新しい布切れ・新しいぶどう酒
マルコ2・21−22
だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない(ルカ5・36)/
1.聖書
2.スウェーデンボルグ
3.マリア・ワルトルタ
1.聖書
マタイ9・16−17
だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。
マルコ2・21−22
だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。
ルカ5・36−39
そして、イエスはたとえを話された。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。
新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」
2.スウェーデンボルグ
天界の秘義9212[7]
ルカ伝には―
(ルカ5・36)
主は新しい教会の真理と古い教会の真理とを示すためにこの比喩を用いられたのである、なぜなら『上着』は真理を意味するからである。一方を他方に『縫いつけること』または『つけること』は両方を破壊することを意味している、なぜなら新しい教会の真理は内的な真理であり、かくて内なる人のための真理であるが、しかし古い教会の真理は外的な真理であり、かくて外なる人のためのものであるからである。この後の真理の中にユダヤ教会がいたのである、なぜならこの教会は外なる人のものであるからである。この後の真理の中にユダヤ教会がいたのである。なぜなら主はこれらの真理を啓示されたからである。これらの真理は外なる真理と一致してそれと共になりはしないことが主の右の御言葉により示されているのである。このことからもまた『上着』が教会の真理を意味していることが明白である。
以下の記事に主により話されている『ぶどう酒』も同じような意義をもっている―
(ルカ5・39)
この比喩は、聖言の他の凡てのもののように、相応から発しており、『古いぶどう酒』は古い、またはユダヤ教会の真理を意味しているように、『ぶどう酒』は真理を意味しており、『ぶどう酒の皮袋』は中に容れている物を意味し、『古いぶどう酒の皮袋』はユダヤ教会の法令と審判とを容れている物を意味し、『新しいぶどう酒の皮袋』は主の教令と誡命とを意味している。特に生贄と表象的な礼拝とに関係しているユダヤ教会の法令と審判とはキリスト教会の諸真理と一致していないことは『彼らは古いぶどう酒の皮袋には新しいぶどう酒を入れはしない、でないとぶどう酒の皮袋は張り裂け、ぶどう酒はこぼれてしまう、彼らは(新しい)ぶどう酒は新しいぶどう酒の皮袋に入れ、二つとも共に保つのである』により意味されている。ユダヤ教会の外なるものの中に生まれ、教えられている者たちは直ぐにはキリスト教会に属している内なるものの中に入れられることは出来ないことは『たれも古いぶどう酒を飲んで、新しいぶどう酒を求めはしない、彼は古いものは更に益がある、と言うからである』により意味されている。
真の基督教784
新しい教会が地上に建設されるに先立って新しい天界が作られねばならぬことは神的秩序に順応している。何故なら内なる教会と外なる教会とがあり、内なる教会は天界の教会と一をなし、従って天界と一を成し、而してこの世の教職者達によって知られている如く、内なるものは外なるものの前に作られ、その後外なるものが内なるものによって作られねばならないからである。
人間における教会の内なるものを形成するこの新しい天界が増大するに応じて、新しいエルサレム即ち新しい教会がその天界から降って来るのであり、それ故これは一瞬に生ずることは出来ない。前の教会の諸々の虚偽が先ず取り除かれなくてはならない。何故なら新しい真理は古い虚偽が根こそぎにされない中は入ることは出来ないからである。而してこれは先ず教職者の間に生じ、彼らを通して平信徒の間に生じなくてはならない。何故なら主は以下のように語り給うたからである、「誰も新しきぶどう酒を古き革袋に入れず、もし然せばその袋はりさけ、ぶどう酒ほとばしり出でん。新しきぶどう酒は新しき革袋に入れ、かくて二つながら保つなり」(マタイ9・17。マルコ2・22.ルカ5・37,38)。
これらの事柄は主の御言葉によって明白であるように、教会の終わりを意味する世の終わりまでは生ずることは出来ない。イエスは語り給うた「天国は良き種畑に播く人の如し。人々の限れる間に、仇来りて、麦の中に毒麦を播きて去りぬ。苗生え出でて実りたるとき、毒麦も現わる。僕ども来りて家主に言う、我らが往きて毒麦を抜き集むるを欲するかと。主人言う、否恐らくは毒麦を抜き集めんとて、麦をも共に抜かん。両ながら収穫まで育つに任せよ。収穫の時我かの者に、先ず毒麦を集めて、焚くためにこれを束ね、麦は集めて倉に入れよと言わん。収穫は世の終わりなり。されば毒麦の集められて火に焚かるる如く、世の終わりにも斯くあるべし」(マタイ13・24−30、39、40)。
