地獄の火
火/
1.聖書
2.炭火
3.憎悪と復讐
4.欲念の刑罰
5.硫黄で燃えている火の湖
6.悪魔の群が、真っ赤に燃える熱い石炭の姿で飛び出てきた
7.薪
8.松明(たいまつ)
9.欲念
1.聖書
申命記32・35
わたしが報復し、報いをする
彼らの足がよろめく時まで。
彼らの災いの日は近い。
彼らの終わりは速やかに来る。
詩篇94・1
主よ、報復の神として
報復の神として顕現し
全地の裁き手として立ち上がり
誇る者を罰してください。
箴言25・21−22
あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。
渇いているなら水を飲ませよ。
こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。
そして主があなたに報いられる。
ローマ12・19−20
愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互に愛し、尊敬をもって互に相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。聖なる者たちたちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはいけません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互に思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたがはすべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
旧約聖書続編エズラ記(ラテン語)16・48−54
彼らが町々や家や財産やわが身を飾れば飾るほど、彼らの罪のためわたしの怒りは激しくなる。」主は言われる。売春婦が純潔で善良な婦人を激しく憤らせるように、正義は、不正が自分を飾るとき、激しく憤る。そして、地上のあらゆる罪を吟味する正義を擁護する方が来られるとき、正義は、面と向かって不正を告発する。だから不正も、その業もまねてはならない。なぜなら、見よ、間もなく不正が地から取り去られ、わたしたちの間で正義が支配するからである。罪人は、自分が罪を犯さなかったと言ってはならない。「わたしは神とその栄光の前に罪を犯しませんでした」と言う者の頭の上には炭火が燃えるからである。
2.炭火
箴言25・21−22
あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。
渇いているなら水を飲ませよ。
こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。
そして主があなたに報いられる。
ローマ12・19−20
愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
旧約聖書続編エズラ記(ラテン語)16・48−54
彼らが町々や家や財産やわが身を飾れば飾るほど、彼らの罪のためわたしの怒りは激しくなる。」主は言われる。売春婦が純潔で善良な婦人を激しく憤らせるように、正義は、不正が自分を飾るとき、激しく憤る。そして、地上のあらゆる罪を吟味する正義を擁護する方が来られるとき、正義は、面と向かって不正を告発する。だから不正も、その業もまねてはならない。なぜなら、見よ、間もなく不正が地から取り去られ、わたしたちの間で正義が支配するからである。罪人は、自分が罪を犯さなかったと言ってはならない。「わたしは神とその栄光の前に罪を犯しませんでした」と言う者の頭の上には炭火が燃えるからである。
天界と地獄584
