羊飼い
羊/
1.聖書
2.羊
3.子羊
4.羊を飼う
5.羊飼い
6.わたしは良い羊飼いである(ヨハネ10・14)。
7.御降誕の時の羊飼いたち
8.主のところへ連れて行く
9.悪の中にいる教師ら
10.わたしに付き従った群衆の中にいた羊飼いたちは、わたしの使者でした
1.聖書
ヨハネ10・1−42
「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。
イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」
この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。多くのユダヤ人は言った。「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」
ほかの者たちは言った。「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。」
そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。
わたしと父とは一つである。」
ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。
神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。
イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。多くの人がイエスのもとに来て言った。「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」そこでは、多くの人がイエスを信じた。
ヨハネ8・44−47
あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。
神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」
エレミヤ12・10−11
多くの牧者がわたしのぶどう畑を滅ぼし
わたしの所有地を踏みにじった。
わたしの喜びとする所有地を
打ち捨てられた荒れ野とし
それを打ち捨てられて嘆く地とした。
2.羊
天界の秘義343
『羊を牧う者』は仁慈の善を行う者であることは何人にも明白であるに相違ない。なぜならこれは旧新約聖書の聖言の親しい象徴であるからである。導いて、教える者は『羊飼い』と呼ばれ、導かれ、教えられる者は『羊』と呼ばれている。仁慈の善へ導かないし、またそのことを教えない者は真の羊飼いではないし、善に導かれないし、また善いことを学びもしない者は羊の一匹ではない。(中略)
イザヤ書には―
アラビヤの羊の群はことごとくあなたのもとに集められ、ネバイオテの雄羊はあなたに仕えるでしょう(60・7)。
羊の群を仁慈の善へ導く者は『羊の群を集める者』であるが、これを仁慈の善に導かない者は『羊の群を追い散らす』のである。なぜなら凡て共に集まり、一つになることは仁慈から生まれ、追い散らして一つにならないことは仁慈の欠如から発するからである。
天界の秘義6778
学んで、仁慈の善へ導かれる者たち。(343,3772,5913,6048)
天界の秘義4169
善。
天界の秘義4713
学びまた導かれる者(343)
かくてまた教会を意味。
天界の秘義4809
仁慈の中におり、そこから信仰の中にいる者たち。
天界の秘義6065
内的な善 5913、6048
天界の秘義6521
仁慈。
雄羊
天界の秘義2830
人類の中で霊的な者たち
天界の秘義4170
善の真理
神の摂理230
