荒野

 

荒野の女性

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.聖母から司祭へ

4.ヴァッスーラ

 

 

 

1.聖書

 

 

創世記21・20

 

神がその子と共におられたので、その子は成長し、荒れ野に住んで弓を射る者となった。

 

 

 

イザヤ35・1

 

荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ

砂漠よ、喜び、花を咲かせよ

野ばらの花を一面に咲かせよ。

 

 

 

イザヤ35・5−6

 

そのとき、見えない人の目が開き

聞こえない人の耳が開く。
そのとき

歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。

口の利けなかった人が喜び歌う。

荒れ野に水が湧きいで

荒れ地に川が流れる。

 

 

 

イザヤ40・3−5

 

呼びかける声がある。

主のために、荒れ野に道を備え

わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。

谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。

険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。

主の栄光がこうして現れるのを

肉なる者は共に見る。

 

 

 

マタイ3・1−3

 

そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。

これは預言者イザヤによってこう言われている人である。

「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」

 

 

 

黙示録12・6

 

女は荒れ野へ逃げ込んだ。そこには、この女が千二百六十日の間養われるように、神の用意された場所があった。

 

 

 

黙示録12・14

 

しかし、女には大きな鷲の翼が二つ与えられた。荒れ野にある自分の場所へ飛んで行くためである。女はここで、蛇から逃れて、一年、その後二年、またその後半年の間、養われることになっていた。

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義1927

 

「荒地の水の泉のそばに」(創世記16・7)。これはまだ生命に到達してはいなかった自然的な真理を意味していることは、『水の泉』の意義が真理であることから、また『荒地』の意義がまだ生命力を僅少しか持っていないものであることから明白である。ルカ伝のこの言葉の内意における意義もまたこれであり、そこんいは主が以下のように取扱われ給うている―

 

その子供(ヨハネ)は成長して、霊において強くなった、彼はイスラエルに現れる日まで荒地にいた(ルカ1・80)。

 

『水の泉』と『荒地』とがこれらの事柄を意味していることは聖言からとった極めて多くの記事により確認することが出来ようが、しかし以下の記事には『泉』のことがまた『荒野』のことが再三記されていて、そこでもその意義はここと同一のものであるため、主の神的慈悲の下にその証明はそこに与えられるであろう。真理がまだ生命に達していなかったということはいかようなことであるかは、間もなく言われることになっていることから明白になるであろう。

 

 

 

天界の秘義2708

 

「彼は荒野に住んだ」。これは、相対的に明確でないものの中に、を意味していることは以下から明白である。すなわち、住むことの意義は生きることであり(2451番)、『荒野』の意義はわずかな生命力しか持たないものであり(1927番参照)、ここでは明確なものでないものであるが、しかしそれは相対的なものである。しかし相対的に明確でないものにより天的教会の状態に対照された際の霊的な者たちの状態が意味されているのである。天的な者たちは善の情愛の中におり、霊的な者たちは真理の情愛の中におり、天的な者たちは認識を持っているが、しかし霊的な者たちは良心の指示を持っており、天的な者たちには主は太陽として現れておられるが、しかし霊的な者たちには月として現われておられるのである(1521、1530、1531、2495番)。前の者は主から光を得ているが、しかしそれは太陽から発した日中の光のように、善と真理とを見させもし、認識させもしているのである。しかし後の者は月から発した夜のような光を主から得ており、かくて彼らは相対的に明確でない状態の中にいるのである。その理由は、天的な者たちは主に対する愛の中におり、かくして主の生命そのものの中にいるが、しかし霊的な者は隣人に対する仁慈と信仰の中におり、かくて実に主の生命の中にはいるが、しかしそれはさらに明確でない状態においてその中にいるのである。かくて天的な者たちは信仰とその諸真理については決して論じないで、善から真理を認識しているため、それは然うであると言っているに反し、霊的な者は真理から善の良心の中にいるため、信仰の諸真理について語り、論じるのであり、また天的な者たちにあっては愛の善はその意志の部分に植えつけられていて、その意志の部分の中に人間の主要な生命が存在しているが、霊的な者にあってはその知的な部分に愛の善が植えつけられていて、その知的な部分の中に人間の第二次的な生命が存在しているためであり、このことが霊的な者が相対的に明確でないものの中にいる理由である(81、202、337、765、784、895、1114−1125、1155、1577、1824、2048、2088、2227、2454、2507番)。

 

 

 

天界の秘義2708[5]

 

『荒野』は人が全く住んでいない。または開発されていないものを、または住居も、羊のおりも、草地も、水もない所を意味し、かくて善の方面では剥奪されており、真理の方面では荒廃している者たち[善を剥奪され、真理は荒廃している者たち]を意味していることもまた聖言から明白である。こうした種類の『荒野』は二重の意義で述べられており、すなわち、後になり改良される者について、また改良されることができない者について述べられているのである。

 

 

 

天界の秘義2708[6]

 

 エホバの分はその民であり、ヤコブはその嗣業のなわ[ひも]である。エホバは彼を砂漠の地の中に、荒れ果てた吠える荒野の中に見つけられた。かれは彼を導きまわられて、悟らせられ、彼をその目の瞳のように守られた(申命記32・9、10)。