地獄は、至る所に、山や、岡や、岩の下にも、平原や、谷間の下にもある。山、岡、岩の下にある地獄へ通じている入口、または門は、穴や岩の裂目のように目に見え、あるものは拡がって、広く、あるものは窮屈で、狭く、その多くは凸凹が激しい。凡ては、その中を覗き込むと、暗く、また薄暗く見えるが、しかしその中にいる奈落の霊らは燃えている石炭から発してくるような光の中にいる。彼らの眼はそうした光を受けるのに適しているが、それは、彼らは世に生きている間、神的真理を否定することによって、その真理に対しては暗闇におり、誤謬を確認することによって、その誤謬に対しては一種の光にいたという理由によっている。そのため彼らの眼の視覚はこの光に適合するようになっており、またその同じ理由から天界の光は彼らには暗闇となり、それで彼らはその穴から出てくると、何一つ見えない。これらの事から、人間は神を承認して、天界と教会の物を自分の中に確認するに応じて天界の光の中に入り、神を否定して、天界と教会の物に反したことを自分の中に確認するに応じて、地獄の暗闇に入ることが明らかにされたのである。
(その人の上にはすでにゲヘンナの炭が積み上げられている)
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音2巻P550
「平和は皆さんと共に。
『あなたは偽証してはならない』と、言われています。
嘘吐きほど人をむかつかせる者が他にいるでしょうか? 彼は正しくない言葉を遣って、残酷非道な行為を結集してはいないでしょうか? はい。ありえます。わたしは重大なことにおける嘘吐きについて話しているのですが、嘘吐きは残忍です。彼はその舌で一つの名声を殺します。したがって暗殺者と大して異なりません。わたしはむしろそれ以上だと言います。暗殺者は体だけを殺します。嘘吐きはある人の名の誉れと記憶を殺します。だから二度人を殺します。流血の惨事にはなりませんからほとんど罰せられることはありませんが、人の名誉と、中傷された者の一族の名誉を毀損します。また、宣誓をしながら偽証して他者を死に追いやる者の場合も、わたしは黙って見逃しはしません。その人の上にはすでにゲヘンナの炭が積み上げられている。
3.憎悪と復讐
天界の秘義1861[8]
(前略)同じく以下のように言われている―
彼らは硫黄で燃えている火の湖の中へ投げ込まれた(黙示録19・20、20・14、15、21・8)。
天界の秘義1861[9]
これらの記事(黙示録9・2、17、18、19・20他)では『火』は欲念を、『煙』は最後のときを遍く支配する誤謬を意味している。これらの事柄はヨハネによりその内的な視覚が開かれたとき、丁度それらのものが他生の中で現れるままに見られたのである。同じようなものがまた霊たちによりまた死後霊魂たちにより見られるのである。ここから地獄の火の何であるかを認めることができよう、即ち、それは憎悪、復讐、残酷、またはそれと同一の、自己愛以外の何物でもないのである、なぜならそうしたものにこうしたものがなるからである。このような性質の人間は、その身体の生命の間では、外側ではいかように見えようとも、もし天使たちにより綿密に点検されるなら、その天使たちの目にはそれ以外のものとしては見えないのである、即ち、その者の憎悪は火の松明として、そこから派生してくる誤謬は煙の炉として現れるのである。
天界の秘義6832〔9〕
ルカ伝には―
その富んだ人間はアブラハムに言った、父アブラハムよ、私を憐れんで、ラザロを遣わし、その指先を水につけて、私の舌を冷やさせて下さい、私はこの焔の中で苦しみ悶えています(ルカ16・24)。
人間の生命の火は元素の火とは異なった起原から発していることを知らない者は、『地獄の火』により世に在るような火が意味されているとしか考えることは出来ないが、聖言ではそうした火は意味されてはおらず、愛から発出している火が意味され、かくて人間のものであって、太陽としての主から発出している火が意味されているのである。この火は、(その火に)反したものの中にいる者たちへ入ると、欲念の火に変化するのであり、その欲念とは、前に言ったように、復讐と憎悪と残酷を求める愛であり、自己と世への愛から発しているのである。これが地獄にいる者らを責め苛む火である、なぜなら彼らの欲念がほしいままにされると、彼らは、各々他よりも卓越しようと欲し、他からその者に属しているものを秘かな、または公然とした術策により取り上げようと欲しているため、互に他に襲い掛かり、また凄惨な、言語に絶した方法で互に他を苦しめ合うからである。それが双方の側の実情であるため、そこから恐るべき憎悪が発生し、またそこから残忍な行為が遂行され、特に魔法により、また幻想により遂行されるが、その技術は無数であって、世には全く知られてはいないのである。