聖い物の冒涜は十誡の第二の誡命の『あなたはみだりにあなたの神の御名を語ってはならない』の語により意味され、冒涜してはならないことは、主の祈りの『あなたの御名が崇められますように』の言葉により意味されている。基督教世界で神の御名の意味を知っている者は殆どいない、なぜなら霊界では名前は自然界のように与えられないで、凡ての者はその愛と知恵の性質に従って名前を受けることが知られていないからである。その名を付ける事は霊的な言語でなされ、その言語は凡ての物に名を与えることが出来る、なぜなら霊界ではアルファベットの一つ一つの文字が一つの物を意味し、人の名のような合して一つの語となっている幾つかの文字はその物の状態全部を意味するからである。これは霊界の驚異の一つである。これらの事実から、聖言では神の御名は、神の中に在りまた神から発する神的な一切のものと共に神御自身を意味し、聖言は神から発する神的なものであるため、神の御名であり、教会の霊的な物を構成する神的な物は凡て聖言から発しているため、それもまた神の御名であることが明らかである。今や十誡の第二の誡命の『あなたは神の御名をみだりに口にしてはならない』の語と主の祈りの『あなたの御名の崇められますように』との語の意味が認め得られるであろう。神の御名と主の御名とは旧新約聖言の多くの記事に同じ意味を持っている、例えばマタイ7・22、10・12、18・5、20、19・29、21・9、24・9、ヨハネ1・12、2・23、3・18、12・13、28、14・13、14、16・23、24、26、17・6、20・31、その他。外に旧約聖書に非常に多くの記事がある。『名』のこの意義を理解する者は誰でも主の以下の語の意味を知ることが出来よう、「誰でも予言者の名で予言者を受ける者は予言者の報いを受けるであろう、誰でも義しい者の名で義しい者を受ける者は義しい者の報いを受けるであろう、また誰でもこの小さい者の一人にただ水一杯でも弟子の名で飲ませる者は必ずその報いを失わないであろう」(マタイ10・41、42)。ここの『予言者の名』『義しい者の名』『弟子の名』により単に予言者、義しい者、弟子しか理解しない者は文字的な意義しか理解せず、また予言者の報い、或いは義しい者の報い、或いは弟子に水一杯を与えることに対する報いの何であるかも知らない。しかし『予言者の名と報い』により神的真理に服従して生きる者の幸福な状態が意味され、『義しい者の名と報い』により神的善に従って生きる者の幸福な状態が意味され、『弟子』により教会の若干の霊的な教訓に従って生きる者の状態が意味され、『冷たい水一杯』は多少の真理を意味している。人間の愛と知恵、または善と真理の状態の性格は、主の以下の語に明らかなように、その名により意味されている、『門から入る者は羊の羊飼いである、門番は彼のために開き、羊は彼の声を聞く、彼は自分の羊の名を呼び、これを導き出す』(ヨハネ10・2、3)。羊の名を呼ぶことは仁慈の善にいる者を凡て、その愛と知恵の状態に従って教え導くことであり、門により『私は門である、もし誰でも私から入るなら、救われるであろう』の第九節により明白なように、主が意味されている。このことは、同章第一節に言われているように、人間は救われるためには主御自身に近づかなくてはならない、主に近づく者は羊飼いであり、主に近づかない者は盗人であり、強盗であることを明らかに示している。
3.子羊
天界の秘義4169
無垢の中にいる者たち
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P243
おまえたちは私の子羊の群れに属していないから、信じない。
(中略)おまえたちが子羊の群れの中にいるのは、相手を傷つけ苦しませるためである。私の羊はおまえたちを怖がっている。同じようなできの人間だったら、おまえたちを憎むはずだが、彼らは平和と愛とあわれみの牧者の子羊だから憎むことを知らない。私が憎まないように、私の羊もおまえたちを憎まない。憎みを取れ、それは三重の欲望の実である。肉体とともに霊魂もあることを忘れている野獣のような人間の抑えのきかない自我も取れ。
4.羊を飼う
天界の秘義4671
教会の中にいる者たちに教えること。特に教義的な事柄から教えること。(343、3772、3795)
天界の秘義4713
仁慈の善を教えてそれに導くこと。
5.羊飼い
天界の秘義6044
善へ導く者たち
内意では善へ導いて行く諸真理
6.わたしは良い羊飼いである(ヨハネ10・14)。
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P244
私の羊は愛を知り、私の声を聞き分ける。私の声を知るとは、どんなことか。天から来る真理の声を、偽りの預言者のいろいろな声の中から聞き分けられることだ。今だけではなく、何時までもそうだ。知恵に富むと言われる人々の中でも、神について話す声の中から、私の声を聞き分けられる人は少ないだろう。
