自主性と合理性

 

 

タラントンのたとえ(マタイ25章)

 

 

 

1.人間は自分の中にこれらのもの(生活と信念との悪と誤謬、また善と真理)を知り認めることなしに改良されることは出来ない

2.この二つの能力がないならば、人間には全く意志も理解もなく、かくて人間でなくなる

3.悪の起原は本質的には人間の能力である自主性と合理性の濫用にある

4.凡てこれらの事は人間は自己から生まれた力により考え行動するように人間に見えるということに依存している

 

 

 

 

1.人間は自分の中にこれらのもの(生活と信念との悪と誤謬、また善と真理)を知り認めることなしに改良されることは出来ない

 

 

神の摂理16

 

人間が悪と同時に真理にいることを許されており、もし主がそれを妨げられるならば、それは主の救いの目的と相容れなくなる理由は、それを許されていることによって人間の理解は、たとえその人間の愛は下に止まっているにしても、知恵の光の中へ高められ、真理を認め、または真理を聞いて、それを認めることが出来るということである。なぜならこのようにして人間はその理解の方面では天界におり、その愛の方面では地獄にいることが出来るからである。この許しは人間に拒まれることは出来ない、なぜなら合理性と自主性の二つの能力は人間から取り去られることは出来ないからである。なぜならこの能力は人間を人間として、獣から区別されるものであり、この能力によってのみ人間は再生し、かくて救われることが出来るからである。なぜなら人間はこの能力により知恵に従って行動し、また知恵を欠いた愛により行動することも出来、またこれにより、上にある人間の知恵は、下に在るその人間の知恵を人間に認めさせ、かくて思考、意図、情愛を認めさせ、従ってその生活と信念との悪と誤謬を、また善と真理を認めさせるのであり、そして人間は自分の中にこれらのものを知り認めることなしに改良されることは出来ないからである。

 

 

 

 

2.この二つの能力がないならば、人間には全く意志も理解もなく、かくて人間でなくなる

 

 

神の摂理96

 

「この二つの能力がないならば、人間には全く意志も理解もなく、かくて人間でなくなる」。なぜならこの人間の意志は、恰も人間自身の力により意志するかのように自由に意志することが出来ることのみから成り、このように意志することは、主から絶えず彼に与えられているところの自主性の能力から発しており、また人間の理解は、合理的なものを、またはその反対のものをそれ自身の力により理解するかのように理解することが出来ることのみから成っており、この力は、主から絶えず彼に与えられている他の能力、即ち、合理性から来ているからである。これらの能力は、意志と理解のように、人間の中に結合している。例えば人間は意志することが出来るため、理解もまた出来るのである。なぜなら意志することは理解なしにはありえないのであり、理解はその相手または配偶者であって、それなしではそれはありえないのであり、それ自主性の能力が与えられているからである。更に、もし意志の要素が理解の働きから除かれるならば、人は何ごとも故理解することは出来ない、そして人は意志するに応じて、もし知識と呼ばれる補助者がそこに現れるか、またはその瞬間に記憶に甦るかするならば、人は理解する力を持つのである。なぜならこの補助者は職人の手の道具のようなものであるから。人は意志するに応じて、即ち、理解することを愛するに応じて理解することが出来ると我々は言うのである、なぜなら意志と愛とは一つのものとして働くからである。実際、これは背理のように思われるが、しかし理解することを愛さない者、従って理解しようとしない者にのみそのように思われるのであって、理解しようと欲しない者は、自分は理解出来ないと言うのである。

 

 

 

 

3.悪の起原は本質的には人間の能力である自主性と合理性の濫用にある

 

 

神の摂理15

 

悪の起原は本質的には人間の能力である自主性と合理性の濫用にある(264−270)。邪悪な人間も善良な人間も等しくこの二つの能力を持っている(266)。

 

 

 

4.凡てこれらの事は人間は自己から生まれた力により考え行動するように人間に見えるということに依存している

 

 

神の摂理210[]

 

凡てこれらの事は人間は自己から生まれた力により考え行動するように人間に見えるということに依存している。」

人間は自分自身から生き、かくて自分自身から考え、意志し、語り、行動するように見えない限り、人間でないことは前の頁に充分に示された。人間はその職業と生活に関連した凡ての物を恰も自分自身の深慮により左右するかのように左右しない限り、神的摂理により導かれ、左右されることは出来ないことが推論される、なぜならもしそうでないと彼は手をだらりと下げて、口を開け、眼を閉じ、流入を期待して息を殺して立っている人間のようになり、かくて彼は、自分は自分自身から生き、考え、意志し、語り、行動しているという認識と知覚から彼に生まれている人間的な特質を失うと同時に人間を獣から区別する自主性と合理性の二つの能力を失うからである。この外観なしには人間は受容し、働き返す力を持つことは出来ず、かくて不滅でなくなることは既に本書とまた「神の愛と知恵」を取扱った著作に示されている。それゆえもし諸君が神的摂理により導かれようとするならば、諸君の深慮を主人の財産を忠実に処理する僕、部下として用いられよ。この深慮は、商売の資本として僕たちに与えられて、僕たちはその清算をしなければならなかったタラントである(ルカ19・13−25、マタイ25・14−30)

人間には人間自身の深慮は深慮そのものであるかのように見える。彼は自分の中に自己愛という、神と神的摂理の最も恐るべき敵を抱いている限り、そのことを信じている。これは生来凡ての人間の内なる心に住んでいる。もし諸君がそれを摘発することが出来ないなら―それは摘発されまいとしているが―それは安全に住んで、扉を人間により開かれないように、また人間がそれを開いた後で自分が主により追い出されないようにと守っている。人間は悪を罪として、恰も自分自身の力により避けるかのように避けることにより、しかし自分は主から与えられている力によりそれを避けることを承認しつつ避けることにより戸を開くのである。これが神的摂理が共になって働く深慮である。