本章の第1項に見られ得るように、ここの麦は新しい教会の真理と善を意味し、毒麦は前の教会の諸々の虚偽と悪を意味し、世の終わりは教会の終わりを意味する。
3.マリア・ワルトルタ
マリア・ヴァルトルタ159・5−7
洗者ヨハネの弟子たちが主と:
「その通りです。先生、もう一つ質問がございます。なぜ、ヨハネの弟子たちは大断食をし、あなたの弟子たちはそれをしないのですか?わたしたちは、あなたに食べてはならないと言っているのではありません。預言者ダニエルもバビロンの宮廷の大物でありながら、神の目に聖なる人でした。あなたは彼に勝るお方です。でも彼らは・・・」。
「多くの場合、厳格主義で獲得しないことは、誠意、心の暖かさで獲得されるものです。先生のもとには決して来ないであろう人たちがいます、そこで先生が彼らのもとへ行かねばなりません。他の或人たちは、先生のもとに行きたいのですが、群衆に混じってそこに行くのが恥ずかしい。こういう人たちの所にも先生は行かねばなりません。『あなたたちとお知り合いになりたいので、どうかわたし共の客人になってください』と言われるものだから、宴の贅沢な御馳走の楽しみではなく、また、時としてわたしにはかくも重荷となる説教の喜びでもなく、常に専ら、神の利益を後生大事にして、わたしは行くことにしています。これがわたしのやり方です。そして、このようにしてわたしが近付く霊魂たちのうちしばしば少なくとも一人は改心し、また、どの改心もわたしの霊魂にとって婚姻の宴、天の全天使と分かち合う大祝祭、永遠の神が祝福される大祝祭ですから、こうして、わたしの弟子たち、わたし−花婿の友らは、花婿、友と共に歓喜するのです。わたしが歓喜するさ中に、苦しみ嘆く友人たちを、あなたたちは見たいのですか? わたしが彼らと共にいるというのに? しかし、彼らがもう二度とわたしを見なくなる時が来るでしょう。その時、彼らは大断食をするでしょう。新しい時代には、新しい方法で。洗礼者にとっては、昨日まではそれは悔い改めの灰でした。きょう、わたしのきょうでは、それは贖罪の、憐れみの、愛の甘美なマンナです。あの方法をわたしの方法に移植することはできないでしょう。昨日のためにだけ使用された方法が、わたしの方法になりえないように。なぜなら憐れみは地球上にまだ無かったからです。今はあります。最早、あの預言者ヨハネではなく、神によって一切が委ねられたメシアは、地球上にいます。それぞれの時期にそれに役立つ物を。新しい布切れを古い服に縫い合わせる者はいません。そうでないなら特にそれを洗うと、新しい布切れは、縮んで古い布地を破り、この綻びはもっと大きくなります。同様に、誰も新しい葡萄酒を古い皮袋には入れません。そうでないなら、葡萄酒は、新しい葡萄酒の泡立ちに耐えられない皮袋を破り、新しい葡萄酒が破裂させた皮袋から外に流れ出ます。したがって、すでにその変化を終えた古い葡萄酒は古い皮袋に入れられるのです。一つの力は別の同じ力と渡り合うべきだからです。今がそうなのです。新しい教えの力は、その教えを広めるために新しい方法を勧めます。そしてわたしこそそれを知り、使うのです」。
「主よ、ありがとうございます。今、わたしたちは大いに満足しています。わたしたちのためにお祈りください。わたしたちは古い皮袋です。わたしたちはあなたの力を収納できるでしょうか?」
「はい。洗礼者はあなたたちを仕込んでいますし、彼の祈りはわたしの祈りと合わせて、あなたたちを有能な人にしました。わたしの平安とともに行きなさい。そして、わたしが彼を祝福していることを、ヨハネに伝えなさい」。
「しかし・・・あなたのお考えでは、わたしたちは洗礼者と共にいる方がいいのか、それともあなたと共にいる方がいいのでしょうか?」
「古い葡萄酒がある間は、最早その味が舌に馴染んでいる葡萄酒を飲みなさい。その後・・・それが腐った水に変わり、どこにでも悪臭を撒き散らすようになったら、あなたたちは新しい葡萄酒を愛でるようになるでしょう」。
「洗礼者はその業を再開するでしょうか?」
「もちろんです。わたしはもう彼に或知らせを送りました。行きなさい、行きなさい。あなたたちにそれができるうちに、あなたたちのヨハネを享受し、彼を幸せにしてやりなさい。その後で、あなたたちはわたしを愛するでしょう。またあなたたちは行き悩むでしょう。なぜなら・・・古い葡萄酒に引っかかった者で、ある日突然、新しい葡萄酒を欲しがる人はいないからでもあります。そして言うのです。『古い葡萄酒はもっと旨かった』と。またわたしは実際に、あなたたちには酸っぱく思われるに違いない特別の味をもつでしょう。しかしあなたたちは、一日々々、この命の味を味わうことになるでしょう。友人たちよ、さようなら。神はあなたたちと共に」。