枯れた骨の復活(エゼキエル37)

 

 

 

天界の秘義3812

 

「ラバンは彼に言った、まことにあなたは私の骨、私の肉である」。これは、真理と善の方面で連結していることを意味していることは『あなたは私の骨、私の肉である』という言葉の意義から明白であり、それは連結である。古代人は一つの家のものであり、または一つの氏族のものであり、または何らかの親類関係にあった者たちについて『私の骨、私の肉』というそうした形の言い方をしたのであり(157番を参照)、そこからこれらの言葉により連結が意味されているのである。それが、真理の方面で、また善の方面で、を意味している理由は霊的な連結はことごとくこれらのものにより行われ、自然的な連結もことごとくその同じものに関わりを持っているということである。更に『骨と肉』により人間自身のものであるものが意味されており、『骨』により彼の理解の自分自身のものが意味され、『肉』により彼の意志の自分自身のものが意味されており、かくて『骨』により真理の方面の人間自身のものであるものが意味され―なぜなら真理は理解のものであるからである―『肉』により善の方面の人間自身のものであるものが意味されているのである、なぜなら善は意志のものであるからである(148、149番)。

 

 

 

天界の秘義3812[3]

 

 両方の意味にこの自分自身のものは『骨と肉』により意味されており、従って聖言では『骨』により真理が意味され、それに対立した意義では誤謬が意味され、『肉』により善が意味され、それに対立した意義では悪が意味されている。これが『骨』の意義であることは以下の記事から認めることができよう。イザヤ書には―

 

 エホバは絶えずあなたを導き、あなたの魂を干ばつにも満足させ、あなたの骨を強くなされるであろう、あなたが水を注がれた庭園のようになるためである(イザヤ58・11)。

 

 ここでは『骨を強くすること』は理解の自分自身のものを生かすことを、すなわち、それを理知で明るくすることを意味しており、そこから『あなたが水を注がれた庭園のようになるためである』と言われているのである。(『庭園』が理知を意味していることは前の100、108、1588番に見ることができよう)。さらに―

 

 そのときあなたたちは見て、あなたたちの心は楽しみ、あなたたちの骨は草のように繁るであろう(イザヤ66・14)。

 

 ここでは『草のように繁る骨』により前と同じようなことが意味されているのである。

 

 

天界の秘義3812[4]

 

『その皮膚が骨に密着していること』により愛の天的なものの方面で変わった状態が記されており、すなわち、骨の上に肉がなかったことが、すなわち、もはやいかような善も存在しなかったことが記されているのである、なぜならその時真理はことごとく骨に密着した皮膚のようになり、『なえて、木のようになる』からである。

 

 

天界の秘義3812[7]

 

 ダビデの書には―

 

 わたしの骨はことごとくはずれ、わたしの心は蝋のようになり、わたしはわたしの骨をことごとく数えることができる。かれらはかれらの間でわたしの上着を分け、わたしの衣服のためにくじを引いた(詩篇22・14、17、18)。

 

 ここの主題は、主御自身のものであって、そこから『わたしの骨』と呼ばれているところの神的真理の方面の、また主御自身のものであって、そこから『わたしの心』と呼ばれているところの神的善の方面の主の試練である。(『心』は善を意味していることは、前の3313、3635番に見ることができよう)。『骨』はこれらの真理を意味し、骨を数えることは理論と誤謬とを通してその諸真理を消滅させようと欲することを意味しているため、それですぐにその後に『かれらはわたしの上着を分け、わたしの衣服のためにくじを引いた』という言葉が続いているのである、なぜなら『上着』もまた真理を意味しているが、しかし外的な真理を意味しているからであり(297、1073、2576番)、『それを分けて、衣服のためにくじを引くこと』も同じようなことを意味しており、マタイ伝27章35節においてもまた同じである。さらに―

 

 わたしの魂はエホバの中で喜びにおどる、かれの御救いのために喜ぶであろう。わたしの骨はことごとく言うであろう、たれがあなたに似ていましょうか、と(詩篇35・9、10)。

 

 ここには霊的な意義では骨は理解の自分自身のものを意味していることが明白である。さらに―

 