天界と地獄585
平原や谷間の下に在る地獄に通じた入口、または門は色々な外観を見せて現れており、あるものは山、岡、岩の下にあるものに似、あるものは穴やほら穴に似、あるものは大きな裂目や渦巻きに似、あるものは沼に似、あるものは湖に似ている。凡てのものは覆われていて、霊たちの世界から悪霊が投げ込まれる時以外には開かれもしないが、それが開かれると、そこから、燃えている建物から空気中に現れるような、煙まじりの火のようなものか、煙のない焔のようなものか、または燃えている煙突から出てくるすすのようなものか、または霧と密雲のようなものかが吐き出される。私は以下のことを聞いたのである。すなわち奈落の霊らはそうした物を見ないし、また認めもしていない。なぜなら彼らはその中にいると、自分自身の大気中にいるように感じ、かくて己が生命の歓喜を覚えるからであり、これはそうした物が彼らの持っている悪と誤謬とに相応している為であり、すなわち、火は憎悪と復讐に、煙とすすはそこから発する誤謬に、焔は自己への愛の悪に、霧と密雲はその誤謬に相応しているためである。
天界と地獄586
私はまた地獄を覗き込んで、その内部はいかようになっているかを見ることを許された。なぜなら主は良しとされるときは、霊または天使は下の深淵を、それが覆われているにも拘らず、上から見通して、その性質を調べることが出来るからである。このようにして私はまたそこを覗き込むことが出来たのである。ある地獄は、岩の中のほら穴のように見えて、それが奥へ進み、それから深淵の中へ、斜めに、または垂直に降っていた。ある地獄は獣が森の中で住んでいるような穴や洞窟のように見えた。あるものは、鉱坑に見られるような、空ろなほら穴のように見えて、穴は下の方へ開いていた。地獄の大半は三重になっていて、上のものは、そこに悪の誤謬にいる者らが住んでいるため、その内は暗闇に閉ざされているように見えるが、下のものは、そこに悪そのものにいる者らが住んでいるため、火のように見える。なぜなら暗闇は悪の誤謬に、火は悪そのものに相応しているからである。深い地獄には内的な悪から行動した者らがいるが、それほど深くない地獄には外的な悪から、すなわち、悪の誤謬から行動した者がいる。ある地獄には火事で家や町が焼けた後のようなものが見られ、そこに奈落の霊らは隠れて住んでいる。それよりは穏やかな地獄には粗末な小屋のようなものが見られ、ときには、小路や街路のある町のように、互に隣接しており、その家の中には奈落の霊がいて、絶えず口争いし、憎み、打ち合い、いがみ合っており、街路と小路には強奪、掠奪が行われている。地獄のあるものの中には売春宿のみがあって、見るも吐気をもよおさせ、凡ゆる種類の汚物と排泄物とに満ちている。密林もまたあって、その中を奈落の霊は野獣のようにぶらついており、またそこにも地下の穴があって、他から追いかけられている者はそこへ逃げ込んでいる。砂漠もまたあり、そこには不毛の、砂のようなもの以外には何一つなく、ある所はごつごつした岩があって、その岩の中にほら穴がある。ある所にはまた小屋がある。こうした荒地へ凡ゆる極端な刑罰を受けた者らが、特に、世で奸策と詐欺とを人一倍に狡猾に計画し、案出した輩が地獄から追放されている。彼らの最後の運命はこうした生活である。
4.欲念の刑罰
天界の秘義1296
『火』は欲念の刑罰であり、『剣』は誤謬の刑罰である。
天界の秘義1861[9]
これらの記事では『火』は欲念を、『煙』は最後のときを遍く支配する誤謬を意味している。これらの事柄はヨハネによりその内的な視覚が開かれたとき、丁度それらのものが他生の中で現れるままに見られたのである。同じようなものがまた霊たちによりまた死後霊魂たちにより見られるのである。ここから地獄の火の何であるかを認めることができよう、すなわち、それは憎悪、復しゅう、残酷、またはそれと同一の、自己愛以外の何物でもないのである、なぜならそうしたものにこうしたものがなるからである。このような性質の人間は、その身体の生命の間では、外側ではいかように見えようとも、もし天使たちにより綿密に点検されるなら、その天使たちの目にはそれ以外のものとしては見えないのである、すなわち、その者の憎悪は火のたいまつとして、そこから派生してくる誤謬は煙の炉として現れるのである。
