誤謬

 

人間自身のもの

 

 

 

1.誤謬が支配している限り、誤謬のために妨害されて、人間は決して信仰の諸真理を受けることが出来ない

2.洪水の水または氾濫は誤謬を意味している

3.自分は何一つ善は行ってはいないのに、真のことを知ってさえおれば救われる、ということ以上に悦ばしいことがあろうか

4.凡ゆる真理を斥けて、誤謬をことごとく吸引するのみでなく、近づいてくる真理をことごとく歪曲してしまう

5.誤謬に取り憑かれて悩まされることは真理の中にいる者たちにとっては重荷以外の何物でもない

6.無知から発した誤謬

7.自己と世を求める愛の歓喜は死後の生命に対する信念をことごとく奪い去ってしまう

8.パロ、またはエジプトの王の表象は誤謬、たれにも神を拝する許しを与えない者は、己が中に確認した誤謬の中にいる者らが凡て日頃行うこと

9.彼らは真理の中にいる者たちに公然と自分自身を対立させて、凡ゆる方法を尽くして彼らにとりついて悩ます

10.悪の中にいる者らが悪から誤謬を考える時は、彼らは『出かけて行く』と言われる

11.悪の中にいる者らは誤謬を考え出し、その誤謬によって悪を弁護する

12.悪から発した誤謬の中にいるに応じて遂には真理については何事をも聞こうとも欲しなくなりさえする

13.誤謬を愛する者は悪を愛しないわけにはいかない

14.世に住む限り、改良または再生の状態におかれている

15.アグレダのマリア・・・死の時やその後の審判について忘れることほど大きくて悪い誤謬はありません

16.無数の真理を斥けてしまう

17.善に接合されることが出来る誤謬

 

 

 

 

 

 

1.誤謬が支配している限り、誤謬のために妨害されて、人間は決して信仰の諸真理を受けることが出来ない

 

 

天界の秘義635

 

信念または誤謬の原理は、それが根を下ろすと、凡ての働きを妨害するのであり、それがまず根絶されない限り、人間は決して再生することが出来ないのである。

 

 

 

天界の秘義653

 

 実情は以下のごとくである、人間は改良されつつある時には―それは争闘と試練とにより遂行されるのであるが―彼の知識と理性の幾多の物以外には何物をも刺激しない底の悪い霊らが彼と交わり、欲念を刺激する霊らは全く彼から遠ざけられている。なぜなら悪霊らには二種類あり、一は人間の推理[色々と推理すること]に働きかけ、他は人間の欲念に働きかけるからである。人間の推理を刺激する悪霊らはその者の凡ゆる誤謬を持ち出し、それらが真であると彼に説きつけようと努力し、真理を誤謬に変えさえもするのである。人間は試練に置かれた時は是らと戦わねばならない、しかしその人間に接合している天使たちを通して、戦われるのは実に主である。誤謬がこれらの争闘によって分離され、謂わば散らされるや否や、その人間は信仰の諸真理を受け入れる備えがなったのである。なぜなら誤謬が支配している限り、誤謬のために妨害されて、人間は決して信仰の諸真理を受けることが出来ないからである。信仰の諸真理を受ける備えがなると、その時始めて彼の中に仁慈の種子である天的な種子が植え付けられることが出来るのである。仁慈の種子は誤謬が支配している土地には決して植え付けられることは出来ないのであり、ただ真理の支配しているところにのみ植えつけられることが出来るのである。

 

 

 

真の基督教612

 

 人間は生来凡ゆる種類の悪と欲念とに傾いており、可能な時は、これに惑溺する。何故なら、生来彼は他の者を支配し、その財産を所有することを貪り求めるからである。この二つの欲念は隣人への愛を破壊し、そのため彼は己れに反抗する者を見て憎悪し、これに復讐することを、例えそれが殺人を意味するにしても切望する。同じ理由から、彼は姦淫、詐欺、或は秘かな窃盗、涜神、或は偽証を軽んずる。何人でもこれを軽んずる者はその心においては無神論者である。かくの如きが生来の人間であり、それ故、人間は生来小規模の地獄である。さて人間は動物とは異なり、その内なる心の方面では、霊的に生まれ、天界に対して生まれている。しかし彼の自然的な即ち外なる人は、今述べたように、小規模の地獄であり、天界がその場所を占める以前に、地獄が除去されねばならないことが推論される。

