栄化

益々青春の花盛りへ

 

 

天界の秘義1603

 

外なる人は一種の器具以外の、または何か有機的なもの以外の何ものでもなくて、それ自身の中には何ら生命をもっておらず、それは内なる人から生命を受けるのであって、そのときはその外なる人がそれ自身から生命をもっているかのように見えるのである。

 

[]しかし主にあっては主が遺伝悪を斥けられて、かくしてその人間的な本質の有機的なものを清められてしまった後では、そのものもまた生命を受けたのであり、かくて主は、その内なる人の方面ではすでに生命であられたが、その外なる人の方面でもまた生命になられたのである。これがヨハネ伝の『栄化[栄光を受けること]』により意味されているものである―

 

 

  イエスは言われる、今や人の子は栄化されます[栄光を受けます]。神もかれの中に栄化されたまいます[栄化を受けたまいます]。もし神がからの中で栄化されたもうなら[栄光を受けられるなら]神もまた神御自身の中にかれを栄化されるでしょう[かれに栄光を与えられるでしょう]。すぐにかれを栄化されるでしょう[すぐにかれに栄光を与えられるでしょう](13・31,32)。

 

 さらに―

 

  父よ、時が来ました、あなたの子を栄化してください[あなたの子に栄光を与えてください]、あなたの子もあなたを栄化するためです[あなたに栄化を与えるためです]。それで今、ああ父よ、わたしが世が存在しない中にあなたとともにもっていた栄光をもって、あなた御自身をもってわたしを栄化してください(17・1、5)。

 

 

さらに―

 

  イエスは言われた、父よ、あなたの御名を栄化してください。それで天から一つの声がきこえた、わたしはそれを栄化した、さらに栄化しよう[さらに栄光を与えよう](12・28)。

 

 

 

天界の秘義2034[4]

 

さらに―

 

  父よ、あなたの御名を栄化してください[あなたの御名に栄光を与えてください]、それで天から声が来た、わたしはそれを栄化しました、さらにそれを栄化しましょう。イエスは言われた、この声が来たのはわたしのためではなく、あなたたちのためである。しかしわたしが地から上げられるとき、凡ての者をわたしの後に引きよせよう(ヨハネ12・28、30、32)。

 

『栄化[栄光を与えること]』により、前に言ったように、結合が意味されており、そして主は御自身を父と結合させられたことにおいて御自身を人類と連結させることを顧慮されていたことは、『わたしは上げられるときは、わたしはすべての者をわたしの後に引きよせよう』という御言葉の中に明らかに言われているのである。

 

 

天界の秘義3212

 

「イサクはその母の後で慰められた」。これは新しい状態を意味していることは、『慰めを受けること』の意義から明白であり、それは新しい状態である、なぜなら慰安の状態は新しいからであり、それが前のものに続いて起ったことは『母の後に』により意味されている。この新しい状態は合理的なものの栄化の状態であり、前には善の方面の栄化の状態であったように、今は真理の方面の栄化の状態である。合理的なものがその両方のものの方面で神的なものになされたとき栄化されたのである。

 

 

天界の秘義3212[2]

 

 主は人間的なものの方面で新しくされたもうたことは、すなわち、栄化されたもうたことは(または、それと同一のことではあるが、神的なものになされたもうたことは)世的な形体的な愛の中にいる者はたれ一人到底考えつくことはできない(かくて信じることもできない)、なぜならかれは霊的なそして天的なものとは何であるかを全く知らないし、また実に知ろうとも欲しないからである。しかし世的な形体的な愛の中にいない者はこれを認めることができるのである、なぜならかれは主は父と一つであられ、主から聖いものがことごとく発出しており、従って主はその人間的なものの方面においてすら神的なものであられることを信じるのであり、そしてたれであれ信じる者はその者なりに認めるからである。

 

 

天界の秘義3212[3]

 

 主の栄化の状態は人間の再生の状態から或る程度考えることができよう、なぜなら人間の再生は主の栄化の映像であるからである(3043、3138番)。人間は再生しつつあると、そのときはかれは全く他の者になりつつあり、また新しくされつつあるのであり、それでまたかれは再生したときはかれは『再び生まれた』、『新につくられた』と呼ばれるのである。そのときかれは同じような顔と同じような言葉をもっていはいるものの、それでもその心は同じものではなく、その心は、かれが再生したときは天界に向って開かれ、その内には主への愛と隣人への仁慈が信仰とともに存在するのである。人間を他の人間にし、新しい人間にするものは心である。この状態の変化は人間の身体の内では認められることはできないが、その霊の中に認められるのであり、その身体はたんにその霊をおおているものにすぎないのであり、それが脱ぎ去られると、そのときはその霊が現れ、しかもそれは(もしその人間が再生さえしているなら)全然他の形をとって現れるのである、なぜならそのときそれは表現を絶した美しさをもった愛と仁慈との形をとっており(553番)、同じくまた表現を絶した醜悪と残酷との形であったその以前の形にとって代っているのである。このことは再生した人物のいかようなものであるかを、または再び生まれ、あるいは新につくられた者のいかようなものであるかを、すなわち、かれは全然他の者であり、新しい人間であることを示しているのである。

 

 

天界の秘義3212[5]

 

 この映像から主の栄化のいかようなものであるかを或る程度考えることができよう。主は人間が再生するようには再生したまわないで、神的なものになられたのであり、しかもそれは神的愛それ自身から発したのである。なぜなら主は神的愛それ自身になされたもうたからである。そのとき主の御形はいかようなものであったかは、ペテロ、ヤコブ、ヨハネが主を肉眼ではなく、霊眼で見ることを許されたとき、かれらに明らかにされたのである、すなわち、その御顔は陽のように輝いたのであり(マタイ17・2)、これは主の神的な人間的なものであったことはそのとき雲の中から聞こえてきた言葉、『これはわたしの愛する子である』から明白である(5節)。『子[息子]』は神的な人間的なものであることは、前に見ることができよう(2628番)。

 

 

天界の秘義3318[5]

 

 しかし主については―主は最高の意義においてここにとり扱われておられるが―主はその最も痛ましい試練の争闘によって御自身の中の凡ゆるものを神的秩序[神の秩序]に帰せしめられ、かくて主が母から取得された人間的なものは何一つ些かも残らなくなったのであり(1444、1573、2159、2574、2649、3036番)、それで主は他の人間のように新しくされたもうたのではなくて、全く神的なものになされたもうたのである。なぜなら再生により新しくされた人間は依然その者自身の中に悪への傾向を、否、悪そのものをすら保有しているが、しかし主の愛の生命の流入により悪から遠ざけられており、しかもそれは極めて偉大な力によって行われているが、これに反し主は母から御自身に遺伝した悪をことごとく徹底的に放逐され、御自身を、そのいくたの容器の方面においてすら、すなわち、幾多の真理の方面においてすら神的なものになされたからである。これが聖言の中に『栄化』と呼ばれているものである。