地震

 

 

時の終り

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.デボラ

 

 

 

 

1.聖書

 

 

マタイ24・3−14

 

イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」 イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。 戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。 しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。 そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。 そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。 偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。

不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。 そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」

 

 

 

マタイ27・50−52

 

しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。

 

 

 

黙示録16・17−18

 

第七の天使が、その鉢の中身を空中に注ぐと、神殿の玉座から大声が聞こえ、「事は成就した」と言った。そして、稲妻、さまざまな音、雷が起こり、また、大きな地震が起きた。それは、人間が地上に現れて以来、いまだかつてなかったほどの大地震であった。あの大きな都が三つに引き裂かれ、諸国の民の方々の町が倒れた。神は大バビロンを思い出して、御自分の激しい怒りのぶどう酒の杯をこれにお与えになった。すべての島は逃げ去り、山々も消えうせた。一タラントンの重さほどの大粒の雹が、天から人々の上に降った。人々は雹の害を受けたので、神を冒涜した。その被害があまりにも甚だしかったからである。

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

最後の審判とバビロンの滅亡3注

 

地震は教会の状態の変化である(天界の秘義3355)。

 

 

 

最後の審判とバビロンの滅亡61

 

滅亡は巡視の後に行われた。なぜなら巡視は常に先行するからである。その人間が如何なるものであるかを点検する行為、さらに善い者を悪い者から分離することが巡視であり、そのとき善い者は移されて、悪い者は後に残されるのである。このことが為されると、大きな地震が起って、そのため彼らは最後の審判の切迫したことを認め、凡ての者はふるえた。

 

 

 

天界の秘義3353

 

『飢饉と疫病と、地震が色々な所に起るであろう』はもはや善と真理とは承認されなくなり、かくて教会の状態は変化し、そのことが『地震』であることを意味している。

 

 

 

天界の秘義3354

 

これらの事柄から主のこれらの言葉により意味されていることが明らかである、すなわち、教会が歪められた最初の状態が意味されていて、それは人々が善いものと真のものとをもはや知らなくなり始め、そのことについて互いに論争し、そこから誤謬が起る時生まれるようになるのである。これが最初の状態であるため、『終わりはまだこない』と言われており、また『これらの事柄は悲しみの始まりである』と言われ、この状態が「色々な所の地震」と呼ばれ、それはその内意では一部分の、または最初の教会の状態の変化を意味している。この凡てが弟子たちに言われたことは、それは教会に属している凡ての者に言われていることを意味している、なぜなら十二人の弟子たちは凡てそのような者を表象したからである(2089、2129、2130番)、それで『たれもあなたたちを迷わさないように注意しなさい』と言われているのである。

 

 

 

天界の秘義3355

 

 内意では『地震』は教会の状態における変化を意味していることは以下から明白である、すなわち『地』の意義は教会であり(566、662、1066、1067、1262、1733、1850、2117、2118、2928番)、『震えること』または動くことの意義は状態の変化であり、ここでは、教会の事柄にかかわる、すなわち、善と真理との方面の変化である。そのこともまた聖言の他の記事から明白である、例えばイザヤ書には―

 

 怖ろしい者の声から逃れる者は坑に陥り、坑の中から出て来る者は罠にかけられるようになるであろう、瀑布は高い辺りから開かれ、地の基は揺るがされた、地はこぼたれ、またこぼたれ、地は動かされ、また動かされ、地はよいどれのようによろめき、またよろめき、小屋のように彼方此方に揺れる、そのとがはその上に重くかかり、かくてそれは倒れて、再び起き上がりはしないであろう。かの日エホバは高い辺りに高い所の軍勢に、土地の上で諸王に報いられるであろう(24・18−21)。

 

 この記事では『地』は教会であることは明白である、なぜならとり扱われているものは、教会であって、その基礎が、もはや善と真理とが知られなくなると、『揺るがされる』と言われ、教会自身は『くだかれ、動かされ、あちらこちらとよろめき、揺れる』と言われるからである。『土地の諸王』は真理であり、ここでは報復される[報いられる]誤謬である。(『王』は真理であり、その対立した意義では、誤謬であることについては、前の1672、2015番を参照、『土地』は『地』のように教会を意味しているが、しかしそこには相違があることは、566、1068番を参照)。

 

 

[2]さらに―

 

 わたしは人を純金よりもまれにし、人をオフルの金よりもまれにしよう、それゆえわたしは天を揺るがし、地は揺るがされてその所を離れるであろう、万軍のエホバの憤りのうちに、その怒りの憤りの日の中に(13・12、13)。

 

