モアブ

 

 

 

天界の秘義7197

 

『宿ること』の意義は教えられることと生活である(1463、2025、3672番)。このことから『彼らが宿ったその宿りの地』により、信仰と仁慈との事柄が―その事柄について彼らは教えられ、またその事柄に従って彼らは生きたのであるが、そうした事柄が―存在した所、が意味されていることが明白である。この間の実情は以下の如くである。他生では天界は各々の者にその者の中にある信仰と仁慈との事柄に順応して与えられているのである、なぜなら仁慈と信仰とが各々の者のもとに天界を作るからである、しかし仁慈と信仰とが天界を作ると言われる時は、仁慈と信仰との生命〔生活〕が意味されているのである。しかし天界をその中に抱いている生命〔生活〕はその人間が教えられている信仰の幾多の真理と幾多の善とに従った生命〔生活〕であることに注意されたい。そうした者が彼の生命〔生活〕の規定となり、原理となっていない限り、彼はいかような生活を送ろうとも、天界を徒に探し求めるのみである。なぜならこうした真理と善とが無い限り、人間は風の吹くままに揺らぐ葦のようなものとなるからである、なぜなら彼は善と同じく悪によっても動かされるからである、それは、彼の中には真理と善とは何一つ確立されてはいないためであり、真理と善により彼は天使たちにより諸真理と諸善との中に留め置かれ、奈落の者らが絶えず注ぎ入れる誤謬と悪とから引き出されることが出来るのである。約言すると、基督教の善の生命〔生活〕が天界を作るものであって、それは自然的な生命ではないのである。

 

 

天界の秘義7313

 

ここの『荒野』はこうした明確でないものを意味していることは、イスラエルの子孫により表象されているところの、霊的な教会に属している者たちは、全般的には、信仰の諸真理については明確ではないのであり(2715、2716、2718、2831、2849、2935、2937、3833、4402、6289、6500、6865、6945、7233番)、それは特に彼らが取りつかれて悩まされ、試みられている状態から抜け出てくるときはそのことについては明確ではないためである。なぜなら取りつかれて悩まされている者たちは誤謬に取り囲まれて、風に吹かれる葦のようにも揺り動かされ、かくて疑惑から肯定的なものへ、肯定的なものから疑惑へと揺り動かされ、そのためこうした状態から新たに昇って来る時は、明確でない状態の中にいるが、しかしこの明確でない状態もその後徐々に明るくされるのである。取りつかれて悩まされつつある者たちにはこうした状態があるため、そのでイスラエルの子孫は、主が来られる前に霊的な教会の者たちが置かれていたそうした状態を表象するために、またその教会に属している者たちが現在その中に置かれていて、誤謬を剥奪されつつある状態を表象するために、その荒野へ連れて来られたのである。