 

 

 

真の基督教784

 

人間における教会の内なるものを形成するこの新しい天界が増大するに応じて、新しいエルサレム即ち新しい教会がその天界から降って来るのであり、それ故これは一瞬に生ずることは出来ない。前の教会の諸々の虚偽が先ず取り除かれなくてはならない。何故なら新しい真理は古い虚偽が根こそぎにされない中は入ることは出来ないからである。而してこれは先ず教職者の間に生じ、彼らを通して平信徒の間に生じなくてはならない。何故なら主は以下のように語り給うたからである、「誰も新しきぶどう酒をふるき革袋に入れず、もし然せばその袋はりさけ、ぶどう酒ほとばしり出でん。新しきぶどう酒は新しき革袋に入れ、かくて二つながら保つなり」(マタイ9・17。マルコ2・22.ルカ5・37,38)。これらの事柄は主の御言葉によって明白であるように、教会の終わりを意味する世の終わりまでは生ずることは出来ない。イエスは語り給うた「天国は良き種畑にまく人の如し。人々の限れる間に、仇来りて、麦のなかに毒麦を播きて去りぬ。苗はえ出でて実りたるとき、毒麦もあらわる。僕ども来りて家主に言う、我らが往きて毒麦を抜き集むるを欲するかと。主人言う、いな恐らくは毒麦を抜き集めんとて、麦をも共に抜かん。両ながら収穫まで育つに任せよ。収穫のとき我かの者に、先ず毒麦をあつめて、焚くためにこれを束ね、麦はあつめて倉に入れよと言わん。収穫は世の終わりなり。されば毒麦の集められて火に焚かるる如く、世の終わりにも斯くあるべし」(マタイ13・24−30、39、40)。

 

本章の第1項に見られ得るように、ここの麦は新しい教会の真理と善を意味し、毒麦は前の教会の諸々の虚偽と悪を意味し、世の終わりは教会の終わりを意味する。

 

 

 

啓示による黙示録解説547

 

教会は最初は僅少な者の間に存在し、継続的に多くの者の間に増大することが主の神的摂理から発してくるのは、前の教会の誤謬が先ず遠ざけられねばならないためである、なぜならそのことが行われなくては、真理は受け入れられることは出来ないからであるが、それは、真理が誤謬を遠ざけられない中に受け入れられ、植え付けられると、その真理は止まりはしないで、竜どもによりまた消散されてしまうためである。

 

 

 

2.洪水の水または氾濫は誤謬を意味している

 

 

天界の秘義794

 

「そして水は非常に甚だしく地に強められた。」これは誤謬のいくたの信念がこのように増大したことを意味していることは『水』について直ぐ前に言われ、示されたところから、すなわち、洪水の水または氾濫は誤謬を意味しているということから明らかである。ここには、誤謬または誤ったものの信念がさらに増大したため、『水は非常に甚だしく強められた』と言われているが、それは原語では最上級となっているのである。

 

誤謬とは誤ったものの原理であり、信念であり[誤ったものを原理とし、それを信念としたものであり]これらが洪水以前の人々の間に甚だしく増大したことは前に彼らについて言った凡てから明白である。(その誤った)信念は人が真理を欲念に混ぜ合わせる時、または自己と世を求める愛を真理に支持させる時、無限に増大するのである、なぜならその時無数の方法で彼らは真理を歪曲し、これを強制して(自己と世を求める愛に)一致させるからである。なぜなら自分自身のために誤った原理を吸引した者であって、または形作った者であって、たれがその原理をその者が学んだ多くの物により、実に聖言によってさえも、確認しないであろうか。異端であって、その異端を確認するためにこのように幾多の物を把えないものがあろうか。また(その異端に)一致していないものを、それが一致するように、それをこじつけ、色々な方法で説明し、歪めさえしないものがあろうか。

 

 

 

 

3.自分は何一つ善は行ってはいないのに、真のことを知ってさえおれば救われる、ということ以上に悦ばしいことがあろうか

 

 

天界の秘義794[2]

 

