醗酵

 

 

試練

 

 

 

天界の秘義7906〔2〕

 

 さらにパン種を入れたものとパン種を入れないものについては以下のことを知られたい、即ち、人間のもとで真理が誤謬から清められることは、所謂発酵無しには、即ち、誤謬が真理と闘争し、真理が誤謬と闘争すること無しには決して有り得ないのである、が、闘争が生れて、真理が征服した後では、誤謬はかす〔おり〕のように沈んでしまい、真理はぶどう酒が発酵の後でおりが底に沈んで透明になるように、清められて現れてくるのである。こうした発酵または闘争は、人間が変化しつつある時、即ち、彼が仁慈に属した善から活動し始めて、以前のように信仰に属した真理から活動しない時に、主として存在するのである、なぜならその人間が信仰の真理から活動する時は、その状態は未だ清められてはいないが、しかしそれは彼が仁慈に属した善から活動する時は清められているのである、なぜならその時は彼は意志から活動しているが、以前は単に理解からのみ活動しているからである。

 

 

 

天界の秘義7906〔3〕

 

 霊的な闘争または試練が霊的な意義における発酵である、なぜならその時誤謬は真理にそれ自身を連結させようと欲するが、真理はそれを斥け、遂にはこれを謂わば底に投げつけ、従って浄めるからである。主がマタイ伝で(パン)種について教えられることもこうした意味で理解しなくてはならないのである―

 

 天国はパン種に似ている、女がそれを取って三升の粉の中に隠すと、全体が膨らんでくるのである〔全体が発酵するのである〕(マタイ13・33)。

 

『粉〔あら粉〕』は善が発生してくる源泉である真理を意味している。ホゼア書にもまた―

 

 彼らはすべて姦通者であり、パン焼きに熱せられたかまどのような者である、そのかき混ぜる者はそのこね粉をこねることを、それが発酵するまで〔膨れ上がる迄は〕休むのである(ホゼア7・4)。

 

前に言ったように、発酵により意味されているような闘争が生命が更新される以前の状態の人間のもとに起るため、また初穂の宴に新しい素祭が捧げられた時は、揺祭のパンには種を入れて焼いて、エホバに初穂としなくてはならないと命じられたのである(レビ23・16、17)。

 

 

 

霊界日記1332

 

かくてこうした状態からは、または天界的なものと形体的なものとの間のこうした均衡から不安が起り、そこから、いわば、一種の発酵作用が起るからには、その霊はその前の生命の状態へ送り帰されて、遂にはそれに嫌悪を覚え、その後で再び天界へ入れられるのである。

 

 

 

霊界日記5838

 

その浄めることを色々な方法で、主として、悪い者がその場に居合わせていることを通して、従って一種の発酵作用を通して起ったのである。

 

 

 

霊界日記6020

 

幾多の社会はまたそこへ悪い人物が入れられることにより浄められるのである。なぜならそのため、いわば、醗酵のようなものが起こってくるからであり、そのことについては前を参照されたい。

 

 

 

神の摂理25

 

 人間の善と真理の結合は浄化により主から供えられており、浄化は二つの方法により行われ、その一つは試練であり、他は発酵である。霊的試練は地獄から放出されて人間を動かす悪と誤謬に対する争闘以外の何ものでもない。人間はこれにより悪と誤謬から浄められ、彼の中に善は真理に、真理は善に結合する。「霊的発酵」は地上のように天界でも多くの方法により行われている。しかし世ではそれは如何なるものであり、如何にして遂行されるかは知られていない。なぜなら共同体に入れられて、ちょうど碾割(ひきわり)の中に入れられた酵母のような、または新酒に入れられた酵素のような働きをする悪と誤謬があって、それにより一致しないものは他から分離し、一致するものは結合して、その結果、浄化が行われるからである。これが主の以下の語により意味されるところである、『天国はパン種(酵母)のようである、女がこれを取り、三斗の粉に入れると、ことごとくふくれだす』(マタイ13・33、ルカ13・21)。

 

 

 

神の摂理284

 

人間の理解は善と悪の容器であり、また真理と誤謬の容器であるが、人間の意志はそうではない。意志は悪か善かその何れかにいなくてはならず、両者の中にいることは出来ない、なぜなら意志は人間そのものであって、彼の生命の愛はその中に宿っているからである。しかし理解の中には善と悪とは、内なるものと外なるもののように、分離して存在し、それ故人間は内的には悪に、外的には、善にいることが出来るが、しかしそれでも、人間は改良されつつある時は、善と悪とは共に集められて、衝突、争闘が生まれ、それが、もし激烈であるなら、試練と呼ばれるが、しかし激烈でないなら、葡萄酒または他の液体の醗酵に似ている。もしその時善が勝つなら、悪はその誤謬と共に、おりが器の底に沈むように、周辺へ移され、善は醗酵後こくのつく葡萄酒のようなものに、または澄んだ液体のようなものになる。しかしもし悪が勝つなら、善はその真理と共に周辺に移され、醗酵の不充分な葡萄酒か、それに似た飲物のように濁り、悪臭を発する。この経過が醗酵に譬えられたのは、酵母(またはパン種)は聖言では悪の誤謬を意味するからである(ホセア7・4、ルカ12・1その他)。

 

 

 

神の摂理26

 

これらの用は地獄に住む者の中にある悪と誤謬の結合により主から供えられている。なぜなら天界のみでなく地獄にも及んでいる主の支配は用の支配であって、その中には無用な人間や物が存在しないように主の摂理により定められているからである。

 

 

 

生命97

 

 この争闘は己が欲念を抑制はしないで、一定の目的の下にそれに耽った者らの場合を除いては、また聖言と教会の聖い物を頑迷に棄て去った者らの場合を除いては苛烈なものではない。そうした者以外の者のもとではそれは苛烈なものではない、そうした者たちは一週間に一度なりと、または一ヶ月に二度なりと、その心の傾きがちな悪に抵抗されよ、さすれば変化を認められるであろう。