
彼らは頭から足まで一種の湯浴みに歓んで浴することを教えられた。
(マホメット教の霊たちについて。)
霊界日記407
今日もまた霊たちがマホメットから私のもとへ遣わされた、彼らは、渦巻きの形をとって流れ入りつつある間に、彼ら自身の方法で、足の底から上の方へ向かって幾度も洗うことを模倣するように教えられ、そのことをこうした模倣により私の中に行ったため、それで私はそこから歓ばしい知覚を覚えている者たちはそのことを歓んでいることを疑うことは出来ない、それから私はまたしばらくの間マホメットと話した。1747年[59歳]12月27日。
(マホメットについて。彼は彼のもとへ来る群集を追い払って、彼らは神の子イエスのもとへ行かなくてはならない、と言ったことについて。)
霊界日記447
午後、目覚めている視覚の中で[目覚めつつも霊眼で]私は、マホメットが彼のもとへ来る群集に向かって怒りに駆り立てられ、多少暴力をふるって、実に怒りさえもして、彼らを追い払って、彼らは神の子、イエスのもとへ行かなくてはならない、彼自身のもとへ来てはならない、イエスが神の独り児であられて、全天界を支配されており、その方に世界と地の至高の創造者により力が与えられたもうている、と言っているのを見た。わたしは同じようなことを彼が言っているのを聞きもしたのであり、今、私は、彼がこれらの事柄を聞き、またこれらの言葉を支配し、私がこのことを彼の礼拝者に言わなくてはならない、と祈っているのを認めている。1748年[60歳]1月6日。
(或る一人の利口な霊について、または他の一人のマホメットについて。)
霊界日記477
朝、目覚めると、或る一人の多少利口な霊がいた、彼は―私の周りにいた者たちは不満を洩らしはしたものの―善いものをことごとく精魂を傾けて悪いものに変えてしまったのである。私は目を覚まして、こうした能力に優れているその者と話した。彼は自分は真理とは何であるかを探求したい、と言った。それで私は手当たり次第に、この問いを、かの問いを発したが、彼はそれを巧妙に解いて、(その問題の)真理を発見した。それで彼は善良な霊たちの仲間の一人として迎えられ、しばらくの間その間に留まった。しかし彼は余りにも活動的で、自分自身から行動しようと願ったため、そこから送り出されて、他の霊たちの仲間の一人となった。このことから私は或る種の霊たちは他の者よりも、さらに優れた認識の才能により優っており、その相違は殆どたれ一人そのことに自分が説得されるのに甘んじはしないといったものであることを結論づけることが出来るのである。
(幻想[妄想]について、それがいかようにして取り除かれるか、また残存する種類のものについて。)
霊界日記477イ(*)
*この項には番号が付されていない。番号は英訳者による。
さらに、ここにはまた、真で善いものを理解することが出来るといった能力で(他に)卓越しているところの、マホメットと言われる者がいたが、その者とも私はかの生命の中へ初めて入ってくる霊たちを支配している幻想について話した、(人間はかの生命へ初めて入ってくる際)徹底的に遠ざけなくてはならないものは幻想以外にはなく、また人間は幻想[妄想]を支持し、それを楽しむため、それを取り去ることは容易ではなく、それに抵抗しなくてはならない。それで幻想[妄想]はイエス・キリストにより少しづつ取り除かれ、真実と善良とに相応して、それらのものと共になることの出来る内的な、引いては、さらに内的な幻想へ移されるのであり、そこから天界の楽しさと歓びとが生まれ、かくて人間もまたその者自身の原理から歓喜をもって生きるのである。これらの事柄を私はメッカのマホメットと共に話した。他にも一人またマホメットがいたが、しかしその者のたれであるかは私には分からない。彼もまた崇められている、と言われている。かくて各々が真理と善とを理解する能力において優れており、実に各々が凡ゆる事実と善良との源泉はイエス・キリストであられる、と告白しており、そのことを彼らはそのことについてはたれ一人いささかも疑いを持つことが出来ないほどの多くの経験からここに証言しようと願っている。