例えば、仁慈の善がなくても、信仰のみが救うという原理を採用した者を考えてみられよ。彼は教義の全体系を聖言から織り出すことが出来ないか、しかもそれを主が言われていることを、すなわち『木はその果によって知られる』、『凡て善い果を結ばない木は切られて、火に投げ入れられる』(マタイ3・10、7・16−20、12・33)という御言葉を些かも顧慮しないで、または考察もしないで、または認めさえもしないで、やってのけるのである。自分は何一つ善は行ってはいないのに、真のことを知ってさえおれば救われる、ということ以上に悦ばしいことがあろうか。人間が支持する欲念はことごとくその者の意志の生命を形作り、誤謬の原理または信念はことごとくその者の理解の生命を形作るのである。これらの生命は信仰の諸々の真理がまたは教義的なものが諸々の欲念の中に浸される時一つのものとなるのである。かくて人はことごとく己がためにいわば霊魂のようなものを形作り、死後かれの生命はそのようなものになる。それ故人間には真であるものを知る以上に重要なことはない。人間が真のことを知り、それをそれが歪曲されることができない程にも充分に知る時、それは欲念の中にそれ程浸される筈はないし、このような致死的な結果を生む筈もないのである。人間は永遠に至るその生命以上にさらにいかような物をその心に抱くべきであろうか。もし身体の生命の中に彼がその霊魂を破壊してしまうならば、彼はそれを永遠に破壊してしまわないか。

 

 

 

 

4.凡ゆる真理を斥けて、誤謬をことごとく吸引するのみでなく、近づいてくる真理をことごとく歪曲してしまう

 

 

天界の秘義798

 

人間のもとにある残りのものについては、事実は既に述べたように、誤謬の諸原理は、ましてや洪水以前の人々の許に在ったような誤謬の信念は、その残りのものをそれが持ち出されることが出来ないほどに、また持ち出されても、直ぐに誤謬化されてしまったほどにも全く閉じ込め、隠し去ってしまったということである。なぜならそれが信念の生命であって、それは凡ゆる真理を斥けて、誤謬をことごとく吸引するのみでなく、近づいてくる真理をことごとく歪曲してしまうからである。

 

 

 

 

5.誤謬に取り憑かれて悩まされることは真理の中にいる者たちにとっては重荷以外の何物でもない

 

 

天界の秘義6757

 

「彼らの重荷を見」。これは彼らが誤謬に取り憑かれて悩まされていたことに気づいたことを意味していることは以下から明白である、即ち、『見ること』の意義は気づくことであり(そのことについては前の6732番を参照)、『重荷』の意義は誤謬に取り憑かれて悩まされることである、なぜならパロによりイスラエルの子孫に課せられた重荷はそれ以外のものではなかったからである。『パロ』は誤った記憶知を意味し(6651、6679、6683番)、誤謬に取り憑かれて悩まされることは真理の中にいる者たちにとっては重荷以外の何物でもないのである。真理の中にいる者たちの重荷であるところの、誤謬に取り憑かれて悩まされることにおける実情のいかようなものであるかは、人間にはこの世に生きている間では知られることは出来ない、なぜならその心はその時は幾多の誤謬に執着しているか、またはそれらを払い落とすか、しており、しかもそれが取り憑かれて悩まされることを感じもしないでなされるため、彼はそのように取り憑かれて悩まされはしないからである。しかし他生では真理の中にいる者たちが誤謬に取り憑かれて悩まされると、その時は彼らは悪霊のために、誤謬の中に謂わば縛りつけられるのであるが、しかしその心の内部は主により真理の中に留められ、その真理によってその誤謬は払い落とされるのである。他生に存在するような、誤謬に取り憑かれて悩まされる状態が、他の多くの事柄のように、ここに内意に意味されているのである、なぜなら聖言は単に人間のためのみでなく、霊たちと天使たちのためにも記されているからである。

 

 

 

 

6.無知から発した誤謬

 

 

天界の秘義6784〔2〕

 