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P244
私はこの世が偶像崇拝とならないように、何時までも話し続ける。そのために選んだ人々に、私のことばを繰り返せと言い残す。神の霊が話されるから、知恵ある者は、人間に理解できないことをも理解する。また学者は私のことば、構文、場所、道具などを研究するだろうが、“選ばれた人々”は、このような研究に時を費やさず、ただ愛に満たされて、みことばを聞く。そして彼らは、話すのが愛であると理解するであろう。
彼らは学者たちの美辞麗句、あるいは偽予言者、または自分で実行してもいない教えを教える偽教師の教えを、私から与えられる単純な真理のことばと区別できるだろう。世間は愛を行う彼らを憎むだろう。世間は光である私を憎み、光の子らを憎み、同時に自分の罪を受け入れてくれる闇を好んでいるからである。
私の羊たちは私を知る。未来の羊も私を知る。私が先達として歩む血と苦しみにも従い、私の後を歩む。それは人間の霊魂を知恵へ導く道である。それは正義を教え、世間とサタンの闇を照らし、探し求める人を道と、真理と、命へ導く血と涙の道である。霊魂は何よりも自分たちを命、真理、正しい道へ導いてくれる人を必要とする。
雇われ人
天界の秘義8002[4]
『雇われ人』については、かれらは僕であって、買われた者ではなく、賃金のために働いた者であり、これらの者は『雇われ人[雇人]』と呼ばれたことについては、レビ19・13、25・64−6、申命記24・14、15を参照されたい。『雇われ人』は賃金のために労した者であったため、かれらによりその内意では、他生における報酬のために善いことを行う者が意味され、かくて業による功績を求める者が意味されているのである。
[5]
単に世における自分自身の利得のために善いことを行う者らは到底天使たちと交わることはできない、なぜならかれらの顧慮する目的は世、すなわち、富と卓越であって、天界、すなわち、霊魂の祝福と幸福ではないからである。目的がその行為を決定づけて、これにその性質を与えるものである。単に自分自身の利得のために善いことを行う者らについては、主は以下のように語られている―
わたしは善い羊飼いである、善い羊飼いは羊のためにその生命を捨てる。しかし雇われ人であって、羊飼いではなく、羊もその者のものではない者は、狼が来るのを見ると、その羊を捨てて、逃げて行く。狼は羊をつかまえて、これを追い散らしてしまう。しかしその雇われ人は雇われ人であるため、逃げて行く(ヨハネ10・11−13)。
知らない
天界の秘義6806
「神は知られた」(出エジプト2・25)。
これは主が仁慈を与えられたことを意味していることは、『知ること』の意義から明白であり、それは神、すなわち主について述べられているときは、仁慈を与えることである、なぜなら主を人間に連結させ、また主を人間のもとに現存させ、従って、主に人間を知らさせるものは仁慈であるからである。主は実に宇宙の凡てのものを知られてはいるが、しかし愛と仁慈との善の中にいる者をのぞいては、父がその息子を知るようには知られはしないのである。
天界の秘義6806[2]
それで主は善の中にいる者たちについては以下のように言われ、彼らをその『羊』と呼ばれているのである―
わたしは善い羊飼いである、わたしはわたしの者たちを知り、またわたしの者たちからも知られている。わたしの羊はわたしの声を聞く。わたしは彼らを知り、彼らはわたしについてくる(ヨハネ10・14,27)。
しかし悪の中にいる者らについては、主は以下の記事で、自分は『彼らを知らない』と言われている―
多くの者はその日わたしに言うであろう、主よ、主よ、わたしたちはあなたの名を通して予言したではありませんか、あなたの名を通して魔鬼どもを追い出したではありませんか、あなたの御名において多くの力ある業を為したではありませんか。しかしそのときわたしは彼らにはっきりと言おう、わたしはあなたらを知らない、不法を働く者らよ、わたしのもとから去りなさい、と(マタイ7・22,23)。
ほかの羊・・霊的な者
天界の秘義2669[3]