天界の秘義6135[2]
そしてたとえ人間は天界の愛を持たないで、たんに奈落の愛のみしか持たないにしても、依然かれの生命の最も内なるものは天界の愛から発しているのである。なぜならこの愛は絶えず主から流れ入って、かれの中に生命の熱の初めのものを生み出しているが、しかしそれはそれが進んで行く中にその人間により歪められ、そこから奈落の愛が発し、そこから不潔な熱が発してくるからである。
天界の秘義6135
たとえ人間は天界の愛を持たないでたんに奈落の愛のみしか持たないにしても、依然かれの生命の最も内なるものは天界の愛から発しているのである。なぜならこの愛は絶えず主から流れ入ってかれの中に生命の熱の初めのものを生み出しているが、しかしそれはそれが進んで行く中にその人間により歪められ、そこから奈落の愛が発し、そこから不潔な熱が発してくるからである。
天界の秘義8223[2]
しかし他生におけるこの法則の実情はさらに以下のようになっているのである。それに似たもの、または報復が悪であるときは、それは悪い者により加えられて、決して善良な者により加えられはしないのである、すなわち、それは地獄から来て、決して天界からは来ないのである。なぜなら地獄は、またはそこにいる悪い者らは他の者に悪を為そうとする欲念に絶えず燃えているからである、なぜならそれが彼らの生命に歓喜そのものであるからである。
それで彼らは許されるや否や、相手が悪いものであろうが、善いものであろうが、友であろうが、敵であろうが、意に介しないで、これに悪を加えるのであり、従って、悪は悪を意図する者に帰ってくることが秩序の法則から発しているため、その法則により許されると、彼らは彼らに襲い掛かるのである。このことは地獄にいる悪い者により行われて、決して諸天界にいる善良な者によっては為されはしないのである。なぜならこの後の者たちは、他の者に善を為すことがその者たちの生命の歓喜であるため、そのことを絶えず願っており、それで機会があり次第、敵にも友にも、善を為しており、実に悪に抵抗もしないからである。なぜなら秩序の法則は善い真のものを擁護し、防御するからである。それで主は言われている、『目には目を、歯には歯を、と言われていることをあなたらは聞いている、しかしわたしはあなたらに言う、悪に抵抗してはならない、と。あなたはあなたの隣人を愛し、敵を憎まなくてはならないと言われていることを聞いている、が、わたしはあなたらに言う、あなたらの敵を愛し、あなたらを呪う者を祝し、あなたらを憎む者に益を与えなさい、それはあなたらが天のあなたらの御父の子となるためである』(マタイ5・38,39,43−45)。
啓示による黙示録解説282
『舌』は、器官としては、教義を意味しているが、しかし言葉としては、また宗教を意味している。『舌』は教義を意味していることを知っている者は、地獄の富んだ男がアブラハムに言った言葉の意味を理解することができよう―
かれが焔の中で苦しめられないように、ラザロがその指先を水につけて、かれの舌を冷やしてくれるようん、かれをつかわすように(ルカ16・24)。
『水』は真理を、『舌』は教義を意味しており、その誤謬のために、彼は苦しんだのであって、焔によって苦しんだのではなかったのである、なぜなら地獄ではたれ一人焔の中にはおらず、そこの焔は誤謬の愛の外観であり、火は悪の愛の外観であるからである。
聖母マリア/マリア・ヴァルトルタによるマドンナの生涯/上巻/天使館/P15
だがなぜ、なぜ、ああ、わたしの民よ、あなたはわたしが与えた王国から出て、なぜ完全と愛のあなたの王から逃れて、悪と死の君主であるサタンの王国の鎖と野蛮を選んだのか? そのようにしてあなたは、父であり、救い主であるいと高き者に報いるのか? それでいてあなたは、地から湧き上がり天から舞い降りる火が、神を否認しサタンとその使者たちを受け入れた、倣岸で、神に背く人種を焼き尽くすのを見て驚くのか?