(究極の[最も外なる]天界における凡ゆる霊たちの中で最悪の者らは自らが基督教徒であると言明した者らであり、またユダヤ人である。)
霊界日記480
私は多くの経験から、最も外なる天界における凡ゆる霊たちの中で最悪の者は世で基督教徒と呼ばれている者らであることを知った。これらの者の大半は何ら信仰を持ってはいないで、真の信仰に属した事柄をことごとく迫害し、憎悪しており、自らが教えを受けることに堪えることもしない。彼らは頑強に自説を主張し、実に、極めてたばかりに満ち、主に反抗し、イエスに対する信仰に反抗し、忠実な者に反抗して、かくも甚だしいたばかりの糸をつづり合わせているため、こうした(憎悪が)彼らの『精神』または根深い性質に密着していることに驚かないわけにはいかない、なぜなら彼らはその際その気質から行動しており、その気質に放任されるときは、復讐神(フューリーズ)さながらの者となるからである。実に、マホメット教徒は、教えられることが出来て、自らが導かれることに甘んじ、容易に信仰を受けるため、そのことには非常に驚くのである。基督教徒に次いで最悪の者は、アブラハムを神として拝した者らを除いたユダヤ人であり、これらの者もまた非常にたばかりに満ちている。凡ての者の中でも最も柔和な者たちはアフリカ人であり、彼らについては前を参照(432、453番)。1748年〔60歳〕1月15日。
(マホメットについて。)
霊界日記509
マホメットは、その願いに従って、幾多の試練を受けた。そのことが彼の願いであったことは私は幾多の事柄から結論づけることが出来た。実に、彼はこの夜その竜が行ったことにより試練を受けた、すなわち、私が全く甘美な眠りに陥って、『パラクレート[慰め主]』という言葉の意義とその慰め主にかかわる事柄以外には殆どいかようなことについても夢みはしなかった間に(その事についてはヨハネ14・16−26、15・26、16・7−15を参照)、その竜はその際マホメットの前に私が目を覚ましていると見せかけ、恰も話しもし、答えもしているのは私であるかのように振舞った。しかし私はそのことについては何一つ知りはしなかった。そのため、マホメットはかくも邪な者は私であり、しかもそのことがその丸一晩にわたっているとしか認めることが出来なかったからには、彼はそのため、その竜はまた私を真理の方面でたらしこむことが出来る以上は、イエス・キリストの力は余り偉大なものではないか、偉大なものであるか、と疑わない訳にはいかなかった。私が変わることが出来ることを怪しんだ。しかし私が彼に、それは私が眠っている間に起ったことであり、私は言われたことは何一つ知らなかったのであり、私はただパラクレート[慰め主]といった事柄について考えていたに過ぎなかったことを話すと、彼は怪しんだのである。彼はまたそのことを或る経験により示されたのである、すなわち、その竜は私を眠らせようとしたのである。これらの事柄はマホメットはそのように試みられはしたものの、信仰に固く止まっていたことを示している。1748年[60歳]。1月22日と23日との間の夜。(続きを参照)。
(続き、マホメットについて。)
霊界日記510
ついに彼はこれらの事柄が[509番を参照]眠っている間に行われて、私はそのことについてはいかようなことも何一つ知っていないことを確信すると、その時彼は他の方法で試みられた、すなわち、彼はその竜によりヴェールの下へ入れられ、かくて他の者のように働きかけられ、実に他の者よりも厚いヴェールの下へ入れられた。彼はまた―私は今話されたのであるが―しばられはしたが、依然たじろぎはしなかった。
霊界日記511
後で彼は他の者たちにより眠らされたが、彼らは合理性が彼から取り去られて、彼は、普通の霊たちのように、彼自身の資質に一致したことを話すように仕向けられている、と考えた、彼はその眠りの中にすらイエス・キリストについて尋ねられたが、その時もまた彼はイエス・キリストを告白したのである。ここから彼は信仰にとどまっていて、イエス・キリストのみにより確認を与えられていると結論することが出来るのである。これらの事柄は彼の面前で記されたのであり、その若干のものは彼はまた私に口授したの1748年[60歳]1月23日。