 あなたはわたしに楽しさと喜びとを聞かせたもうでしょう、あなたが砕きたもうた骨は喜びにおどるでしょう(詩篇51・8)。

 

 ここに『砕かれた骨が喜びにおどること』は試練の後で真理をとして再び創造られることを意味している。

 

 

天界の秘義3812[8]

 

 骨は理解の自分自身のものを、すなわち、真理の方面の自分自身のものを意味しており、最高の意味では主御自身のものであって神的真理を意味したため、そうした理由から過越しの祭りの法令として、過越しの祝いの小羊の骨を砕いてはならないことが定められたのであり、そのことについてはモーセの書に以下のように記されている―

 

 一つの家の中でそれを食べなくてはならない、あなたは家からその肉を外へもって出てはならない、またその骨を折ってもならない(出エジプト記12・46)。

 

 また他の所には―

 

 それを朝まで残しておいてはならない、またその骨を折ってもならない(民数記9・12)。

 

『骨を折らないこと』は、その最高の意義では神的真理に暴行を加えないことを意味しており、その表象的な意義では何であれいかような善の真理にも暴行を加えないことを意味している、なぜなら善の性質と善の形とは真理から発しており、真理は、骨が肉を支えているものであるように、善を支えるものであるからである。

 

 

天界の秘義3812[9]

 

 神的真理そのものである聖言が死んだ者を生かすことは、その人間がエリシャの墓に投げ入れられたとき、その骨に触れて生き返り、足で立ったことにより表象されたのである(エリシャは神的真理の方面の、または聖言の方面の主を表象したことは、前の2762番に見ることができよう)。それに対立した意義では『骨』は人間自身のものから発している誤謬を意味していることは以下の記事から明らかである。エレミア記には―

 

 その時かれらはユダの王たちの骨を、その君たちの骨を、祭司たちの骨を、予言者たちの骨を、エルサレムに住む者たちの骨をその墓からもち出し、それをその者たちが愛して、仕えた陽と月と天の凡ての軍勢の前にひろげるであろう(エレミア8・1、2)。

 

 

 

天界の秘義3812[10]

 

 『骨』は誤謬を意味し、『墓』は誤謬をその中に宿している悪を意味しているため、また偽善は外面では善として現れているが、しかし内面では誤った冒涜的なもので汚れているため、主はマタイ伝に言われている―

 

 偽善者よ、禍いなるかな、学者、パリサイ人よ、あなたらはあなたら自身を白く塗った墓のようなものにしている、それは外では実際美しく見えるが、内では死人の骨と凡ゆる不潔なものとに満ちている、まことにそのようにあなたらもまた外では人に義しいものに見えはするが、しかし内は偽善と不法とに満ちている(マタイ23・27、28)。

 

 これらの記事から『骨』により理解の自分自身のものが、真理の方面でも、誤謬の方面でも意味されていることが今や明白である。

 

 

 

天界の秘義5561

 

骨に関連した者たちには霊的な生命はいかに僅かしかないかが私に示された。他の霊たちは彼らを通して語りはするが、彼ら自身はその語ることを殆ど知らないのであり、それでも彼らは語り、語ることにのみ歓喜を覚えている。悪い生活を送りはしたが、多少の善い残りのものを己が中に貯えた者たちはこのような状態へ入れられるのである。この残りのものは多くの時代の剥奪の後で、かの霊的な生命の僅かなものを作っているのである(残りのものの何であるかは前の468,530、560、561、660、1050、1738、1906、2284、5135、5342、5344番に見ることが出来よう)。

 

 

 

 

 

天界の秘義5561

 

骨に関連した者たちには霊的な生命はいかに僅かしかないかがわたしに示された。他の霊たちはかれらを通して語りはするが、かれら自身はその語ることをほとんど知らないのであり、それでもかれらは語り、語ることにのみ歓喜を覚えている。悪い生活を送りはしたが、多少の善い残りのものを己が中に貯えた者たちはこのような状態へ入れられるのである。この残りのものは多くの時代の剥奪の後で、かの霊的な生命の僅かなものを作っているのである(残りのものの何であるかは前の468,530、560、561、660、1050、1738、1906、2284、5135、5342、5344番に見ることができよう)。