十戒の二枚の板石

 

 

二つの本質的なもの

 

 

 

 

1.十誡の二枚の板石

2.人間は自分自身の板石の誡命に従うに応じて、その力と明るくされることを受ける

 

 

 

 

1.十誡の二枚の板石

 

 

神の摂理95

 

主の人間との結合があり、人間の主との結合があるため、律法の二枚の板石があり、その一つは主に、他の一つは人間に関連している。人間が人間の板石の律法を、恰も自分自身の力によって成就するかのように成就するに応じて、主は御自身の板石の律法を人間に成就させられることが出来るのである。しかしその凡てが隣人愛に関係している人間自身の板石の律法に服従しない人間は、その凡てが主への愛に関連している主の板石の律法に服従することは出来ない。人殺し、盗人、姦淫する者、また偽証人は如何にして主を愛することが出来ようか。このような性格を持つことと神を愛することとは矛盾であると理性は宣言しないか。悪魔はそうした性格を持たないか。彼は神を憎む以外に何を為し得よう。しかし人間は殺人、姦淫、盗み、偽証を地獄のものとして嫌忌するとき、主を愛することが出来る、なぜならそのとき彼はその顔を悪魔から主に向けるから。そして彼はこれを為すとき、愛と知恵は彼に与えられ、その愛と知恵は人間にその顔から入ってくるが、頸の後ろからは入ってこない。主との結合はこのような相互的な方法によってのみ起こるゆえ、二枚の板石は契約と呼ばれている、なぜなら契約は二人の間になされるからである。

 

 

 

 

2.人間は自分自身の板石の誡命に従うに応じて、その力と明るくされることを受ける

 

 

神の摂理329[4]

 

「かくて凡ての者は天界に行くように意図され、何人も地獄に行くようには意図されていない」。

 

主は何人も地獄に投げ込まれず、霊が自分自身をそこに投げ込むことは、「天界と地獄」を取扱った著作に示されている(545−550)。これが死後の凡ての邪悪な神の無い人間の実情であり、また彼が世にいる間の実情である。しかし彼は世では改良されることが出来、救いの手段を抱いて、それを自分のものとなることが出来るが、この世を去った後は、それが不可能となるという相違がある。救いの手段は、悪は十誡の神の律法に反するものとして避けねばならない、神の存在を承認しなくてはならないというこの二つの真理にかかっている。この二つの事は凡ての人間に、もしその者が悪を愛さないならば、可能である。なぜなら主は絶えず彼の意志に流れ入られて、彼に悪を避ける力を与えられ、その理解に流れ入られて、彼に神の存在を信じる力を与えられるからである。しかし何人もその一方を為さないならば、他方をまた為すことは出来ない、両者はその一枚は主に、他の一枚は人間に関連している十誡の二枚の板石のように結合している。主は御自身の板石により凡ての人間を明るくされ、これに力を与えられ、人間は自分自身の板石の誡命に従うに応じて、その力と明るくされることを受ける。それ以前は二枚の板石は恰も一枚が他の一枚の上におかれて、封印されているように見えるが、人間が自分自身の板石の命令に従うに応じて、封印を解かれて、開かれるのである。現在十誡は、単に子供と少年の用のためにのみ開かれるところの、閉じられた書物または文書以外の何であろう。少し年をとった誰かに、『これをしてはいけない、それは十誡に反するから』と言っても、彼はこれを聞くであろうか。しかしもし、『これをしてはいけない、それは神の律法に反するから』と言うなら、彼は聞くかもしれない。しかし十誡は神の律法そのものである。霊界で多くの者が試みられたが、十誡または信仰問答書(カテキズム)のことが言われると、彼らはそれを軽蔑して斥けたのである、その理由は十誡は人間の板石であるその第二の板石で、悪は避けねばならないことを教えているということであった。人間は不敬虔からか、または業には些かの効力もなく、信仰のみが有効であるという教義的な信仰からか、その何れかから、悪を避けそこなうとき、彼は十誡または信仰問答書のことが言われると、それを恰もそれは子供たちの書物であって、自分には何の益ももたらさないかのように、軽蔑するのである。これらの事を記したのは、救われようと欲する者は誰でも、その救われることの出来る手段の知識も、 またその力も欠いてはいないことを示すためである。それ故人間は凡て天界へ入るように定められていて、何人も地獄へ入るように定められているいないことが推論される。

 

 

 

スウェーデンボルグ/信仰12

 

 もしたれかが自分自身の中で、『たれが信仰である真理を内的に承認することが出来よう、わたしには出来ない』と考えもし、または他のたれかにもそのように言いもするなら、どうしてそのことが出来るかを、私は言おう。即ち、悪を罪として避けて、主に来られよ、そのときあなたにはそれがあなたの望むほど可能となるのである。

 

(悪を罪として避ける者は主の中にいることについては、「新しいエルサレムのための生命の教義」18−31を参照し、こうした者は真理を愛して、それを認めることについては、32−41を、彼は信仰を得ることについては、42−52を参照されよ)。