ふくろう

 

 

知ろうと願わないペリシテ

 

 

 

天界の秘義866

 

『からす』が誤謬を意味していることは、からすについて言われ、示されたことから明白である、すなわち、からすは理解に、理性に、記憶知に属した事柄を意味しており、またそれに対立したものである理論と誤謬とを意味しているのである。この両方とも聖言では色々な種類の鳥により記されていて、理解の真理はおとなしい、美しい、清い鳥により、誤謬は貪欲な、醜悪な、不潔な鳥により記され、何れの場合でも真理の、または誤謬の種類に従って変化しているのである。粗雑な、甚だしい誤謬はふくろとからすにより記されているが、それがふくろにより記されているのは、ふくろは夜の暗黒の中に生きているためであり、からすにより記されているのは、からすは黒い色をしているためである。例えばイザヤ書には―

 

またふくろもからすもその中に住むであろう(34・11)

 

 そこにはユダヤ教会が、ふくろとからすにより表象されている誤謬そのものの住居として記されているのである。

 

 

 

天界と地獄102

 

天使たちは、凡ゆる物を自然に帰して、何物も神的なものに帰せず、天界の極めて多くの物を集めこまれている己が身体は自然から生み出されていると信じている人間がいることを聞くと驚き呆れてしまう。(中略)

天使たちはこうした人間を暗がりでは目は見えるが、光の中では目の見えないふくろうに譬えている。

 

 

 

啓示による黙示録解説312

 

その二つの黒色が意味している誤謬も同一である。その忌まわしい種類の黒さをもって現れる者らは悪魔と呼ばれ、こうした者らはみみずくが陽の光をいまいましがるように真理をいまいましがっている。

 

 

 

天界の秘義3413

 

「これに塵芥を満たした」(創世記26・15)。これは、地的な事柄により、即ち、自己への愛と利得への愛によって、を意味していることは、『塵埃』の意義がこのような性質をもったものであることから明白である(249番)。その意味は『ペリシテ人』と呼ばれた者らは(即ち、生命の中にいないで、教義の中にいる者らは)自己への愛と利得への愛である地的な愛により内的真理を抹消し、そうした愛から彼らは『無割礼の者』と呼ばれたということである(2039、2044、2056、2632番)。なぜならこれらの愛の中にいる者らはアブラハムの井戸を塵埃でふさがざるを得ないからである(すなわち、地的な物により聖言の内的真理を抹消せざるをえないからである)、それはこれらの愛から彼らは霊的な事柄を(即ち、主から発している真理の光に属しているものを)到底見ることが出来ないためである、なぜならこれらの愛は暗黒を誘発して、暗黒は光を消滅させるからである。なぜなら前に言ったように(3412番)、主から真理の光が接近すると、忽ち、教義のみの中にいて、生命[生活]の中にいない者は全く暗黒と昏睡状態[知覚麻痺]に陥り、怒りさえもし、真理を消散させようとして忙しく凡ゆる方法を用いるからである、なぜなら自己への愛と利得への愛は神的なものから真理の何かが接近してくるのに堪えることが出来ないといった性質を持っているからである。にもかかわらずこのような人物は自分たちは真理を知っているという事実に得意になり、それを誇ることが出来、否、一種の熱意から真理を宣べ伝えることが出来るが、しかし彼らを燃やし、活気づけているものはそれらの愛の火であり、彼らの熱意はそこから生まれてくる熱情にすぎないのであって、このことは彼らも同じような熱意または熱情をもって彼ら自身の生命そのものをさえも糾弾することが出来るという事実から充分に明白である。これらのものが真理そのものの源泉である聖言そのものをふさいでしまう地的なものである。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P77

‘00.3.8

 

死骸から聞こえるのは 自慢気な声、「ほら! ペリカンのように私は 砂漠で生きていける。ミミズクのように 廃墟で生活できる。 私は神がいなくても生きられる 神より上手くやれるから・・・」