 真の記憶知は悪から発した誤った教義の力に打ち勝つことは、神的なものが善から発した凡ゆる真理の中に在るに反し、悪から発した誤謬の中にはそれに相反したものが在り、そして神的なものに相反したものは全く勝ちはしないためである。それで他生では悪から発した誤謬の中にいる一千人の者も善から発した真理の中にいる一人の者にも全く勝ちはしないで、その一千人の者はこの一人の者の眼前からも逃げ去ってしまうのであり、もし逃げ去らないなら、責め苛まれるのである。「悪から発した誤謬」と言われているのは、それが真に誤謬であるに反し、悪から発しないで、真理に対する無知から発した誤謬はそうしたものではないためである。悪は天界に対立するものであるが、しかし無知から発した誤謬はそうしたものではない、否、もしその無知の中に無垢が何かあるなら、その時はこの誤謬も主から真理として受け入れられるのである、なぜならこうした誤謬の中にいる者たちは真理を受け入れるからである。

 

 

 

 

7.自己と世を求める愛の歓喜は死後の生命に対する信念をことごとく奪い去ってしまう

 

 

天界の秘義6853

 

「私は彼らの悲しみを知ったからである」。 これは、いかほど彼らが誤謬に浸されるかについて先見されたことを意味していることは以下から明白である、即ち、『知ること』の意義は、それが主について言われる時は、先見であり(『知ること』は先見を意味していることは、主は永遠から一切の物を知っておられるためである)、『悲しみ』の意義は誤謬に浸されることである、なぜなら善の中にいる者は、誤謬に浸されると、苦悶し、不安を抱き、責め苛まれるからである、なぜなら彼らは真理を愛して、誤謬を嫌悪し、絶えず救いについて考え、また誤謬に万が一にも支配されるなら、その(陥る)不幸について考えるからである。しかし善の中にいない者らは、自分が誤謬の中にいるか、または真理の中にいるか、を意に介しはしないのである、なぜなら彼らは救いについて、または不幸については、そうしたものは信じていないため、全く考えはしないからである。自己と世を求める愛の歓喜は死後の生命に対する信念をことごとく奪い去ってしまうのである。こうした人物は絶えず誤謬の中に浸されている。誤謬に浸されることは他生では波の中に浸されている者のように現れ、その波は誤謬が甚だしくなるに応じて益々高くなり、遂には、その者の頭上にも達しており、その波はその誤謬の性質に従って希薄にも、濃厚にも見えるのである。邪悪な者にあっては、その浸されることは霧のようなものとして、また多少薄暗い雲のようなものとして見え、それが彼らをとりまいており、天界の光のうららかさから全く彼らを分離しているのである。

 

 

 

 

8.パロ、またはエジプトの王の表象は誤謬、たれにも神を拝する許しを与えない者は、己が中に確認した誤謬の中にいる者らが凡て日頃行うこと

 

 

天界の秘義6907

 

「エジプトの王はあなたらの行くのを許さないことを」。これは誤謬はそれ自身を対立させるであろうということを意味していることは以下から明白である、即ち、『あなたらの行くのを許さないこと』の意義はそれ自身を対立させることであり―なぜなら神の命令があると言われているのに、許さない者は(6903番)、またたれにも神を拝する許しを与えない者は、己が中に確認した誤謬の中にいる者らが凡て日頃行うことではあるが、自分自身を対立させるからである―パロ、またはエジプトの王の表象は誤謬であり(6651、6679、6683番)、『行くこと』の、即ち、『神エホバに生贄を捧げるために荒野に三日路行くこと』の意義は、誤謬から全く遠ざかった状態の中に真理に従って生き、そのようにして主を拝することである(6904番)。

 

 

 

 

9.彼らは真理の中にいる者たちに公然と自分自身を対立させて、凡ゆる方法を尽くして彼らにとりついて悩ます

 

 

天界の秘義6907〔2〕

 