5.硫黄で燃えている火の湖
啓示による黙示録解説835
「この二人は硫黄で燃えている火の湖の中へ生きながら投げ込まれた」(黙示録19・20)は、その凡ての者は、そのあるがままに、誤謬の愛と同時に悪の欲念の在る地獄へ投げ込まれたことを意味している。『生きながら』により、そのあるがままに、が意味されている。『この二人』すなわち、『その獣と偽預言者』により、すぐ前のように(834番)、信仰のみを告白して、内的に悪であった者らが、すなわち、平信徒も教職者らも意味されている。『硫黄で燃えている湖』により、かの誤謬に対する愛にいると同時に、悪の欲念の中にいる者らのいる地獄が意味されている。『湖』により以下の記事に取り扱われているおびただしい誤謬が意味されている。『火』により愛が意味され、ここでは誤謬に対する彼らの愛が意味されている。『火』は善い意味における、また悪い意味における愛を意味することは、468、494、599番に見ることができよう、ここでは、『火の湖』と言われているため、誤謬に対する愛が意味されている。『硫黄』により悪の欲念と引いては誤謬に対する欲念とが意味されている(452番)。これに似たことが次の章で、以下の言葉をもって『竜』とこの二人についても言われている―
彼らをたぶらかそうとしたその悪魔は(すなわち、その竜は)その獣とその偽予言者のいる火と硫黄との湖へ投げ込まれた、彼らは代々日夜苦しめられるであろう(黙示録20・10)。
こうした者らのいる地獄は遠方では硫黄のような緑色の焔が燃えている火の湖のように現れることを知っておかなくてはならない。しかしその中にいる者らはこれを見ない。彼らはそこでその労役所に閉じ込められ、互に激しく口論しており、ときにはその手の中にナイフが現れて、それをもって、もし相手が降参しないなら、威嚇するのである。こうした湖の外観を作り出すものは、悪の欲念と共になった、誤謬に対する彼らの愛である。その外観は相応から発しているのである。『湖』により真理が豊富に存在している所が意味され、そこからその対立した意義では誤謬がおびただしく存在している所が意味されていることは聖言から明白となるであろう。真理が豊富に存在している所は、以下の記事から―
荒地から水が、荒野に川が湧き出で、乾いた所は湖となるであろう(イザヤ35・6、7)。
わたしは荒地を水の湖とし、乾いた地を水の泉となそう(イザヤ41・18、詩篇107・33、35)。
わたしは川を島とし、湖を干せ上らそう(イザヤ42・15)。
岩を水の湖に、火打ち石を水の泉に変えられるヤコブの神(詩篇114・7、8)。
魚のために湖で商いをする凡ての者(イザヤ19・10)。
その対立した意義では、以下の記事から―
わたしはバベルからその名とその残りのものとを絶ち去り、彼女をさんかのごいの嗣業、水の湖となそう(イザヤ14・22、23)。
死と地獄とは火の湖の中へ投げ込まれた(黙示録20・14)。
生命の書の中に見出されなかった者はことごとく火の湖へ投げ込まれた(黙示録20・15)。
彼らの分は硫黄の燃えている火の湖の中にあり、それは第二の死である(黙示録21・8)。
6.悪魔の群が、真っ赤に燃える熱い石炭の姿で飛び出てきた
聖ルイ・デ・モンフォー/ロザリオの神秘/P108
その時、聖ドミニクスは全会衆に向かってロザリオの祈りを非常にゆっくりと、強い信仰心とをもって唱えるように命じました。すると、素晴らしいことが起きたのです。ドミニクスと会衆が声を揃えて唱える「めでたし」の一つ毎に、惨めな悪魔つきの男の体から大変な数の悪魔の群が、真っ赤に燃える熱い石炭の姿で飛び出てきたのです。
悪霊たちがすっかり放逐され、異端者の男がやっと悪魔から解放された時、聖母(まだ会衆の目には見えませんでした)はその場に集まっているすべての者たちに祝福を与えられ、彼らは喜びに満たされました。
異端者の内非常に多数の者が、この奇跡のために改心し、いとも聖なるロザリオの信心会に入会したのでした。
7.薪
アルスの司祭P90
少年たち、もし君たちが、火刑を準備し、薪を積み重ねている人を見たら、君たちはその人に何をしているのか尋ねるでしょう。するとその人は次のように答えます。『私は自分を焼く火を準備しています』。この時君たちはどう考えますか。そしてもし君たちが、その人が木に火をつけ、身を投げ入れるのを見たのなら、君たちは何と言うでしょうか。罪を説明する時に、私たちはこのようにします。地獄へ私たちを送るのは神ではありません。私たちが自分の罪とともにそこへ歩んでゆくのです。
