1.羊

2.子羊

3.雄羊

4.羊の群

 

 

1.羊

 

天界の秘義4169[2]

 

 『羊』が善を意味していることは聖言の多くの記事から認めることができようが、その中から以下のもののみを引用しよう。イザヤ書には―

 

 かれは苦しまれたが、その口を開かれなかった。かれは屠られる小羊のように毛を切る者の前の羊のように連れて行かれたもうたが、その口を開かなかった(イザヤ53・7)。

 

 これは主について言われており、そこで主は真理からではなく、善から羊にたとえられたもうているのである。マタイ伝には―

 

 イエスはそのつかわされる十二人に言われた、異邦人の道に行ってはならない、サマリア人のいかような都にも入ってはならない、むしろイスラエルの失われた羊のもとへ行きなさい(マタイ10・56)。

 

『かれらが行ってはならない異邦人』は悪の中にいる者たちを意味している。(『異邦人』は悪を意味していることは前の1259、1260、1849番に認めることができよう)。『サマリア人の都[町]』は誤謬の中にいる者たちを意味し、『羊』は善の中にいる者たちを意味している。

 

 

天界の秘義4713

 

学びまた導かれる者(343)

かくてまた教会を意味。

 

 

天界の秘義4809

 

仁慈の中におり、そこから信仰の中にいる者たち。

 

 

天界の秘義6521

 

仁慈。

 

天界の秘義6778

 

学んで、仁慈の善へ導かれる者たち。(343,3772,5913,6048)

 

 

天界の秘義6786

 

「羊に飲ませました」。これはそこの教会に属している者たちを意味していることは『羊』の意義から明白であり、それは善の中にいて、教えられることに堪える者たちであり(343、3772、5913、6048番を参照)、ここではそこの教会に属している者たちであり、前に示したように、彼らは単純な善の中にいて、『ミデアン』により意味されている者たちである。『羊』は善を、また教会を、即ち、善の中にいて、教会に属している者たちを意味している、それはその二つのものはその一方が他方から引き離されることが出来ない程にも連結しているためである、なぜなら信仰の善の中にいる者は教会であり、教会である者は信仰の善の中にいるからである。

 

 

天界の秘義6827

 

『羊』の意義は真理を学んで真理により仁慈の善へ導かれる者であり(343番)、かくて『羊』はその全般的な意義では教会であり(3767、3768番)、ここでは『ミデアン』により意味されているところの、単純な善の真理の中にいる者たちがいる教会であり(3242、4756番)、

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P244

 

私の羊は愛を知り、私の声を聞き分ける。私の声を知るとは、どんなことか。天から来る真理の声を、偽りの預言者のいろいろな声の中から聞き分けられることだ。今だけではなく、何時までもそうだ。知恵に富むと言われる人々の中でも、神について話す声の中から、私の声を聞き分けられる人は少ないだろう。

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P244

 

私はこの世が偶像崇拝とならないように、何時までも話し続ける。そのために選んだ人々に、私のことばを繰り返せと言い残す。神の霊が話されるから、知恵ある者は、人間に理解できないことをも理解する。また学者は私のことば、構文、場所、道具などを研究するだろうが、“選ばれた人々”は、このような研究に時を費やさず、ただ愛に満たされて、みことばを聞く。そして彼らは、話すのが愛であると理解するであろう。彼らは学者たちの美辞麗句、あるいは偽予言者、または自分で実行してもいない教えを教える偽教師の教えを、私から与えられる単純な真理のことばと区別できるだろう。世間は愛を行う彼らを憎むだろう。世間は光である私を憎み、光の子らを憎み、同時に自分の罪を受け入れてくれる闇を好んでいるからである。私の羊たちは私を知る。未来の羊も私を知る。私が先達として歩む血と苦しみにも従い、私の後を歩む。それは人間の霊魂を知恵へ導く道である。それは正義を教え、世間とサタンの闇を照らし、探し求める人を道と、真理と、命へ導く血と涙の道である。霊魂は何よりも自分たちを命、真理、正しい道へ導いてくれる人を必要とする。

 

 

2.子羊

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P243

 

おまえたちは私の子羊の群れに属していないから、信じない。

(中略)おまえたちが子羊の群れの中にいるのは、相手を傷つけ苦しませるためである。私の羊はおまえたちを怖がっている。同じようなできの人間だったら、おまえたちを憎むはずだが、彼らは平和と愛とあわれみの牧者の子羊だから憎むことを知らない。私が憎まないように、私の羊もおまえたちを憎まない。憎みを取れ、それは三重の欲望の実である。肉体とともに霊魂もあることを忘れている野獣のような人間の抑えのきかない自我も取れ。

 

 

3.雄羊

 

天界の秘義2830[7]

 

『雄羊』は霊的なものを、またはそれと同一のものであるところの、霊的な者たちを意味していることは、またダニエル書にも明らかである、すなわち、二つの角を持った一頭の雄羊が川の前に立っているのがかれらから見られたが、後に山羊の中の一頭の雄山羊が見られて、それがその雄羊を打って、その角を折り、かれをふみにじったのである(ダニエル8・3、4及び以下の節)、ここにはその『雄羊』により霊的教会以外には何ごとも意味されてはおらず、『山羊の中の雄山羊』により仁慈から分離した信仰の中にまたは善から分離した真理の中にいて、徐々に善に反抗し、ついには主にさえも反抗して自らをもたげる者以外には何ごとも意味されてはいないのであり、そのことがまた記されているのである。

 

 

4.羊の群

 

天界の秘義3793

 

「ラケルは羊の群とともに来た」、これは教会に、また教義にぞくしている内的な真理に対する情愛を意味していることは以下から明白である、すなわち、ラケルの表象は内的な真理に対する情愛であり、『羊[の群]』の意義は教会であり、また教義である(3776、3768、3783番)。