 誤謬の中にいて、エジプトの王により表象されている者らが真理の中にいる者たちに自分自身を対立させる実情のいかようなものであるかを話さなくてはならない。世では誤謬の中にいる者らは真理の中にいる者たちに公然と自分自身を対立させはしないのである、なぜなら外なる拘束により彼らは抑えつけられているからであって、その拘束とは自分が国家と教会との律法に反抗していると見えはしないか、それで自分は善良な市民であるように見えることが出来なくなりはしないか、という恐れである、なぜならこの世ではたれでも外形では公正で真実なものであるように思われたいと願っており、邪悪な者は気質の善良な者よりも更にそのことを願っているからであるが、それは彼らが他の者の心を捉えて、利得と栄誉のために欺こうとするためである。(そうした外形)にも拘らず内部では彼らは自分自身を対立させているのである、なぜなら彼らはたれかがその務めの上からではなくて、熱意から教会の真理を告白するのを聞くと必ず、心の中で嘲笑しており、もし外なる拘束から抑制されないときは、公然と嘲るからである。こうした者は他生へ入ると、最早外なる拘束物により抑制されはしない、なぜならこうした拘束はその時彼らから取り去られて、各自の真の性格が現れ、その時は彼らは真理の中にいる者たちに公然と自分自身を対立させて、凡ゆる方法を尽くして彼らにとりついて悩ますからである。その時そのことが彼らの生命の歓喜そのものとなり、そうしたことを為さないようにと警告されても―なぜならもしそれを慎まないなら、彼らは遂には全く引き離されて、地獄に投げ込まれるからであるが―それには一顧も与えないで、絶えず以前のように(他の者)にとりついて悩ませ続けるのであり、誤謬から発した生命の歓喜の中に甚だしく浸って、それに全くとりつかれているため、理知に属したものは何一つ容認はしないのである。これらが『エジプトの王はあなたらの行くのを許さないであろう』という言葉により意味されているものであり、パロが再三彼自身を対立させたことにより表象されているものである。こうした霊どもを遠ざけて、地獄へ投げ込むことが、パロとエジプト人とがスフの海に死滅したことにより表象されているのである。

 

 

 

天界の秘義6907〔3〕

 

 生命の悪の中におり、そこから誤謬の中にいる者らは世の光の中にいるのである、なぜならその光はそれによって知的なものが見られる光であるからである。この光は悪から誤謬の中にいる者のもとでは、赤く輝いており、彼らが悪から誤謬に中にいるに比例して、それが甚だしくなっているのである。自己を求める愛から発している世の栄誉がこの光を燃やして、輝かせており、それがそうであるため、その光の中では真理は全く誤謬として、誤謬は全く真理として現れているのである。その理由は天界の光はその光線の中へは流れ入ることは出来ないで、それと共になると暗闇となり、そこからそうした者らは真理に反抗して誤謬を強く確信するということである、それはその光の中では彼らは誤謬をそのように見るためである。しかし善から真理の中にいる者たちのもとでは、世の光は輝かないで、明確でないものとなっているに反し、天界の光は彼らのもとでは澄明で輝いており、この光はかくも澄明であるため、真理はその中では真理として、誤謬は誤謬として現れているのである、なぜならこの光は、天界の光から分離した世の光の中では真理として現れている誤謬の上に注がれると、それはその誤謬を明確でないものにするのみでなく、また全く消滅させてしまうからである。この光は、即ち、天界の光は、彼らのもとでは絶えず輝きを増し、遂には世の光はそれに較べることは出来ない程にもなるのである。この凡てから、悪から誤謬の中にいる者らが、かくも強烈な確認から、自己自身を真理の中にいる者たちに対抗させる理由が明らかである、その対立のことは前に取り扱ったところである。

 

 

 

 

10.悪の中にいる者らが悪から誤謬を考える時は、彼らは『出かけて行く』と言われる

 

 

天界の秘義7437

 

「見なさい、彼は水のほとりへ出かけて行きます」。これは、こうした悪から彼らは再び誤謬を考えることを意味していることは以下から明白である、即ち、『出かけて行くこと』の意義は悪から誤謬に進む思いであり―なぜなら悪の中にいる者らが悪から誤謬を考える時は、彼らは『出かけて行く』と言われるからである、なぜなら悪は意志に属しているため、それは最も内なるものであり、誤謬はその外側に在るからである、それは誤謬は理解に属し、従って思考に属しているためである、こうしたことが『出て行くこと』の霊的意義に意味されており、またマルコ7・21−23のように、悪い意志から発した悪い行為も意味されており、『水』の意義は真理であり、その対立した意義では誤謬であり(739、790、2702、3058、3424、4676、5668番を参照)、またパロがそのもとへ出かけて行こうとしているエジプトの川の水は誤謬を意味しているためである(7307番)。

 

 

 

 

11.悪の中にいる者らは誤謬を考え出し、その誤謬によって悪を弁護する

 

 

天界の秘義7437〔2〕

 