8.松明(たいまつ)
天界の秘義1861[9]
これらの記事では『火』は欲念を、『煙』は最後のときを遍く支配する誤謬を意味している。これらの事柄はヨハネによりその内的な視覚が開かれたとき、丁度それらのものが他生の中で現れるままに見られたのである。同じようなものがまた霊たちによりまた死後霊魂たちにより見られるのである。ここから地獄の火の何であるかを認めることができよう、すなわち、それは憎悪、復しゅう、残酷、またはそれと同一の、自己愛以外の何物でもないのである、なぜならそうしたものにこうしたものがなるからである。このような性質の人間は、その身体の生命の間では、外側ではいかように見えようとも、もし天使たちにより綿密に点検されるなら、その天使たちの目にはそれ以外のものとしては見えないのである、すなわち、その者の憎悪は火のたいまつとして、そこから派生してくる誤謬は煙の炉として現れるのである。
仁慈の教義177
こうしたものが礼拝の外なるものであり、礼拝の外なるものは仁慈のしるしであることは以下の順序で認められるであろう―
仁慈そのものは内なる人の中に在り、そのしるしは外なる人の中に在る。
仁慈が内なる人の中に在って、それを構成すると、そのときは外なるものの中に遂行される礼拝の行為は凡てそのしるしである。
内なる人における仁慈から発出している外なる人における礼拝は天使たちには旗を手にした旗手として現れている。しかし内なる人における仁慈から発出していない外なる人における礼拝は天使たちにはたいまつを手にした役者[俳優]として現れている。
天界と地獄134
地獄にもまた熱があるが、しかしそれは不潔なものである(*10)。天界の熱は聖い天の火により意味されるものであり、地獄の熱は汚れた、奈落の火により意味されるものである。その二つによりともに愛が意味されるが、しかし天の火により主と隣人に対する愛と、その愛から生まれる凡ゆる情愛が意味され、奈落の火により自己と世への愛と、その愛から生まれる欲念が意味されている。愛は霊的な源泉から発する熱であることは愛により熱することから明白である、なぜなら人間はその愛の性質と度とに従って燃え、熱し、その熱は[愛が]抵抗を受ける時示されるからである。それで善の愛の諸々の情愛についても、また悪の愛の諸々の欲念についても、燃える、焼ける、煮えたぎる、火がつくと言うことが普通となっている。
*10
地獄には熱があるが、しかしそれは不潔である(1773、2757、3340)。そこから発する臭気は世の糞、排泄物から発する臭気に似ており、最悪の地獄では死体の臭気に似ている(814、815、817、819、820、943、944、5394)。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・24・3
煉獄の火の燃料は、あなたの罪のほか何があろう?
いまあなたが自分を大事にして、肉に従えば従うほど、あなたはますます後日(のち)の苦しみをひどくし、煉獄の燃料をたくさんに積み上げるのである。
人は罪を犯したところに従ってきびしく罰せられる。
そこでなまけ者は火のトゲで追い立てられ、大食した者は激しい飢え渇きで苦しめられるだろう。
そこでは放蕩して悪い楽しみにふけった者は、煮え返る瀝青とくさい硫黄とを浴びせかけられ、嫉妬深い者は苦痛のために狂犬のように咆えるだろう。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・24・4
どんな悪でも、それ相当の苦しみを受けないことはない。
そこでは、高慢であった者はあらゆる恥にみたされ、貪欲であった者はあわれな貧苦になやまされるだろう。
そこでの苦しみの一時間は、この世でのもっともきびしい苦行の百年間より、もっとつらいことだろう。
この世ではときどき働きを休むことができるし、また友だちの慰めを受けることもできる。しかしそこへ落とされた者には、休みも慰めもさらにないのである。
だから審判の日に幸いな人々と共に安心していられるよう、いま自分の罪を嘆き悲しめ。
なんとなれば「その時義(ただ)しい者は大いなる堅忍をもって、自分をなやまし圧迫した者に向って立つ」(知恵の書5・1)だろうから。
その時になると、いま謙遜に人のさばきに従う者が、かえって審判者の地位に立つだろう。