霊界日記511イ。
マホメットは、自分は今これらの事柄を憶えているが、もしそれらが書かれなかったなら、自分は何一つ憶えてはいなかったであろう、と今言っている。1748年[60歳]9月2日。(*)
*この項は後にスエデンボルグが牽引を作っていた際挿入されたのである(英訳者注)。
(マホメットの霊たちについて、彼らはいかように教えられて、天使となるか、について。)
霊界日記512
マホメットのもとへ行く者たちは天使たちが行うような旋回を行い、実に歌をもってまたは美しい旋律の声をもってそれを行うのであり―私は眠りから覚めた際、幾日もの間その声を聞いたのであるが―それで彼らは夜通しその霊的な旋回を行ったのである。二度にわたり、さらに今も、彼らもまた天使たちのように旋律の美しい表象物を形作ることを、実に世の救い主についてそれを形作ることを与えられたのである。彼らは天使たちにも匹敵する程の巧みさをもってそのことを行った、と言われ、それで彼らもまた天使たちの合唱団に入れられている。
霊界日記513
さらに、前の場合に、彼らはマホメットの周りに同じような旋回を行っていたとき、沐浴といったような、前に話した事柄を(403、407番)、歓びながら表象した。彼らはまた多くの事柄が彼らに世の救い主についても恰も眠りの中に置かれている時のように起こっている、と言っており、そのことは、マホメットから隠れていたため、マホメットの認めなかったものである。このようにして、彼らは幾多の変化を通して真理を教えられ、教えられた者たちは彼から連れ去られるのであり、そのことは彼が私に前に話したところである。
霊界日記514
さらに、私は朝とまた夕の時間に以下のことを聞いた、すなわち、真に天使たちとなった者のみでなく、また天使的な霊たちと競い合って、今非常に称賛されているマホメット教の霊たちによってもかの天使の旋回が行われつつあったのである。このことが起った際私は感動した。マホメットは、自分も私のように同じように感動した、と言った。1748年[60歳]1月23日。
(基督教徒の背信について。)
霊界日記1558(第3巻)
多くの霊たちの前で、また、私の考えるところでは、マホメットの前でも、私は私自身のもとで以下のことはいかに驚くべきことであろうか、と考えていた、すなわち、口をつぐんで言っていたのである(なぜなら私の考えは一種の言葉であるから)、すなわち、他生では基督教徒と呼ばれている者たちの中では極めて僅かな者しか主をたずね求めはしないのに、人間を、否、悪魔を信奉している、または礼拝している他の者らはその地的な偶像崇拝の対象を探し出して、そこにおいてすらその崇拝を奉げているのであり、そのことはマホメットを、アブラハムを、ヤコブを、モーセを、または他のたれであれ、偶像として承認された者を尋ね求めている者らの実情から明白となっているのである。しかし私は答えとして以下のことを知らされた、すなわち、悪霊と悪魔とは何であれ神的なものはことごとく認識し、知覚はするが、それに反感と憎悪とを抱き、従って身体の生命の中でも、身体を去った後でもそれに力をつくして反抗するものの、彼らを支配している状態に一致しているもの、または悪魔的なものについては、全く逆なことが起ってくるのであり、そのことは、ちなみに、主が宇宙の神、支配者であられることを豊かに証明しているのである。1748年〔60歳〕3月19日。
(ユダヤ人について)
霊界日記2260(第3巻)