 悪から進んで誤謬を考えることについては、悪の中にいる者らは悪から進んで誤謬を考えないわけにはいかないことを知られたい、なぜなら悪は彼らの意志のものであり、従ってその愛のものであり、誤謬は彼らの思考のものであり、従ってその信仰のものであるからである。なぜなら人間はその意志する〔欲する〕ものを愛し、その愛するものを確認もし、弁護もし、悪は誤謬によらなくては確認も弁護もされることは出来ないからであり、それで聖言では、悪が都に譬えられているところでは、誤謬は都の周辺の城壁に譬えられているのである。悪の中にいる者らは誤謬を考え出し、その誤謬によって悪を弁護することは、悪は彼らの生命そのものとなっているほどにもその生命の歓喜そのものとなっているためである。それで彼らはそれが悪であることを他の者たちから悟ると、その時はそれがそうしたものに見えないように、誤謬を案出し、その誤謬によりその悪が悪であるとは信じられないようにしむけるのであるが、もしその悪が誤謬を通して敢えて現れようとしないなら、それは内部に隠れており、法律を恐れる思い、または利得のために、または名誉を得るために(自分の)世評を悪くはしないかと恐れる思いが無くなってしまう時以外は現れもしないのであり、そうした恐れが無くなると、その時はその悪は策略の形をとって、または公然とした敵意の形をとって迸り出てくるのである。

 

 

 

天界の秘義7437〔2〕

 

 この凡てから悪の中にいる者らは悪から進んで誤謬を考えないわけにはいかないことを認めることが出来よう。善の状態の中にいる者たちもまた同じであり、彼らも善から進んで真理を考えないわけにはいかないのである。なぜなら善と真理とは連結しており、また悪と誤謬も連結していて、そのことは、たれかが善の中にいることを知っている者はそのたれかはその善の真理の中にいることを知ることが出来る程にもなっており、また悪の中にいる者はその悪の誤謬の中におり、その者は推理し、歪める資質に長じているに応じ、また利得と名声とのために世評を悪くしはしないかと恐れるに応じ、また悪を行う自由の中にいようと望むに応じ、そうした誤謬の中にいる程にもなっているのである。言うも奇妙なことではあるが、こうした人物はしばらくの間誤謬により悪を弁護した後では、遂には悪は善であり、誤謬は真理であると自分自身に説きつけるのである。

 

 

 

 

12.悪から発した誤謬の中にいるに応じて遂には真理については何事をも聞こうとも欲しなくなりさえする

 

 

天界の秘義7738

 

奈落の者らは悪から発した誤謬の中にいるに応じて益々真理に反抗し、遂には真理については何事をも聞こうとも欲しなくなりさえする程にもなるのである。なぜなら誤謬の源泉となっている悪は彼らの生命の歓喜であるため、真理は誤謬に反し、誤謬は彼らには楽しいものであり、それで彼らは真理を、それが彼らの生命の楽しさと歓喜とに反しており、またもし彼らがそれを聞くなら、責め苛まれるため、その心から全く斥けてしまうからである(7519番)。

 

 

 

 

13.誤謬を愛する者は悪を愛しないわけにはいかない

 

 

啓示による黙示録解説153・5

 

 しかし真理に感動しないで、誤謬に感動するために、信仰のみによって義とすらされることを、教義においても、生活においても確認した者らは、善い業である仁慈の業を、救いの方法から斥けてしまっているため、善良な社会から連れ出されて、悪い社会へ導き入れられ、また色々な悪い社会へ入れられ、遂にはその者らの愛の欲念に相応した社会の中へ入ってくるのである。なぜなら誤謬を愛する者は悪を愛しないわけにはいかないからである。

 

 

 

 

14.世に住む限り、改良または再生の状態におかれている

 

 

神の摂理17

 

