モアブ

 

天界の秘義2468

 

 更に、これらの事柄を確認する必要はない、なぜならこのような事柄が意味されていることは解説そのものから明白であり、また前後の記事からも明白であるからである。しかし『モアブ』と『アンモンの息子たち〔子孫〕』により意味されている宗教の性質がいかようなものであるかは、ここに記されているように、それらの起源から認めることが出来、また同じく、これらの国民を記しているところの、聖言の多くの記事から、即ちその歴史的なものからも、予言的なものからも認めることが出来よう。全般的に言って、それらは或る程度は〔或る意味では〕聖いようにも見える外なる礼拝の中にはいるが、内なる礼拝の中にはいないで、外なる礼拝に属している事柄を善であり、真理であるとして容易に学びはするが、内なる礼拝のものを斥けて、軽蔑してしまう者らを意味している。

 

 

天界の秘義2468〔2〕

 

 このような礼拝とこのような宗教は自然的な善の中にはいるが、自分自身に比較して他の者を軽蔑する者の運命となるのである、彼らは外なる形では美しくなくはないが、内はかび臭くて、腐っている果実に似ていなくはなく、また彼らは内には不潔な汚れてさえいるものが入っている大理石の花瓶に似ていなくはなく、または顔や形や作法では極めて美しいが、内では病んでいて、不潔なもので満ちている女に似ていなくはないのである。なぜならこのようなものには、醜くは見えない全般的な善が属しているが、しかしその全般的な善の中に入ってくるものは汚れているからである。それは始めは実際はそのようなものではないが、しかし徐々にそのようなものになるのである、なぜならこうした人間は自分自身が何であれ善いものと呼ばれているものに、また何であれそのものから派生してくる誤謬にも容易に浸透されるのに甘んじて、それを、それが彼らを確認させるために、真理であると想像するからであるが、こうしたことは彼らが自己愛の中にいるという理由から、彼らが礼拝の内的なものを蔑視しているためである。このような人物は(本章にロトにより表象されているところの)外なる礼拝のみの中にいる者らからその存在と派生とを得ているが、しかもこのことは真理の善が荒れすさんでしまった時起るのである。彼らは彼らがその善が未だそれほど汚れていない初めの項あるがままに、後にその善が汚されつつある時にあるがままに、またその後で、それが全く汚されてしまった時にあるがままに聖言に記されているのであって、彼らは礼拝と教義の内的なものを斥けることが示されているのである。

 

 

 

天界の秘義8315

 

「モアブの力強い者」。これはこの愛から誤謬の生命〔生活〕の中にいる者らを意味していることは以下から明白である、即ち、『力強い者』の意義は、支配し、優勢となっている事柄であり、モアブの表象は自然的な善の中にはいるが、容易に他から迷わされるままになる者らであり(2468番を参照)、かくて、その結果、誤謬の生命の中にいる者らである、なぜなら自然的な善の中にはいるが、信仰の真理から発した善の中にはおらず、かくて霊的な善の中にはいない者らは、迷わされるままになって、何であれ、いかような誤謬も信じ、それに従って生きるからである。彼らは、特に己が愛に組するものにより、真理から誤謬へ迷わされるのである。これらが『モアブ』により意味されている者らである。(自然的な善の中にはいるが、霊的な善の中にはいない者らは、天界からの流入によっては到底導かれることは出来ないことについては、3470、3471、3518、4988、4992、5032、6208、7197、8002番を参照)。原語では、悪から誤謬の中にいる者らについて述べられ、エゼキエル31・11、列王記下24・15のこの語はその後の意味されているで用いられているのである。