私は或る者がユダヤ人について以下のように話しているのを聞いた、すなわち、それは他の国民とは全く相違しているような国民であり、大きな事柄においても、小さな事柄においてさえも、何であれ、社会に属しているものを凡て破壊しようと企てることがその民族の中に内在しているのである、なぜなら何処であれ機縁が与えられる所には、彼らは自らを入り込ませて、秩序の法則を、すなわち、社会の法律〔律法〕を破壊することにまさって他のいかようなことをも歓びはしないからである。その理由は彼らは主であるところの愛と秩序そのものに対し憎悪を抱いており、その指導者らもそうしたものである、ということである。そうしたことをまた、私は多くの経験により、事実、二年に亘る経験により教えられて、知っているのである。1748年〔60歳〕6月9日
霊界日記2261(第3巻)
このような国民は陽 の下では与えられてはいない、凡ゆる地域の偶像崇拝者らでも彼らよりは遥かに善良である、マホメットはこうした国民が存在し、しかも存続することが出来たことを怪しんだのである。こうしたことを前の経験から憶い出すことは当を得たことであろう
霊界日記2996(第4巻)
天使たちは、何であれ幼児の最初期からも人間の中に在ったものをことごとく、また何であれ人間が考えたものをことごとく、主から知っており、そのことをまた私は天界へ移された者たちを通して知ったのである。彼らはマホメットとマホメット教徒である、と私は信じているが、彼らはそこからこれらの事柄を私の思いの中へ入れて、それらの事柄を証明しており、私が意識しない間にも、私の手を導いてこのように書かせるのである。1748年〔60歳〕8月30日。彼らは何であれ生起するものの中に限定不可能な事柄を観察しており、それらは人間の観念によって決して把握されることは出来ないのであり、かくて書かれている各々の語の中にも(そうした物を観察しているのである)。これらの語もまた彼らから発しており、彼らは、あなたらの観察している事柄も自分たちが前に見ている事柄の中に観察される物に比較されるなら、ほとんど無意味なものである、と話され、それで彼らはさらに内的な天界へ挙げられて、そこから私と再び話して、自分らが前に見た事柄は殆どいかようなものにも達しないほどにも粗悪なものである、と言ったのである。11748年〔60歳〕8月30日。彼らはさらに、幼児たちがいる所へ挙げられて、幼児たちは他の者のが一人として知らないことを知っていることに最初驚いて、そこからまた以下のように言ったのである、自分らが前に見たものは殆ど無意味なものであり、一つの観念〔考え〕の中にも数巻の書冊によっても記すことが出来ないほどにも幾多の限定されないものが含まれているのである、と。1748年〔60歳〕8月30日。
霊界日記3040(第4巻)
天使の形または合唱団が極めて頻繁に私のもとにおり、また私から聞かれもして、そのことは親しいものとなってしまったため、私は観察された事例を各々書き留めはしなかったのである、例えば、或る者たちは、こうした形の中へ入れられ、後には霊的な者と天的な者との間にいることが出来るようにと、そうした形の中へ、表象するもの、または観念もなしに、流れ入ることを学ぶのであり、さらに、マホメット教徒たちの合唱団は、私には極めて親しいものとなったのであり、その音のみからでも私はその合唱団は彼らから成っていることを知ることも出来たのである。さらに彼らが言葉もなしに口の音声へ流れ入ったときのように、私の記憶していない他の事柄も在るのである。
4.1763年刊『続最後の審判』 霊界のマホメット教徒とマホメット(68〜72)
スエデンボルグ著『続最後の審判』(静思社『最後の審判とバビロンの滅亡』に併録)
霊界のマホメット教徒とマホメット(68〜72)
続最後の審判68
霊界のマホメット教徒は西方の、教皇派の後に現れ、彼らの周囲で謂わば円のようなものを形作っている。彼らがそこに現れる主な理由は、彼らは主を、人間に教えるために世につかわされた最大の予言者、神の子、凡ゆる者の中でも最も賢明な者として承認しているからである。かの世界の各々の者は、主と一人の神とを告白するに従って、改革派の居る中央から離れて住んでいる。なぜならその告白が心を天界に連結させ、主を上にいただいている東からの距離を決定するからである。悪い生活から、心にその告白を持たない者は、彼らの下の地獄にいる。