 人間は世の生活の間に、善と真理、または悪と誤謬の結合或いは一致に到達することは殆どできない。なぜなら彼は世に住む限り、改良または再生の状態におかれているからである。しかし凡ての人間は死後何れかの結合に入って行く。なぜなら彼はその時もはや改良されることも、再生することもできないからである。その時彼は世のその生活のままに、すなわち、彼を支配していた愛のままになる。それ故もしその生活が悪を愛した生活であったならば、かれが世で教師、説教、または聖言から得た真理はすべて彼から取り去られ、彼はスポンヂが水を吸収するように、彼の悪に一致した誤謬を吸い込むのである。これに反し、もしその生活が善を愛した生活であったなら、彼が世で聞きまた読んで得たものの、確認はしなかった誤謬はすべて、そのとき彼から取り去られ、代って彼の善に一致した真理が与えられる。これは主の以下の語により意味されている、「その者からそのタラントを取って、十タラントを持った者に与えよ、持つ者は凡て与えられて、豊かになるが、持たない者からはその持っている物も取られるのである」(マタイ25・28,29,13・12、マルコ4・25、ルカ8・18,19・24−26)

 

 

 

 

15.アグレダのマリア・・・死の時やその後の審判について忘れることほど大きくて悪い誤謬はありません

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P337

 

元后の御言葉

 死の時やその後の審判について忘れることほど大きくて悪い誤謬はありません。この誤謬の門を通って、罪が世の中に入ったことを考えなさい。最初の女エワに蛇が言ったことは、「汝は死なないであろうし、そのことを考える必要がない」(創世記3・4)ということでした。こうしていつも騙され、死について考えずに生き、不幸な運命を忘れて死ぬ人たちの数は非常に多いのです。このような結末を避けるため、あなたの死は取り返しがつかないことを確信し始めなさい。多くを頂き、少ししか返さなかったこと、御恵みが多ければ多いほど審判はもっと厳しくなること、主の御恵みがいつでもどこでもどんな状況でも、忘れず不注意にならず働いていることをよく考えなさい。

 

 

 

 

16.無数の真理を斥けてしまう

 

 

天界の秘義215

 

 人間自身の物は悪と誤謬以外の何物でもないことは以下の事実から私に明らかにされたのである。霊が如何ような時であってもその霊自身から語ったことはことごとく悪く誤っており、彼ら自身から語ったことが私に明らかにされた時は常に、例え彼らは語っている間に、その語っている事柄の真理を何らの疑惑を差し挟まない程に完全に確信しているにしても、私はそれが誤っていることを直ちに知ったのである。自分自身から語る人間の場合も同様である。同様に誰かが霊的な天的な生命の事柄についてまたは信仰の事柄について論じ始めた時はいつでも、私はその者らが疑い、否定さえしていることを認めることが出来たのである、なぜなら信仰について論じることは疑い、否定することであるからである。そして、それは凡て自己、または彼ら自身のものから発しているため、彼らは誤謬そのものの中へ沈み、従って暗闇の深淵へ、即ち誤謬の深淵へ沈むのである、そして彼らはこの深淵の中にいる時は、ちょうど微細な一片の塵でさえ瞳孔に接触するとそれは宇宙とそこに含まれている凡ての物を閉め出すように、最小の反対の意見でさえも無数の真理を斥けてしまうのである。こうした人間について主はイザヤ書に言われている。

 

災いなるかな自分自身の目では賢い者であり、自分自身の顔の前では理知ある者らよ(イザヤ5・21)。

 

さらに―

 おまえの知恵とおまえの知識とはおまえを迷わせた、おまえは心の中で言った、私であり、私の他にはたれもいない、と。悪がおまえに来るが、おまえはそれが何処から上って来るか、を知らない、災いがおまえに来るが、おまえはそれを償うことは出来ない、お前の知らない荒廃[剥奪]が不意におまえに来るであろう(イザヤ47・10、11)

 

 

 

 

17.善に接合されることが出来る誤謬

 

 

天界の秘義9809[11]

 

しかし真理については、それはそれに誤謬が接合されることの出来る性格を持ってはいるが、それでも悪を内に持った誤謬ではなくて、善を内に持った誤謬がそれに接合されることが出来るのである、例えば小さな子供たちや、未だ無垢な状態にいる間の少年少女たちや、気質は善良であるが、無知な異邦人や、聖言の文字の意義の中にいて、そこから生まれてくる教義の中にとどまってはいるものの、それでも生命[生活]の善を己が目的としている者たち凡てのもとに在るような誤謬は善に接合されることが出来るのである。なぜならこうした善は、それが目的となると、誤謬の悪性をことごとく駆逐し、それ自身を適用することによってその誤謬を一種の真理に似た形に作りかえてしまうからである。