仏教

 

 

主の慈悲

 

 

 

1.阿弥陀仏

2.弥陀の本願

3.念仏

4.往相回向、還相回向(おうそうえこう、げんそうえこう)

5.小乗仏教(サンダー・シング)

6.サンダー・シング

 

 

 

 

1.阿弥陀仏

 

 

天界の秘義2011

 

無限の神的なものは、善それ自身と真理それ自身であるとのみしか語られることはできないからであり、それで人間が主は善それ自身と真理それ自身であると考えるときは、何ら迷妄に陥っているのではないのである。

 

 

 

 

2.弥陀の本願

 

 

天界の秘義2253

 

「あなたはその所を破壊して、その間中にいる五十人のために、それを赦されはしませんか」。 これは愛から執成されたことを―彼らは滅んではならないと執成されたことを―意味していることは『五十』の、『義しい』の、同じくまた『その真中』の、すなわち、都の真中の意義から明白であり(それについては直ぐ前の2252番を参照されたい)、その事柄のすべては愛から執成されたことを、彼らが滅んではならないことを意味している。(執成しについては、前の2250番を参照)。それが愛から発していたこともまた明らかである。主にあっては、主が世におられたときは、全人類に対する愛の生命以外の生命はなかったのであり、主は全人類を永遠に救おうと激しく望まれたのである。これは天的な生命そのものであり、その生命により主は御自身を神的なものに、神的なものを御自身に結合されたのである―なぜならエッセ〔存在〕それ自身は、またはエホバは全人類に対する愛そのものである慈悲以外の何ものでもないからである―そしてその生命は純粋な愛の生命であって、それはいかような人間にも可能ではない。生命とは何であるかを、また生命は愛と同一であることを知らない者はこのことを把握はしない。このことは人間がその隣人を愛する度に応じて、主の生命にあずかる[主の生命を受ける]ことを意味している

 

 

 

天界の秘義6495

 

なぜなら主は全人類を愛され、その各々の者を永遠に救おうと願われているからである。

 

 

 

 

3.念仏、 南無阿弥陀仏

 

 

詩篇63・7

 

床に就くときにも 御名を唱え あなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします。

 

 

 

キリストにならいて/3・34・1

 

「私の神、私のすべてよ!」 この言葉の意味がわかっている人にとっては、こういうだけで十分でありまして、神を愛する者にとっては、これをしばしばくり返すことは喜びであります。

 

 

 

 

4.往相回向、還相回向(おうそうえこう、げんそうえこう)

 

 

FOR BEGINNERS 歎異抄/遠藤誠/現代書館

 

 念仏を唱えることによって死んだ先、浄土に生まれることを往相回向と言い、浄土で仏になってから、その力でこの世の衆生を助けに戻って来ることを還相回向と言っています。(合わせて往還回向)

 

 

 

『サンダー・シングの生涯と思想』より

 

おお青年よ、目を覚まして見よ、如何に多くの霊魂が日々君の周囲に於いて滅びつつあるかを。彼らを救う事は君の責任ではないか。キリストの勇敢な精兵となれ。すべての武具をまとって前進し、サタンの業を打ち破れ、勝利は君のものとなるであろう。

 

神を賛美せよ、主は君に自ら救われて人を救うべき機会を与え給うた。もし君が今不注意であるならば他の機会は決して得られないであろう。何事であろうとも為すべき業は直ちに為せ。君はこの戦場を再び通過することが無いからだ。

 

キリストの為に人の霊を救おうとして、健康、富、生命を捧げた後、殉教者が栄光の中に活きるのを見るときは速やかに近づきつつある。彼らは多くの事を成し遂げた。君は何を成し遂げたか?おお、その日に於いて我々は恥じて顔を赤らめることのないようにしよう。

 

 

 

スウェーデンボルグ/新エルサレムの教義186

 

 再生しつつある人間には二つの状態があり、第一の状態は、彼が真理より善へ導かれる時であり、第二の状態は彼が善により行動し、善から真理を見る時である。(7992,7993、・・・・)

ここから人間は再生しつつあるときは真理から善を目指しているが、しかし再生したときは、善から真理を顧慮することが生まれている(6247)。それで人間の状態が転倒するため、いわばひっくり返るということが起きる(6507)。

 

 

 

 

5.小乗仏教(サンダー・シング)

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P405

 

仏教は真の意味では宗教とはいえない。すべての宗教の基礎、生命である神について何一つ触れてはいないからである。仏教は道徳と不可知論の結合したもので、ある程度までヒンドゥー教の影響を受けている。輪廻、因果応報、形を変えた救済と涅槃(ニルバーナ)の教義が認められるのも、このためである。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P407

 

インドの宗教的な性格と土壌に影響されていなかったならば、仏陀は物質主義的哲学者になっていただろう。だが、周囲の宗教に感化されたために倫理的教師となり得たのである。彼は聡明な頭の持ち主であったが、純真な思いによって神の存在を理解するということがなかった。神そのものを認めることも、人々に神を説くこともなかった。しかし、彼は内的性質と良心を治める神の法則によって、倫理的教えを説くよう動かされたのである。

 

