弟子
兄弟/
マタイ28・19−20
だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。
ヨハネ13・34−35
あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。
天界の秘義6756〔5〕
古代では教会に属した者たちが彼ら自身を「兄弟」と呼んだことは、前に言ったように、彼らは主をただ一人の父として承認したためであり、また主から彼らは新しい霊魂と新しい生命を得たためであった。それで主は言われている―
あなたらはラビと呼ばれてはならない。あなたらの師は一人であり、実にキリストであり、あなたらはすべて兄弟であるからである(マタイ23・8)。
霊的に兄弟であることは愛から発しており、即ち、一人が他の者となろうとする愛から発しており、善の中にいる者たちは『主の中におり、主はその者たちの中におられる』ため(ヨハネ14・20)、彼らは主から『兄弟たち』と呼ばれているのである―
イエスはその御手を弟子たちの方へ伸べられて、言われた、見なさい、わたしの母とわたしの兄弟たちを、たれでも天におられるわたしの父の意志を為す者はことごとく、わたしの兄弟、姉妹、母であります(マタイ12・49、50)。
あなたらはこのわたしの兄弟たちの中で最も小さい者の一人にそれを為した限り、それをわたしに為したのである(マタイ25・40)。
そして主はまたその弟子たちを『兄弟』と呼ばれているのである(マタイ28・10、ヨハネ20・17)。『弟子』によりその表象的な意義では信仰の諸真理と愛の善の中にいる者が凡て意味されているのである。
啓示による黙示録解説79
主の弟子たちにより主から教義の善と真理を教えられる者たちが意味されているが、しかし使徒たちにより、教えられた後で、それらを教える者たちが意味されている、なぜなら以下のように言われているからである―
イエスは神の国を宣べ伝えるためにその十二人の弟子たちをつかわされた、そしてその使徒たちは、帰ってくると、そのお行ったことを凡てかれに告げた(ルカ9・1、2、10、マルコ6・7、30)。