続最後の審判69
宗教は人間の最内部を作り、その他のものは凡てその最内部から発しているゆえ、そしてマホメットは彼らの宗教に密接に関係しているゆえ、或るマホメットが常に彼らの視野の中におかれ、彼らが主を上にいただいている東へその顔を向けるように、基督教徒の中央の下に置かれている。それはコーランを書いたマホメット自身ではなく、彼の務めを果たす他の者であり、またそれは必ずしも同一人ではなくて、変えられるのである。かつてそれは、アルジェリアから連れて来られて、マホメット教徒となったサクソニー出身の者であったことがある。彼は基督教徒でもまたあったので、主について、主は彼らが世で信じていたような、ヨセフの子ではなく、神の子そのものであると彼らに告げるように心動かされ、そこから主の人格と本質とは父と一つであるとの考えを彼らに注ぎ入れた。このマホメットに、その後他の者が続き、彼らもまた同じことを宣べるように心動かされた。こうした手段により、彼らの多くの者は主に関わる真に基督教的な信仰に同意し、そしてこのように同意する者は東にさらに近い社会へ連れて行かれ、そこで天界から連絡が彼らに与えられ、その後その天界へ上げられるのである。
かのマホメットの席のある所には、松明のような火が現れて、彼はそれと知られるが、しかしその火はマホメット教徒以外の者には凡て見えないのである。
続最後の審判70
コーランを書いたマホメット自身は現在では見られることは出来ない。彼は以前マホメット教徒を治めていたが、しかし神として彼らの宗教の凡ゆる物を支配しようと願ったため、教皇派の下に保っていたその席から追われ、下方の、南に近い右側に送られたと私は告げられた。かつてマホメット教徒の若干の社会はマホメットを神として承認するように邪悪な者により煽動された。この騒ぎを静めるために、マホメットは下から上げられて、彼らに示された。そのとき私もまた彼を見たのである。彼は内的な認識を何ら持たない形体的な霊のように見え、その顔も黒色に近かった、そして私は、彼が『私が諸君のマホメットである』とのみ言うのを聞いた、間もなく彼は謂わば下に沈んで、彼の場所へ帰った。
続最後の審判71
彼らの宗教については、それがそのようなものとして許されたのは、それが東洋人の資質に一致していたからであり―そのためまたそれは非常に多くの王国に受け入れられたのであるが―同時にそれは十戒の教えをその宗教の内容とし、聖言から若干の物を取り入れたからであり、特にそれが主を神の子として、凡ての者の中でも最も賢明な者として承認したからであった。またさらにそれは多くの国民の偶像崇拝を消滅させたのである。マホメットがその追随者たちにさらに内的な宗教を開く手段とされなかった理由は、天界への不潔なものを発散する一夫多妻のためであった。なぜなら一夫一妻の結婚は主と教会との結婚に相応しているからである。
続最後の審判72
私は霊界で彼らとの会話から認めることが出来たことではあるが、彼らの多くは真理を受け入れ、理論の中に公正を認めている。私は一人の神、復活、結婚について彼らと語った。「一人の神」については、彼らは言った。基督教徒が三一性を語って、三人格が在り、各人格は一人の神であると言いつつも、神は一人であると言うのを私たちは理解出来ないのである、と。しかし私は答えた、基督教徒から成っている天界の天使たちはそのようなことは言わず、神は本質と人格で一つであられ、その中に三一性が在り、地上の人間はこの三一性を三人格と呼んでおり、そしてこの三一性は主の中に在ると言っている、と。私は、このことを確証するため、マタイ伝とルカ伝から、そこに父なる神による主の懐妊について言われている凡てのことのみでなく、主御自身が主と父とは一つであることを教えておられる記事を彼らの前で読んだ。これを聞くと、彼らはそれを認めて、それでは神的本質は主の中に在ると言った。