 これは審判の日を語っており、この記事でもまた『地』は明らかに教会を意味していて、その状態が変ると、それは『揺るがされてその所から離れる』と言われている。(『所』が状態であることは前の1273−1275、1377、2625、2837番に見ることが出来よう)。さらに―

 

 これが地を揺るがせ、世を荒野のようになし、その都を破壊するその人間であるか(14・16、17)。

 

 これはルシファのことを語っており、『地』は教会を意味しており、これを彼は、人間がその教会の凡てのものを自分自身に帰するとき、『揺るがせる』と言われている。(『王国』は教会の真理であることは前の1672、2547番に見ることができよう)。

 

 

[3]エゼキエル書には―

 

 ゴグがイスラエルの地に来るかの日、わたしの憤りはわたしの怒りの中に起るようになるであろう、わたしは熱意と憤怒の火のうちに語ろう、まことにかの日イスラエルの土地は大いなる地震が起るであろう、と(エゼキエル38・18−20)。

 

 『ゴグ』は内なる礼拝から分離して、かくて偶像的なものとなった外なる礼拝を意味し(1151番)、『地』と『イスラエルの土地』は霊的教会を意味し、『地震』はその状態の変化を意味している。ヨエル書には―

 

 地はかれの前に震えた、諸天は震えた、陽と月は暗くなった、星はその輝きを失った(2・10)。

 

 ここにもまた主題は最後の審判の日であり、『地が震えること』は教会の変化した状態を意味し、『陽と月』は愛の善とその真理とを意味し(1529、1530、2441、2495番)、それらは善と真理とがもはや承認されなくなると、『暗くなる』と言われている、『星』は善と真理とにかかわる知識を意味している(2495、2849番)。ダビデの書には―

 

 かれは怒られたため、地は揺るがされ、震え、山々の基は震え、揺るがされた(詩篇18・7)。

 

 『地が揺るがされ、震えること』は歪められるようになった教会の状態を意味している。

 

 

[4]ヨハネの書には―

 

 わたしは見つめた、彼が第六の封印を開いたとき、見よ、大いなる地震が起った、陽は髪の袋のように暗くなり月はことごとく血のようになり、天の星は地に落ちた(黙示録6・12、13)。

 

 ここには『地震、陽、月、星』は前のヨエル書に似た意義を持っている。さらに―

 

 その時間に大きな地震が起り、都の十分の一の部分は倒れ、その地震により七千名の人間が殺された(黙示録11・13)。

 

 これらの凡ての記事から『地震』は教会の状態の変化以外の何ものでもなく、『地』はその内意では教会以外の何ものでもないことが明白であり、『地』は教会であるため、前の天と地とに代わってそれにつづいて起る『新しい天と新しい地』により内なる教会とまた外なる教会以外には何ものも意味されていないことが明白である(1733、1850、2117、2118番)。

 

 

 

天界の秘義3356

 

 『震えること』または『動くこと』は状態の変化を意味している理由は、それが空間と時間の中に起るが、他生では空間と時間とは何ら考えられないで、それに代わって状態が存在しているということである。他生では凡ゆる物は空間の中に現れるように現れて、互いに他のものに恰も時間の中で続いているように続いているということは実際真ではあるが、しかし空間と時間はそれ自身では状態の変化である、なぜなら空間と時間とはその源泉から発しているからである。これは凡ゆる霊に、実に邪悪な者らにすら完全に知られていて、彼らは他の者たちに招致された状態の変化により、その者たちを、実際はそこにはいないのではあるが、そこにいるように現れさせるのである。人間はそのことを以下の事実から知ることができよう、すなわち、人間はいくたの情愛とそこから派生してくる楽しさの状態の中にいるに応じて、またいくたの思考の中にいて、その結果、身体から離れている状態の中にいるに応じて、彼は時間の中にはいないのである、なぜならその時は多くの時間も彼にはほとんど1時間にも思われないからであり、そしてこのことは彼の内なる人または霊は状態を持っていて、それに、その外なる人における空間と時間とが相応しているためである。それで『動くこと』は空間と時間における継続的な進行であるため、その内意では状態の変化である。

 

 

 

 

3.デボラ

 

 

デボラ/生ける神より明かされた英知/5巻下P20

1999年8月17日

  あなたに言う。私は弱い人たちの苦しみを通して、強い人たちを断食状態に置くだろう。彼らが私の威厳を体験しなくてもすむように、あなたの祈祷を私に与え なさい。(お声の調子は、特別に厳しいものです)。私は、激烈な地震の罰を制止することはしないだろう。その時のために準備しなさい!