誤謬

 

1.ハエ

 

黙示録講解740ロ

 

なぜならベルゼブルは語源によりはえの神を意味し、『はえ』は感覚的な人間の誤謬を意味し、かくて凡ゆる種類の誤謬を意味するからである。

 

 

天界の秘義1594[4]

 

それのみが天界的なものである相互愛は、人間が自分自身については以下のように言うのみでなく、またそのことを承認もし、信じもしていることにあるのである、すなわち、自分は全く無価値なものであり、卑しい汚れたものである、主はその無限の慈悲から自分を地獄から絶えず引き出され、遠ざけておられるが、その人間はその地獄の中へ自分自身を投げ込もうと絶えず努めている、否、渇望しているのである。彼がそのことを承認し、信じているのはそれが真であるためである、主がまたはたれか天使が彼が服従するためにそれを承認し、信じるように欲しておられるというのではなくて、彼が自分はまことにそうしたものであることを認めて、高ぶらないためである、なぜならそうしたことは排泄物がそれ自身を純金と呼ぶようなものであり、または糞の山の上を飛んでいる蝿が自分は楽園の鳥であると言うようなものであるからである。それで人間が自分自身は自分が実際あるようなものであることを承認し、またはそのようなものであると信じるに応じて、彼は自己愛からその自己愛の幾多の欲念から後退して、自分自身を忌み嫌うのである。彼がそのことを為すに応じて、彼は主から天界の愛を、すなわち、すべての者に仕えようとする願望から成っている相互愛を受けるのである。これらの者が主の王国の中で最大の者となるところの『いとも小さい者』により意味されている者たちである(マタイ20・26−28、ルカ9・46−48)。

 

 

天界の秘義7433

 

『が、わたしはその日わたしの民のいるゴセンの地を切り離して、そこには有害なはえは一羽もいないようにしよう』は、彼らは霊的な教会に属している者たちの近くにいるものの、その者たちを悪意を持った誤謬によって悩ますことは出来ないであろう、を意味し、(中略)

『パロの家へ、その僕らの家へ、エジプトの全地へその厄介な有害なはえが入って来た』は、悪意を持った誤謬が彼らの間の四方から激発したことを意味し、『地はその有害なはえの前から破壊された』は、自然的な心は真理の方面で腐敗したことを意味している。

 

 

天界の秘義7441

 

『有害なはえ』の意義は先行している前兆〔奇蹟〕により意味されたかの悪から生まれた誤謬であり、かくて悪意を持った誤謬である。

 

 

天界の秘義7441

 

その心のこの部分の中に在る物は空中を飛んでいる昆虫に似ており、内的な事柄を曖昧にし、またその事柄を害うためである、なぜならその大半は空想的なものであって、そこから起こってくる理論は空中楼閣のようなものとなるからである。

 

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P193

 

  そのとき私にとって人間の傲慢心とはちょうどうじ虫で表象されるように思えました。それは偉大な王様の足もとで気楽に過ごせるのをいいことに、まるで自分もなにか偉い者であるかのように信じて頭を高く上げ、ふくらんでゆき、少しずつ王様の衣服をはい登り、ついにその頭まで行きつきます。するとその頭が輝く王冠にかざられているのを見て、それを自分の頭にのせるために王様の頭から取りたいと思い、さらに衣服も脱がせ、玉座からおろし、ついにはその命までねらってあらゆる方法を使いたいとさえ願います。このうじ虫は自分が何者であるかを知りません。まして自分の傲慢のゆえに、彼を消してしまうには、王様がその厚かましい計画に気づいて片方の足でふみつけるだけで足りるということすら考えることができません。傲慢で熱した頭が作り出した錯覚による金色の彼の夢の全てはたった一瞬のうちに壊され、彼ほど傲慢でない人びとにも蔑みと同情心を起させることでしょう。このような人は恩知らずで悪者であるだけでなく、もっとも軽はずみで生意気な人だと思われるでしょう。

 まさしくこの私が、神聖な王様の足もとにいる惨めなうじ虫であるのを見ました。私が主にたいして犯した侮辱を思って非常な戸惑いと申し訳ない気持ちでいっぱいになるのを感じ、私の傲慢の罪ゆえにイエスが苦しまれたひどい苦悩を私の心におぼえました。イエスはこのあと私をひとりに残されましたが、私は傲慢心の醜さについて考えつづけました。それはあまりにも生々しい苦しみを生みましたので、とても言葉で言い表すことはできません。

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P100

 

 聖人:「あのギリシャの名高い哲学者ソクラテスが、一生をかけてただ一つのこと、つまり“自分は無知である”ことを学びとったと告白したのを、覚えておいででしょう。それをきいて人々は、哲学者のくせに無知だというのなら、他の俗人とどこが違うのかと迫りました。ソクラテスは、一つだけ違うところがある。それは、自分は無知であることを知っているが、人々はそれさえ知らずにいるのだ、と答えました。

 わたしの場合も、これと非常に似通っています。わたしは、自分が弱く罪人であることを知っていますが、人々は自分が罪人であることに気づいていないのです。そのため、罪を癒す薬にまったく気づかず、罪の中で死んでしまっているのです。人々がわたしのことを聖人と呼んでいるとすれば、それは誤っています。わたしは、神との密なる交わりに生きることによって聖人になろうと努めてはいますが、聖人になってなどおりません。もちろん、次のことだけはいつでも堂々と証しを立てられます。わたしは、愛する聖なるキリストと交わる中で、どのような理解も超えたあの平和を楽しんでいる。この天上の歓喜はこの世の言葉では表現できないものであり、現世的な人々には決してそれがわからないということです」

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P64

‘89・12・7

 

復活した者を前にして 死は勝利に呑み込まれよう、私はいのちです ♡ 復活 そしていのちそのものです 私の肉を食べ 聖血(ち)を飲みに来る者は誰であっても永遠のいのちを持つ ♡ 来なさい、我が聖体についてさらに啓示を書き取らせよう、私 主は こうして一致し みことばを書くために用いさせてくれるあなたを 祝福する、一心に働きなさい 我がヴァッスーラ、全ては無駄とはならない、さあ、行うすべてにたいして 道案内しよう、毅然としていなさい!

 

「毅然と」しているようにと言われたのは、書き下ろしている最中、このすべてが無意識の心から出ているかもしれないと、ちょうど悪魔が再び暗示をかけに来たからです! それでイエスが「毅然と」していなさいと仰しゃったのです。サタンは本当に邪魔者ですが、ほかの悪魔たちはあまり気になりません。やはり邪魔はしますが、飛び回っている蝿程度で、自分たちにとって不本意でしょうが私を怖れさえしています。それでも、悪意に満ちていますから、用心していなくてはなりません。これらの悪魔は、霊魂が眠りに陥り弱まっていたり、ためらうすきを見た途端、力を最大に発揮します。祈りは簡単にそれらを「殺し」、遠ざけます。真理を装い、愛にはほど遠い悪を、耳もとに飛び回って「暗示する」これらの悪魔たちを、主とその慈しみにたいする信仰は滅ぼしてしまいます。このために主は私どもが自覚し、絶え間なく祈っているようにお望みなのです。絶え間ない祈りはこれらの悪魔や、サタン自身も遠ざけます。祈りは周囲に安全な防壁をつくり、サタンとすべての悪魔を遠ざけます。本当に、それは休みなく続く戦いなのです。