天的な者たちは主が以下のように言われている者たちである。
かれは自分の羊の名を呼び、かれらを導き出す、かれは自分の羊を導き出したとき、かれらに先立って行く、羊はかれに従って行く、なぜならかれらはかれの声を知っているからである。
しかし霊的な者は主が以下のように言われている者たちである。―
わたしにはこのおりのものでない他の羊がいる。わたしはかれらもまた連れてこなくてはならない。かれらはわたしの声を聞くであろう。かくて一つの羊の群と一人の羊飼いがいるであろう(ヨハネ10・3、4、16)。
愛の善が天的な教会を作るものである、しかし信仰の善が霊的な教会を作るものである。信仰の真理は作りはしないで、導き入れるのである。
天界の秘義2661[2]
主は天的な者を救うために世に来られたのではなく、霊的な者を救うために来られたのである。『人間』と呼ばれた最古代教会は天的なものであった、もしこの教会がそのもとのままに止まったならば、主は人間として生まれたもう必要はなかったのである。しかしこの教会が衰え始めるや否や、主は天的な教会が全く世から死滅することを予見されたのであり、そうした理由からそのとき主が世に来られることについて予告がなされたのである(創世記3・15)。その教会の時の後ではもはや天的な教会は存在しなくなって、霊的教会が存在したのである、なぜなら洪水以後に存在した古代教会は―この教会については第一部にいくども語ったのであるが―霊的教会であり、この教会は、すなわち、その霊的教会にぞくした者たちは主が世に来られなかったならば、救われることができなかったからである。このことがマタイ伝の主の御言葉により意味されているのである。―
すこやかな者は医者を要しない。病んだ者がかれを要するのである。わたしは義しい者を招くためでなく、罪人をまねいて悔改めさせるために来たのである(マタイ9・12、13)。
またヨハネ伝の以下の御言葉によっても意味されているのである―
そしてわたしにはこのおりのものでない他の羊がいる。かれらもまたわたしは連れて来なくてはならない。かれらはわたしの声を聞くであろう。かくて一つの群と一人の羊飼いがいるであろう(ヨハネ10・16)
またマタイ伝18・11−13の百匹の羊のたとえによっても意味されているのである。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/5巻P79
91.2.24
イギリス、スコットランド、アイルランド旅行の前に。
我がヴァッスーラ、この句をそれぞれの国で最初に紹介しなさい(ヨハネ福音書10・14−16をイエスは示されました)
彼らにあなたを送っているのは私、主であると伝えなさい。私に属する羊たちは 我が声を聞こう。真理に立ち帰るよう 多くにとって知られていない道を 連れに訪れた。故郷へと、愛する者たちよ、道案内するために 愛の燃える火を持って訪れた。我が聖心はあなた方の憩い。
7.御降誕の時の羊飼いたち
静思社/神学論文集P100
ベイエル博士に宛てたイマヌエル スエデンボルグの第六番目の手紙から
「飼い葉桶」は、らばと馬とが聖言を理解することを意味しているため、聖言から与えられる教えを意味しており(「啓示による黙示録解説」、297番を参照)、「飼い葉桶」はそれらの食物を含んでおります、宿屋に部屋が無かったことはエルサレムには教える所が無かったことを意味しており、それで、来るべき教会を意味している羊飼いたちに、「このことがあなたらに与えられるしるしとなりましょう、あなたらは飼い葉桶に寝かされている赤児を見つけるでしょう」(ルカ伝2・12)と言われています。
ヨハネの洗礼は、神御自身がユダヤ人の間に降臨されるとき、ユダヤ人たちが存続するようにと諸天界を備えたのです。ヨハネは主と主の降臨とについて言われた旧約聖書の凡ゆる予言を意味したのであり、同じくエリアも、予言者たちの首頭であったため、そのことを意味したのです。
マリア・ワルトルタ/イエズスの受難/P51
“ダビドの子にホザンナ。ホザンナ!主の御名に来られるお方は祝されよ!神はわれらとともにおられる。エンマヌエルが来られた、主のキリストの御国が来られた!ホザンナ!この世から天のいと高きところまで、祝福!キリストのために神に栄光。地には善意の人々に平和、いと高き天に栄光、主の時は来た!”