自分自身の知恵によって人生の諸問題すべてを解決しようと思い、様々な策を巡らした他の隠遁者がみな失敗したように、仏陀もまた、わずかな哲学的、倫理的発想を除き、苦行と瞑想からはほとんど光が得られなかった。そこで、真理を追求する者は、人間の作り出した決まりによってではなく、神そのものに対して心を謙虚に開く必要がある。人は祈りを通してのみ神を見出し、自己の霊性の深きにある願いを満たすことができるからである。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P407

 

仏教では自然法則そのものが神の位置を占めていて、神的人格といったものは存在していない。そこで、仏教徒は祈ることもしないし、祈りの意味についても、その恩恵についても知らずにいる。シカゴ宗教者会議で代表を務めた有名な仏教徒はこう述べた。

「仏教は神も神々も拝まず、外に援助を求めない。祈りは無益である。求められるのは努力だけである。祈りに費やす時間はない」

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P408

 

ここで、疑問が起こる。仏教の中に神もなければ来世への希望もないのなら、これほどまで隆盛を極めるに至った理由はどこにあるのか。答えは次のようになろう。

 

(a)人々は王国と富を捨て去った仏陀の喜捨の精神に動かされたのである。カシミールのタキラにいたプリサティ王の例がある。彼は仏陀と会ったことがなかったが、ビムビサーラ王から彼についての話をきき、感動のあまり自らも王国を捨てて比丘になった。

 

(b)当時の人々の多くは、それ以上の哲学をもたなかったため、仏教の否定説に安らぎを見出し、信奉者となった。

 

(c)カースト制、偶像崇拝、バラモン僧の高慢を攻撃した仏陀の教えが、民衆、特にバラモン階級の横暴から自由になりたいと望んでいた人々を引き寄せた。

 

(d)強力なアショーカ王が国内に仏教を広め、そのことで大成功した。

 

とはいえ、こうしたことすべてをもってしても、仏教の不可知論はいつまでもインド人の宗教的本性をとらえ続けることはできなかった。その勢いは確実に衰え続け、生誕地においては仏陀の人格を敬う少数の人々を除き、生きた宗教としては存在しなくなっている。

 

 

 

 

6.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P167

 

神にせよその他の力にせよ、何かを崇拝せずにいる人間はほとんど皆無に等しい。物質主義に染まった無神論的思想家や科学者でさえ、かりに神を崇拝しないとしても、権力の座に祀り上げた偉人や英雄、何かの理念を崇拝しているものである。釈迦は神について何一つ教えなかったため、弟子たちは神の代わりに釈迦を崇拝するようになった。中国でも、神の礼拝が教えられなかったために、人々は祖霊を崇拝している。未開人さえ、何かの力か霊かを拝んでいる。つまり、人間というものは崇拝せずにはいられないのである。このような逃れることのできない崇拝への願いは、人がその願いに導かれて創造主と結ばれ、永遠の交わりを楽しめるよう、創造主自らが人間の中にお植えになったものである。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P295

 

―釈迦とその教えについてはどう思われますか?

「釈迦は神秘家ではなく、倫理的教師である。彼の教えの中には神について一言もないからである。これには驚かされる。彼はニルヴァーナ(涅槃)、つまり欲求の止滅を説いたが、救いは欲求の止滅にあるのではなく、欲求を満たすことにある。渇きを扱う正しい方法は、それを殺すことではない―それは死を意味する―満たすことである」

 

「わたしは、ヒンドゥー教の修行僧にこのように声をかける。『あなたは自分を苦しめたいがためにサードゥーになった。わたしは、奉仕するためにサードゥーになった。わたしは人から苦しめられることはあっても、自分を苦しめたりはしない』。インド人は、神の満ち足りを発見する前に世を捨て、自分を否定する。彼らは、自己否定のために自己否定をするが、それは平和を見出したからではなく平和を勝ち得たいがためである」

 

「ヨーガ行は、わたしにはあまり役立たなかった。ある程度まで助けになったにすぎない。その助けも霊的なものではなかったので、自分には無用なものとなった。イエスが、精神集中を実修せよとも、霊的修行をせよともいわれなかったのには、いつも驚かされていた」

 

「自分がヒンドゥー教徒だった頃は、毎日、瞑想に何時間も費やした。それは、自分の霊的能力を育てる助けをしたかもしれないが、霊的実在を理解することはなかった。ある種の観想の意味するものは知ったが、祈りの経験がなかった。この両方を実践したときに、神自らがご出現になったのである。長い期間瞑想に費やしても平和は得られなかった。祈り始めたときのみ、神の臨在を感じたのである。イエスに捧げられるただ一つの祈りは、どのような瞑想にも勝ってわたしを助けた。

 少し前に、わたしは瞑想についてラビンドラナート・タゴールと話をしていた。瞑想を通して多くのことを学べるが、霊的事柄を理解するにはそれ以上のことが必要である、とわたしは話した。キリスト教において、わたしはごく単純な方法―祈りーを知った。それは、どんなときにも通れる道、もっとも単純な道である。祈りを通して、わたしたちは神を知るようになる。祈りは、瞑想中に受けたものの中から、真実のものと無用なものとをふるい分ける。それは、真の祈りの中で、神が魂の最奥部、もっとも敏感な部分―良心―を照らし出してくださるからである」