臥す

平安

 

天界の秘義3696

 

「その所にふした」。これはその状態の静謐を意味していることは、『ふすこと』の意義から明白であり、それは静謐の状態の中にいることである。なぜなら『ふすこと』と『眠ること』はそれ以外のことを意味しないからである。その内意ではそれが『ふすこと』の意義であることもまた聖言の他の記事から認めることができよう、そのことについては直ぐ下に述べよう。ここに内なる表象的な意義の中に取扱われているところの再生することができる者たちのもとでは、実情は以下のようになっているのである、すなわち、先ずかれらは静謐の状態の中に、または外なる平安の状態の中にいるのであり(なぜなら外なる平安または外なるものにおける平安は『静謐』と呼ばれるからである)、それはその中の最も内なるところに存在している神的な平安の状態から生み出されていて、いくたの欲念と誤謬とが取り除かれることを通して外なるものの中へ現れ出るのである。なぜならこれらのもの[欲念と誤謬]が凡ての不安を生み出すものであるからである。さらに人間は各々、その生命の初まりでは、すなわち、その幼少の時代の間では、静謐の状態の中にいるが、しかしその生命が進むにつれ、すなわち、かれが成長して大人になると、かれは自分自身をこの状態から遠ざけてしまうのである。なぜならかれはかれ自身を世の心づかいに与えきってしまい、従って自己を求め、世を求める愛のいくたの欲念とそこから派生してくるいくたの誤謬から引き起こされる心づかい[心労]に与えきってしまうからである。

 

 

天界の秘義3696[3]

 

 聖言に『ふす』ことは静謐の状態を意味していることは以下の記事から認めることができよう。モーセの書には―

 

 もしあなたたちがわたしの教え[法]の中に歩み、わたしの戒めを守って、それを行うなら、わたしは地に平安を与え、あなたたちは臥し、たれ一人あなたたちを恐れさせないであろう、わたしは悪い野獣を地から絶やし、剣もまたあなたたちの地を通り過ぎないであろう(レビ記26・3、6)。

 

 ここに『ふすこと』は明らかに平安と静謐の状態について述べられており、『悪い獣』は悪のいくたの欲念を意味し(45、46、908番)、それが『絶える』のであり、『剣』は真理にむかって戦う誤謬を意味し(2799番)、それが『通り過ぎない』のであり、この凡ては、平安と平安の静謐とは善と真理から発し、その破壊は悪と誤謬から発していることを意味しているのである。

 

 

天界の秘義3696[4]

 

 イザヤ書には―

 

 狼は小羊とともに住み、ひょうは子やぎとともに臥し、子牛と若いししとはともに臥し、小さな子供がかれらを導くであろう。雄牛とくまとは食べ、その年若い子供らはともに臥すであろう(イザヤ11・6、7)。

 

 ここには主がとり扱われ、またその王国における平安の状態がとり扱われている。かれらがともにふすであろうということはかれらはいかような悪にも誤謬にも悩まされることはできないことを意味している。ホゼア書には―

 

 かの日わたしはかれらのために畠[野]の野獣、天[空]の鳥、地の這う物と契約を立てよう、わたしは弓と剣とを折り、地から戦をなくし、かれらを信頼の中に安らかに臥させよう(ホゼア2・18)。

 

 ここにも同じく『臥すこと』は、不安を引き起こすところのいくたの誤謬と悪とが除かれて生まれてくる静謐の状態を意味している。

 

 

天界の秘義3696[5]

 

 ダビデの書には―

 

 わたしは臥して、眠るであろう、わたしは目覚めるであろう、エホバはわたしを支えたもうからである、わたしはわたしを取り囲んだ数万の人々をも怖れはしないであろう(詩篇3・5、6)。

 

 ここに『臥して眠ること』は静謐と安全の状態を意味している。さらに―

 

 平安の中に[安らかに]わたしは臥しもし、眠りもしよう、エホバよ、あなたのみがわたしを信頼の中に安らかに住まわせたもう(詩篇4・8)。

 

 さらに―

 

 かれは緑お草地にわたしを臥させ、いこいの水へ導きたもう、かれはわたしの魂を生き返らせたもう(詩篇23・2、3)。

 

 これらの記事から平安と静謐の状態とは『臥すこと』により意味され、『その所に臥すこと』により状態の静謐が意味されていることが明白である。なぜなら内意では『所』は状態を意味しているからである(3692番)。