こう叫ぶのは、御降誕の時にいた羊飼いたちのよくまとまった一団である。
マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々1/P188
「そのとおりです。しかし、ユダ、ちょっと考えてごらん。おまえはまだ私のために苦しんだことはないが、この人たちは私のためにもう三十年間も苦しみ通しで、私の思い出さえも裏切ったことはない。“思い出さえも”私の生死があいまいだったのに、それでも忠誠を守っていました。生まれたばかりの赤ん坊で、泣いたり、母の乳をねだったりする幼な子だった私の記憶しかなかったが、それでも、いつも私を神として尊敬していたのです。私のことで、この人たちは呪われ、打たれ、虐げられました。ユダヤの恥部のように見なされたが、それでも、この人たちの信仰は揺らぐことなく、枯れることなく、ますます深い根を張り、より強められるばかりでした」
「そうそう。さっきからずっと聞きたくてうずうずしているのです。この人たちは神様の友達でしょう。そうでしょう? 天使たちは、この人たちを天の平和で祝福したのでしょう? この人たちは、あらゆる誘惑に対して義を守ったのでしょう? それなのに、なぜ不幸になったのか説明してくれませんか。アンナはあなたを愛して守ったために殺されたではありませんか・・・」
「それで、おまえは私の愛、私を愛することは不幸のもとになると思っているのですね」
「うーん、そうでもない・・・けれど・・・」
「しかし、そのとおりです。おまえはなかなか光を受けず、それほどまで人間的な考えにとらわれていることが私を悲しませます。
いやいや、ヨハネ、ほっといて。あなたもシモン。ユダは思うように話した方がいい。ただ、光で照らされることだけを望みます。ユダ、ここに来て聞きなさい。おまえは、いま生きている多くの人々、未来も生きる多くの人々の考え方に立っています。考え方と言ったけれども、もっと正確には“間違い”と言った方がぴったりでしょう。しかし、おまえたちは悪意からではなく、本当のことを知らないのだから、誤りではなく、子供にありがちな片寄った判断と評価をしているにすぎない。
そうです、あわれな人間よ、おまえたちはただの子供です。先生の私がここにいるのは、おまえたちを、真と偽り、善と悪、より良いことを単なる良いことと区別できるような大人にするためにここにいます。聞きなさい。生きるとは何でしょう。神なる父が、おまえたちが本当に良い子であるかどうか、その心を試すために与える時間であり、おまえたちの業によっても終わることがなく、試すことのない未来を与えるためです。そうしたら、ちょっと考えてみなさい。ある人は、神に特によく仕えるために稀な恵みをいただいていたために、一生涯にわたって何の不幸も起きないというのは良いことですか。人間生活においては、あまり幸せではなくても、いままでいただいた多くの恵みのために十分幸せであると考えてもよいのではないですか。心に神の啓示の光を受け、同時に賛成する良心のほほえみをもっているのに、この世でまた余分に光栄とか豊かな財産とかをいただくのは不正ではないでしょうか。その上、不賢明なことでもあり得ます」
マリア・ワルトルタ30・11/天使館1巻P257
イエズスは言われる。
きょうはわたしが語る。あなたはとても疲れているが、もう少しの辛抱です。
聖体の祝日の前日です。あなたに、聖心(みこころ)の使徒であった聖人たちについて語ったように、この度はあなたに聖体について、またこの信心の使徒となった聖人たちについて語ることもできよう。しかし、もう一つのこと、わたしの体に対する崇拝の先駆者たちである、わたしの体の礼拝者たち一群についてあなたに語りたい。それはあの羊飼いたちです。人となったロゴスの体を、最初に礼拝した人たちです。
一度、わたしはあなたに言ったことがあり、わたしの教会も言っていることだが、あの聖なる無辜の幼子たちは、キリストの最初の殉教者たちです。今、わたしはあなたに言う。あの羊飼いたちは、神の体の最初の礼拝者たちである、と。彼らには、わたしの体の礼拝者として要求されるすべての資格、聖体を礼拝するにふさわしい魂があります。
確実な信仰。彼らはあの天使を即時に、盲目的に信じます。
懐の深さ。彼らは自分たちのすべての富を主に捧げます。
謙遜。人間的にいえば、彼らは自分たちよりも貧しい人びとに近づき、相手に恥をかかせない慎みをもって、自分たちは彼らのしもべである、と言い切ります。
熱望。自分たちが与えられないものを、使徒職と労働によって得ようと全力を尽くします。
機敏な従順。マリアがザカリアにイエズスの誕生を知らせたいと望んでいることを知るや、エリヤは逸早くヘブロンへと出発します。先送りすることなく。
愛。最後に彼らは洞窟を立ち去り難く思う。あなたは彼らの思いを『後ろ髪を引かれる思い』と表現したがその通りです。
それはともかく、わたしのこの秘跡に対しても、そうあるべきではないだろうか?
