蛙
悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている(ヨハネ8・44)/
天界の秘義7352
「川は蛙を這い出させるでしょう」。これは、これらの誤謬から幾多の理論が発生するであろう、を意味していることは以下から明白である、即ち、『エジプトの川』の意義は誤謬であり(6693、7307番)、『蛙』の意義は(前の7351番のように)理論である。『蛙』が理論を意味していることは、彼らは水の中にいて、盛んに騒がしい音を立て、鳴き、また不潔な物の中にいるためである。単なる誤謬そのものから発した理論のいかようなものであるかを若干の例により説明しよう。凡ゆる物は神的なもの[神]から発生しており、自然は神的なものが働く媒介的な手段であるのに、凡ゆる物を自然に帰して、殆ど何ごとも神的なものに帰しはしない人間は単なる誤謬そのものから論じるのである。人間は獣のようなものであって、単に考えることが出来るため、獣よりは完全であるに過ぎない、それで獣のように死んでしまうと信じ、かくして信仰に属した思考と愛に属した情愛とを通して人間が神的なものと連結していることを否定し、そこから人間の復活と永遠の生命を否定する者、こうした人間は単なる誤謬そのものから論じており、こうした人間は誤謬そのものから語っているのである。地獄は存在しないと信じている者も同様である。そしてまた人間の得る一切はこの世の生命の歓喜であり、それで人間はこれを楽しまなくてはならない、なぜなら人間は死ぬときは、全く死んでしまうのだから、と信じている者も同じである。一切の物は自分自身の才智に、また運にかかっていて、神の摂理には―その全般的なものを除いては―かかってはいないと信じている者は単なる誤謬そのものから論じているのである。また宗教は単純な者を拘束する以外には無用の長物であると信じている者もまた同じである。聖言は神的なものではないと信じる者らは特に誤謬そのものから論じているのである。約言すると、真理の神的なものを全く否定してしまう者らは誤謬そのものから論じるのである。
天界の秘義7357
「あなたの上に、あなたの民の上に、あなたの凡ての僕の上に蛙が上ってくるでしょう」。これは、誤謬から発した理論が凡ゆる物の中に全般的にも個別的にも存在することを意味していることは、前に言われたことから明白であり(7355番)、エジプトの地にいた一切の者は『パロとその民とその僕ら』により意味され、かくて誤謬が全般的にも個別的にも意味されているのである。『パロとエジプト人』により誤謬が意味されていることは前にしばしば示したところである。地獄にいて、かつて世で知っていた諸真理を剥奪された者らは誤謬以外には何ごとも話すことは出来ないのであり、それでこうした奈落の者が、霊たちの世界に現れる時のように話すときは、その話すことは誤っていることがすぐ知られるのである。このことは他生では正しい者たちに普通の経験から知られている。彼らが誤ったこと以外には何ごとも話さないことはまたヨハネ伝の主の御言葉から明らかである―
あなたらはあなたらの父、悪魔のものであり、あなたらの父の欲を為そうと望んでいる。彼は初めから人殺しであり、真理がその中にないため、真理に立たなかった。彼は偽りを話す時は、彼自身のものから話すのである、なぜなら彼は偽りを話す者であり、偽りの父であるからである(ヨハネ8・44)。
なぜなら人各々その者の愛の情愛に従って話すのであり、たれ一人、悪い者が真理を話す場合のように、偽装、偽善、欺瞞、詐欺によらない限りその者の愛の情愛に反したことを話すことは出来ないからである。しかしそれでも彼らがそのように〔欺瞞から〕話す真理も彼らのもとでは誤謬である。が、他方善から真理にいる者たちは真理を話さないわけにはいかないのである。