その時になると、貧しい者や謙遜な者は大安心を得るだろうが、高慢な者は四方八方から恐れにおそわれるだろう。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・24・5
その時になると、キリストのおんために愚か者となり軽蔑されることをけいこした人は、この世で賢かったということがわかるだろう。
その時になると、忍耐して受けた苦しみは喜びとなるだろう。そして「もろもろの不義はその口をふさぐ」(詩篇106・42)だろう。
その時になると、信仰に熱心であった者はみな喜び、不熱心であった者はいずれも悲しむだろう。
その時になると、自分の肉体を苦しめた者は、つねに快楽にふけっていた者よりも喜びおどるだろう。
その時になると、粗末な着物が輝きわたり、美麗な着物は光沢を失うだろう。
その時になると、いつも変らなかった忍耐が、この世のあらゆる権力よりも、身のためになるだろう。
その時になると、すなおな従順がこの世の賢さよりもとうとばれるだろう。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・24・6
その時になると、潔白善良な良心が、博学よりも、喜びをもたらすだろう。
その時になると、富を軽んじたことが、この世のあらゆる財宝よりも重んじられるだろう。
その時になると、熱心に祈ったことがぜいたくなご馳走を食べたことよりも、慰めになるだろう。
その時になると、沈黙を守ったことが、ながながと話しをしたことよりも、喜びになるだろう。
その時になると、清い行ないが多くの美しい言葉よりも、価値(ねうち)をもつだろう。
その時になると、きびしい生活とはげしい苦行とが、あらゆるこの世の楽しみよりも喜びとなるだろう。
だから、いまの小さい苦しみをしんぼうするけいこをして、その時のいっそう大きい苦しみを逃れるようにせよ。
のちの世でどれほど耐え忍ぶことができるか、まずこの世で試して見よ。
もしあなたがいま小さい苦しみを耐え忍ぶことができないならば、どうして永遠の苦しみが耐え忍ばれよう?
もしいまわずかな苦しみすら辛抱できないとしたら、地獄ではどうだろう?
見よ、この世では楽しみを味わい、のちの世ではキリストとともに王となるというふうに二重に喜びを得ることは決してできないのである。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・24・7
たといあなたが今日まで名誉や快楽のうちに生活(くら)して来たとしても、今この瞬間に死ななければならぬとしたら、それらはみなあなたにとってなんの役に立とう? だから神を愛し、それにお仕えするほかは、すべてむなしい。
なんとなれば、完全な愛は神に安心して近づかせるから、神を愛する者は、死も罰も審判も地獄も恐れないからである。
だからいままだ罪を愛している人が、死や審判を恐れるのも、別にふしぎではない。
しかし愛によって、あなたが悪をはなれ得ないにしても、せめて地獄を恐れる心で罪におちいるのを思いとどまるならば、それも結構である。
けれども神をおそれる心のない人は、長く善にふみとどまっていることができず、やがて悪魔のワナにかかってしまうのである。
天界の秘義5071 [2]
『永遠の火』は自然的な火でないことは明白である。それは良心の呵責でないことは悪の中にいる者は凡て何ら良心を持ってはおらず、身体の生命の中で何ら良心を持っていない者は他生でも全くそれを持つことが出来ないからである。しかしそれが欲念であることは、生命の火は凡て人間の愛から発しているためである、即ち、天界の火は善と真理の愛から発し、奈落の火は悪と誤謬の愛から発し、またはそれと同一のことではあるが、天界の火は主に対する愛と隣人に対する仁慈から発し、奈落の火は自己への愛と世への愛から発しているためである。人間の中の火または熱はすべてこの源泉から発していることは、たれでも、もしその事に注意を払うなら、知ることが出来よう。愛が霊的な熱と呼ばれ、聖言の『火』と『熱』によりそれ以外のものは何ら意味されていないことはまたそうした理由によっている(934イ、1297,1527,1528,1861,2446,4906番)。悪い者の生命の火は、彼らがその激しい欲念の中にいる時は、また一種の火の中にいるといったものであり、そこから彼らは他の者を責め苛む激情と狂熱の中にいるが、善良な者の生命の火は、彼らもまた、高度の情熱の中にいる時は、一種の火の中にいるようなものであるが、しかし彼らはそこから他の者を益しようとする愛と情熱の中にいるのである。