それからもう一つ、これはあなただけに言います。あの天使は、誰にまず自分を現わし、マリアの愛情の吐露を聞くに値したのは誰であったか、よく観察しなさい。それは牧童レビです。
子供のような純真さをもつ者に、神はご自分を現わし、その神秘を明かし、自分とマリアの言葉をお聞かせになる。子供のような純真さをもつ者は、『イエズスの産衣に接吻させてください』と言うレビの聖なる大胆さを持つ。彼はそれをマリアに言う。それもそのはず、あなたたちにイエズスを与えるのは、常にマリアだからです。聖体を運ぶ人は常に彼女なのです。生きた聖体容器(チボリウム)は常に彼女なのです。
マリアのもとへ行く者は、そこにわたしを見つけます。わたしを彼女に求め願う者は、彼女からわたしを受けます。わたしの母の微笑は、『もっと愛するためにイエズスをわたしにください』と誰かが言うとき、諸天を喜びの、同じく幸せの強烈な輝きで青ざめさせるのです。
だから『イエズスの産衣に接吻させてください。その御傷に接吻させてください』とわたしの母に言いなさい。さらに大胆に言いなさい。『あなたのイエズスの聖心の上にわたしの頭を凭れさせてください。至福を味わうために』と。
おいで。そして憩いなさい。イエズスとマリアの間に置かれた揺り籠で。イエズスのように」。
マリア・ワルトルタ/復活/P268
・・・・・私は自らを現わす時、多くの人々に特別な現れ方をした。そして私の現れは、皆に同じように反応されたのではない。私の現われは、平和、生命、正義を得させるため、人間に要求されて、善意を持つ人々を聖ならしめた。そのように羊飼いたちには、聖寵が私の隠れた三十余年の生活の働きを知らせ、その後この世の道を歩んでいた神の子である私が、永遠の群れの羊たちを集めるために、愛の呼びかけをしていた。その時に善人は、悪人とわかれ、羊飼いたちは、私に従っていた群衆の中にあって、私の使いとして、自分たちの単純な信仰にあふれる話でキリストを知らせていた。“神です。私たちは彼を知っている”という彼らの最初の産声に、天使たちの詩が下り、天使たちは皆に“善意の人に平和”と言われた。善意とは真理への望みである。
“皆、主に従いましょう。そうするならば、皆は主が約束された平和を与えられるでしょう”
謙遜で無知な貧しい人間の中の、私の最初の使いたちは、イスラエルの王、この世の王の道に沿って、番人のように整列した。忠実な目、正直な口、愛に満ちた心、自分たちの香りを香炉のように立ち昇らせた。それはすべての人間のために人となった神である私の傍を、清めるためであった。私はゴルゴダで、血まみれの姿で、十字架の下にも彼らを見つけた。私はすべての愛の眼差しを注いで彼らを祝福した。荒れ狂っていた群集の中で、まだ私を愛し、信じ、希望して、私の降誕の遠い夜を思い出し、あわれみの目を持って私を見ていた。彼らの見た私の最初の眠りは、すべての苦しみを担った木の上であった。羊飼いたちは、罪のない私のために泣いた人々であった。彼らに対しての私の現れは、義人であった彼らを聖とするためであった。
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/10卷下P148/645・9
「イエズスが言われる」
「わたしは何度も、多くの人びとに、異様なやり方で、わたしを現してきました。けれども、わたしの出現が、すべての人に同じ効果をもたらしたわけではありません。わたしの出現は、その人たちの聖性と一致しています。平安、命、正義のためには、善意を持っていなければなりません。
そこで、恩寵は、わたしの私生活の三十年前、羊飼いたちに働きかけていました。その後、善人たちが神の子に従うために悪人たちから離れる時が来た時、花をつけて聖なる穂を実らせました。その時、神の子が、永遠の群れの羊、サタンによって散らされた羊たちを集めるために、愛を叫びながら、世界中の道を通っていたのです。わたしに付き従った群衆の中にいた羊飼いたちは、わたしの使者でした。彼らの素朴で確信に満ちた報告は、キリストを公言してたたえました。『救い主です。救い主だと分かります。御子の産声に、天使たちの子守歌が降りました。そして、天使たちから聞きました。善意の人に平和あれと。善意とは、善と真理への欲求です。御子に従いましょう! 御子について行きましょう! 主によって約束された平和を得るために』と
