新しい教会
ヘト人/
天界の秘義2915
「わたしはあなたがたのもとに宿る者であり、また、住む者であります」。これは、主は彼らに知られていなかったけれど、それでも主は彼らのもとにいたもうことが出来たという、彼らの最初の状態を意味していることは以下から明白である、すなわち、アブラハムの表象は主であり(このことは再三前に示したところである)、『彼らのもとに宿る者』であり、『彼らのもとに住む者』であることの意義は、彼らには知られてはいないが、それでも彼らとともにいることである。これが内意であることは前後の記事から明らかである、なぜならここには新しい教会がとり扱われていて、この節にはその最初の状態がとり扱われており、その最初の状態は、先ず主は彼らには知られてはいないものの、それでも彼らは仁慈の善に生き、公民としての生活の方面では公正な、また公平なものであるものに生き、道徳的な生活の方面では尊い、適正なものの中に生きているため、彼らは主がそのもとにおられることが出来るといったものであるというような状態である、なぜなら人間のもとに主が現存されるのは善の中に現存されるのであり、それで公正なものであるものの中に現存されるのであり、さらに尊い、適正なものの中に現存されるからである(尊いものは凡ゆる道徳的な徳の総合体であり、適正なものはたんにその形にすぎないのである)、なぜならこれらは秩序をとって継続している諸善であり、またその上に主によって良心が基礎づけられ、従って理知と知恵とが基礎づけられるところの人間における面であるからである。しかしこれらの善の中にいない者らのもとでは(すなわち心情または情愛からその善の中にいない者らのもとでは)天界のものは何一つ播種されることはできないのである、なぜなら面または土地は存在しておらず、天界のものは何一つ播種されることはできないため、主もまたそこに現存されることは出来ないからである。主の現存は善に従って、すなわち、善の性質に従って述べられるのであり、善の性質は無垢の、愛の、また仁慈の状態に従っており、その状態の中に信仰の諸真理が植えつけられており、または植えつけられることが出来るのである。