「復活」について彼らは言った、基督教徒は死後の人間の状態を語って、霊魂を風かまたは空気のようなものと考え、そのためそれが最後の審判の日に身体に再び結合するまでは凡ゆる歓喜を剥奪されていることを私たちは理解出来ない、と。しかし私は答えた。ただ或る者たちがそのように言うのみであって、その部類に属さない者は、自分たちは死後天界に入って、天使たちと語り、天界の喜びを知るであろうと信じている。彼らはその喜びを説明はしないが、世の喜びと違ったものであるとは考えていない、と。また私は、死後の状態について多くの事が現在彼らに啓示されたが、これは以前彼らの知らなかったものであると彼らに言った。「結婚」について私は彼らと大いに語り合い、特に彼らに以下のように話した。結婚愛は天的愛であって、それは二人の間にのみ存在することが出来、多くの妻との連結はその愛の天的なものを持たない、と。彼らは私の理論を聞いて、その公正を認め、また以下のことも認めた。すなわち、一夫多妻が彼らに許されたのは、彼らは東洋人であるからである、彼らはこの許しがなかったならヨーロッパ人以上に醜い姦淫に燃え上がって、滅んでしまったことであろう、と。
5.1771年刊『真の基督教』 霊界のマホメット教徒 (828〜834)
真の基督教828
マホメット教徒は霊界ではロマ・カトリック教徒の外側の西に住み、教皇派の周囲の謂わば境界を成している。彼らが基督教徒の次に在る理由は、我等の主を人類に教えるために世に遣わされた神の子、凡ゆる予言者の中最も偉大にして最も賢明な者として認めているからである。霊界の凡ゆる者は、その一人の主なる神に対する告白に従って、中央の基督教徒から離れて生活している、何故ならその告白が彼らの心を天界と結合させ、主のまします東からの距離を決定するからである。
真の基督教829
宗教は人間の心の最高の領域に宿り、そこから低い諸領域がその生命と光を得ている。マホメット教徒の心にはマホメットに対する考えが宗教と密接に連なっているため、マホメットを装う者が常に彼らの目に見える辺りに置かれ、彼らが主の在す東方にその面を向けるように、そのマホメットの代理は中央の基督教徒の下に置かれる。これはコーランを書いたマホメットではなく、また常に同一の人間でもない。アルヂェリア人によって捕虜にされマホメット教徒となったサクソニー生れの一人が嘗てこの位置を占めたことがある。彼は基督教徒であった為、彼らに主のことを話し、主はヨセフの子ではなくて神の子であると語った。後にこの人物に他の者が代った。このマホメットを代表する位置はマホメット教徒にのみ見える松明のように焔によって示される。
真の基督教830
コーランを書いた真のマホメットは最早その追随者等には見えない。最初彼は彼等を統べ治めていたが、神のように彼等の宗教のすべてを支配しようと努めた為、ロマ・カトリック教徒の下にある彼のその座席から退けられ、南に追われたことを私は告げられた。或るマホメット教徒の一社会が嘗てマホメットを神として認めるように悪霊にそそのかされたことがあった。その騒擾を鎮めるためにマホメットは下界から連れて来られ、彼等に示された。その際私もまた彼を見たのである。彼は内的な認識を少しも持っていない形体的な霊に似、その顔は極めて暗かった。私は彼が余が諸君のマホメットであると語るのを聞いた。かく言って彼は再び下に沈んで行った。
真の基督教831
基督教徒に対するマホメット教徒の憎悪は彼等が三人の神的な人格を信じ、従って三人の神を三人の創造者として礼拝していることに向けられており、また彼らはロマ・カトリック教徒を偶像の前に跪くという理由から嘲っている。かくて彼等はロマ・カトリック教徒を偶像教徒と呼び、凡ゆる基督教徒を狂信者と呼んでいる。基督教徒は一人の全能な神を語り、三人の神に就いて呟き、頭を三つ持った一人の神を礼拝している、それ故基督教徒は三つの角を持った牡鹿のようなものであり、その一つ一つは各一人の神のために生えていると同時に三つは一人の神のために生えているのである、このように基督教徒は祈り、このように歌い、このように講壇から説いていると彼らは語っている。
真の基督教832