人間の中で最初にわたしの使者になった人たちは、謙虚で、無知で、貧しい人たちでしたが、イスラエルの王、世界の王の道へ、兵隊のように押し寄せました。彼らの忠実な目、正直な口、愛の心、徳の香の立ち昇る香炉は、すべての人のために受肉した神であるわたしの周りから腐敗臭を取り除いてくれました。彼らは、十字架の下にもいてくれました。その前に、ゴルゴダの血まみれの道で、わたしの目は彼らを祝福しました。抑制のきかない群衆の中で、彼らだけが、わたしを呪わず、愛し、信じ、希望し、優しい目を向けてくれました。彼らは、わたしが生まれた遠い夜を思い、固い木の桶で最初の眠りについて汚れなき者が、最後にもっと苦痛な十字架の上で眠ることを泣いていました。けれども、わたしは彼らに出現し、高潔な霊魂たちを聖化しました。」
天界の秘義342
『レビ』は仁慈を意味し、(創世記29・32,33,34)それでまたレビの種族は祭司職を受けて、『羊を牧う者』を表象したのである。
天界の秘義343
『羊を牧う者』は仁慈の善を行う者であることは何人にも明白であるに相違ない。なぜならこれは旧新約聖書の聖言の親しい象徴であるからである。導いて、教える者は『羊飼い』と呼ばれ、導かれ、教えられる者は『羊』と呼ばれている。仁慈の善へ導かないし、またそのことを教えない者は真の羊飼いではないし、善に導かれないし、また善いことを学びもしない者は羊の一匹ではない。(中略)
イザヤ書には―
アラビヤの羊の群はことごとくあなたのもとに集められ、ネバイオテの雄羊はあなたに仕えるでしょう(60・7)。
羊の群を仁慈の善へ導く者は『羊の群を集める者』であるが、これを仁慈の善に導かない者は『羊の群を追い散らす』のである。なぜなら凡て共に集まり、一つになることは仁慈から生まれ、追い散らして一つにならないことは仁慈の欠如から発するからである。
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P52
ケリオットのユダ:「おまえはこの話をまだ続けるつもりなのか」
羊飼いのイザク:「そう。きょうも明日もあさっても。だれかが聞いてくれる」
ユダ:「こんなやっかいな仕事をどれくらい続ければいいのだろうか」
イザク:「それは分らないが、私のことばを信じてほしい。前も後も見ないで続けること、一日一日積み重ねればよいのだ。夕方になって何か成果があれば“神様ありがとう”なければ“明日のためにあなたの助けを望みます”と言うだけで十分なのだ」
デボラ/生ける神よりあかされた英知第1巻下P3
それで主よ、あなたは、ご誕生のとき、ヘロデや、エルザレムの司祭長たちではなく、普通の羊飼いを・・・問題をおこさず、すなおに信じるものをお呼びになりました。
そうです、イエズスさま、あなたは、あなたを学問する人たちにお現れにならないで、あなたを愛する者に現れてくださいます。
8.主のところへ連れて行く
マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P156
あなたたちの中にあるはずの愛は、彼らからすべての恐れを追い出すようにせよ。ヨハネの手紙にあるとおり(ヨハネ第一の手紙4・18)。しかし恐れを抱かせる人にも完全な愛はない。それで“どうしたのか”と言うな。“さあ、ここを去れ”と言うな。“お前のような人は、よい愛に対しての趣味を持っているはずがない”と言うな。その代りに、私の名前でこう言え。“愛せよ、そうすれば私があなたをゆるす”“おいで。イエズスの腕が開かれている”と。“天使のパンとこの言葉を味わい、地獄の瀝青とサタンの嘲りを忘れよう”と言え。
使徒は、自分と他人の十字架といっしょに自分と他人の弱さを背負うべきである。そして、傷を受けている羊を背負って私のところに来る時に、このさまよった人をこう安心させて“今からすべてが忘れられた”と言え。
そしてまた“救い主を恐れるな。彼は天からあなたのために、本当にあなたのために来られたのです。私はあなたを待っている。あなたを聖なる牧場に連れて行きたい。彼のところにあなたを渡す橋にすぎないのである”。
以上の言葉は、よい牧者にいつも誠実であったあなたたちにあまり関係ないかもしれないが、しかし、あなたの心に信頼を大きくし、多くの人にとって私に来るように励ましとなり、しおれかかった花の再生に役立つ露となるであろう。顔を上げよ。天は上の方にある。マリア(著者のこと)平和に行け。主は、あなたとともにおられる。
真の基督教380(2)
「似非信仰は唯一の真の信仰より離れ、「他の途によって攀じ登り」主を神として認めず、単なる人間として認める者等によって抱かれる。」
唯一の、真の信仰から離れる凡ゆる信仰は贋物である。何故なら、唯一の真の信仰のみが存在し、それから離れるものは凡て誤ったものであるからである、主と教会との結婚は教会の凡ゆる善と真理を生み、それ故凡ての純粋な仁慈と信仰とを生むのである。しかし、その結婚から発しない凡ゆる仁慈と信仰とは一夫多妻あるいは、姦通の不法の子孫であって、正当に生まれたものではない。主を認めしかも虚偽と異端とを採用する凡ゆる信仰は一夫多妻の子孫であり、一つの教会の三人の主を認める凡ゆる信仰は姦通の子である。何故ならそれは娼婦の子のようなものであるか、あるいは、一人の夫に嫁ぎながらも他の二人の者と夜を過ごし、その各々を交互に己が夫と呼ぶ女の子のようなものであり、それ故かかる信仰は似非信仰と呼ばれる。主は多くの箇所でかかる信仰を告白する者を姦通者と呼び給い、ヨハネ伝の如く、彼らはまた盗人、強盗によって意味されている。「まことに我汝らに告ぐ、羊の檻に門より入らずして、他より越ゆる者は盗人なり、強盗なり。我は門なり。我によりて入る者は、救はるべし」(ヨハネ10・1、9)。羊の檻に入ることは、教会に入ることであり、また天界に入ることである。何故なら、教会は天界と一つであり、実にそれは天界を構成するからである。それ故、主は教会の花婿であり夫である如く、天界の花婿であり夫である。信仰の合法性あるいは非合法性は上述した三つの指示、即ち、主を神の子として認めること、彼を天地の神として認めること、彼は父と一であると認めることによって決定され、如何なる信仰であれこの要素から離れる限り、それは似非信仰である。
9.悪の中にいる教師ら
天界の秘義6779
「すると羊飼いらが来て、彼らを追い払った」。これは悪の中にいる教師らが対抗したことを意味していることは以下から明白である、即ち、『羊飼い』の意義は、教えて仁慈の善へ導く者であり(343、3795、6044番)、ここでは、教えはするが、自分が悪の中にいるため、仁慈の善へは導きはしない者であり(そのことについては今後述べよう)、『追い払うこと』の意義は対抗することであり、彼らから追い払われた者たちである『娘』の意義は教会の事柄である(そのことについては前の6775番)。『羊飼い』によりここでは、教えはするが、自分が悪の中にいるため、仁慈の善へ導きはしない者らが意味されている。なぜなら悪の中にいる者らは仁慈とその業とが救いに寄与することを決して承認しないからであるが、それは彼らは彼らの生命に反したことを、それが彼ら自身に反しているため、承認することが出来ないためである。そして彼らは悪の中にいるため、仁慈の何であるかを知りさえもしておらず、それでまた仁慈の業の何であるかを知りさえもしていないのである。彼らは信仰を教え、信仰により義とし、またそれによって天界を約束している。これらの者が聖言から発している仁慈の教義に対抗する者らであり、従って単純な善の真理の中にいる者たちに対抗する者らであり、この単純な善の中にいる者たちが『ミデアンの祭司の娘たち』により意味されており、この娘たちを、彼らが羊に飲ませるため、水を汲み、水桶に満たした後でその羊飼いらが追い払ったのである。