マホメット教徒は一人の神を認め、宗教的な動機から公正を愛し善を為す他の凡ての国民のように、彼等自身の天界を持っているが、然しそれは基督教徒の天界の外側に在る。然しながらマホメット教徒の天界は二つに分かれている。低い天界に住む者は数人の妻と共に立派に暮らしている、彼らはその妾を棄て我らの救い主なる主を天界と地獄の支配者として認めるならば高い天界に挙げられる。彼等には父なる神と主とは一人にて在すことを考えることは不可能であるが、主は父なる神の御子にて在す故、天界と地獄とを支配し給うと信ずることは可能であると私は聞いたのである。この信仰の故に主は彼等を高い天界に挙げ給うことが出来るのである。
真の基督教833
マホメット教が基督教よりも更に多くの民族によって受け入れられているということは、神的摂理に就いて考えると同時に、基督教徒として生れた者のみが救われ得ると信ずる人々には躓きとなるかもしれない。然し神的摂理を真に信ずる者達は間もなくこの疑惑を克服するであろう。何故ならマホメット教は主を神の御子、凡ゆる予言者の中で最も偉大な最も賢明な者として認めるからである。マホメット教徒はコーランを彼等の唯一の宗教書として認め、之を録したマホメットを一種の宗教的な尊崇を以って眺めることは真であるが、然し彼等の宗教は多くの国々から偶像教を根絶するために主の神的摂理により世に存在するに至ったのである。
マホメット時代以前、偶像礼拝は世界の多くの国々の間に隈なく拡まっていた。是は主の来り給う以前の諸々の教会は凡て表象的であった為である。例えばイスラエル教会では、幕屋、アロンの衣服、犠牲、エルサレムの神殿にかかわる凡ゆる物は表象的であり、彼らの律法ですら表象的であった。古代人、特にエジプト人は(その象形文字によって示されるように)相応即ち表象の科学を理解し、之を諸々の科学の中の科学として認めた。是によって彼等は動物、木、山、岡、川、泉、太陽、月、星によって表象される物を理解した。このように彼等は霊的な物を理解した。何故なら凡て是等の物は天使の霊的な智恵を表したからである。さて、彼等の礼拝は凡て純粋に表象的なものであった為、古代人は山、岡の上に、森、庭の中に礼拝し、泉を清め、また馬、牛、子羊、鳥、魚、蛇の像を造った。是等の物を彼等はその神殿の近くに、またその庭と家の中に置き、その表す霊的な物に応じて配列した。暫くして、相応の科学が忘れられた時、後代の者等はその彫刻された像その物を礼拝し始め、彼等の父祖達はそれらの物をその表す聖いもののためにのみ尊重したことを知らなかった。是が世界の極めて多くの国々に隈なく拡まった偶像教の起原であった。
是等の偶像教を絶滅するために、主の神的摂理により東の民の資質と性質とに適合した新しい宗教が起った。それは旧新約聖書の或る物を含み、主は世に来り給い、最も偉大な最も賢明な予言者、神の御子にて在し給うたことを教えた。是はマホメットを通じて為され、この宗教はその名称を彼から得た。このように主は彼等が霊界に入る以前に、主に関し幾許かの知識を得るように配慮し給うたのである。この宗教は、彼等の考え方に一致して一夫多妻主義が許されない限り、斥けられ、偶像礼拝は継続したであろう。何故なら東洋人は、このことが許されないならば自らを邪な愛欲に委ねて滅んで了ったからである。
真の基督教834
私は嘗て或るマホメットの代理者と話し合っていた際、その一夫多妻的な愛の性質を示された。彼は私に黒檀製の匙と他の物を送ってくれた。すると直ちに種々の場所から彼らの一夫多妻的愛の熱の吐け口が開かれた。その一夫多妻の愛はトルコ風呂、魚の煮えている台所、不快な食堂、薬店の調剤室、娼家、淫売屋、またはなめし革工の庭先から発する熱のように感ぜられた。その中にまた嫉妬から生ずる不快な強烈な、焦げ付くようなものが混じっていた。然し基督教徒的天界の天使的な愛の温かさは薔薇の花園、葡萄畑、香料、また葡萄圧搾機から発する芳香のように感ぜられる。読者は霊界では愛の喜びは屡々香りとして認められることを既に知っておられる。