 

 

 

天界の秘義2708[6]

 

『荒野』の中をイスラエルの民が旅をし、またさまよったことは再生以前の信者の剥奪と荒廃以外には何ごとをも表象しなかったのであり、従って信者たちが霊的な試練の中におかれたとき実際剥奪と荒廃の中におかれるなら、その信者たちの試練を表象したのである。このことはまたモーセの書の以下の記事から認めることができよう―

 

 エホバは人間がその息子[子]を生むように、荒野の中で、その途で、彼らを生み給うて、この所にすら至り給うた(申命記1・31)。

 

また他の所には―

 

 あなたは、あなたの神エホバがこの四十年の間荒野の中であなたを導かれて、あなたを悩まし、あなたを試み、あなたの心の中に在ることを知り、あなたが、その御戒めを守ろうとするか否かを知られた凡ての道を憶えなくてはならない。かれはあなたを悩まし、あなたを飢えるままに棄ておかれ、あなたにあなたの知らない、またあなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それはあなたが人間はパンのみで生きるのでなく、エホバの御口から発する凡てのものにより生きることを知るためであった(申命記8・2、3)。

 

さらに同書には―

 

 (それは)あなたが以下のことを忘れないためである、すなわち、エホバはあなたを蛇、火の蛇、さそりのいる大いなる、恐ろしい荒野の中に、水のない渇いた地の中に導かれ、火打ち石のような岩からあなたのために水を流れ出させたもうた、かれはあなたの父祖たちの知らなかったマナであなたを養われた。それはかれがあなたを悩まし、試み、あなたにあなたの後の終りに善いことをなされるためであった(申命記8・15、16)。

 

 

ここでは『荒野』は試練の中におかれている者がその中へ陥ってしまうような剥奪と荒廃を意味している。彼らが四十年の間荒野を旅し、さまようことにより、戦う教会のあらゆる状態が記されているのである。ヨハネの書における『荒野』に逃れた女により教会の試練以外には何ごとも意味されてはいないのであって、それは以下のように記されている―

 

 息子を、男の子供を生んだその女は荒野へ逃れた―そこに彼女は神から備えられた所をもっている―彼女はその荒野へ、彼女の場所へ逃れるために、大きな鷲の二つの翼を与えられた。蛇はその女の後から水を洪水のように口から吐き出して、彼女をその洪水により流れ去らせようとした。しかし地はその女を助けた、なぜなら地はその口を開いて、その竜がその口から吐き出した洪水を飲み込んでしまったからである(黙示録12・6、14−16)。

 

 

 

天界の秘義2708[6]

 

『荒野』は全く剥奪されてしまった教会について、また善と真理との方面で全く剥奪されてしまって改良されることができない者たちについても述べられることは、イザヤ書に以下のように示されている―

 

 わたしはその川を荒野とする。その魚は水がないために臭くなり[悪臭を発し]渇きのために死んでしまう。わたしは天に暗闇を着せる(イザヤ50・2、3)

 

 

 

天界の秘義6828

 

『荒野』の意義は試練の状態である。なぜなら『荒野』は殆ど住む人も無く、耕されてもいないものを、また全然住む人が無く、耕されてもいないものを意味し、かくて霊的な意義では善を剥奪され、真理が荒廃している人間を意味し、従って試練を受けている人間を意味しているからである、なぜなら試練を受けている人間は剥奪され、荒廃した状態に置かれるからである。それは彼の中に誤謬と悪とが発生してきて、主から流入してくる真理と善とを暗くし、それを殆ど取り去ってしまい、そのため流れ入ってくる真理は、誤謬と悪とを消散するには充分な力を持っているようには彼には見えないためである。更にその時悪霊がその場に現れてきて、悲哀を注ぎ出し、また救いに対する絶望を注ぎ出すのである。『荒野』はこうした状態を意味していることは聖言の非常に多くの記事から明白であり(2708番を参照)、『荒野』は試練の状態を意味し、『四十』の数は、その継続期間を、―それがどれほど長かろうが、短かろうが―意味したため(730、862、2272、2273番)、それでイスラエルの子孫は四十年荒野におり、またそのため主は試練を受けられた時、四十日間荒野におられたのである(マタイ4・2、マルコ1・13)。

 

 

 

天界の秘義6988

 

無知のために信仰については何らの知識を持っていない状態。

 

「言葉を発する」によりここでは声の発言が、または言葉を話すことが意味されてはおらず―なぜならその発言は、自然的なものであるからである―主を告白し、主に対する信仰を告白することが意味されているのである。なぜならこの発言は霊的なものであるからである。ここから「口の利けない」によりその内意に意味されていることが明白であり、即ち、無知のために、主を告白することができず、かくて主に対する信仰を表明することのできない者たちが意味されており、そうした状態に教会の外側の諸国民がおり、また教会内の単純な者たちがいるのである。こうした者が「口の利けない」により意味されていることはイザヤ書に明らかである―

「そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで荒れ地に川が流れる」(イザヤ35・6)

「口が利けなかった者が歌うだろう」は、かれらは主を告白し、主に対する信仰にぞくしたものを告白するであろう、を意味し、「荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる」は、彼らが真理と善について幾多の知識を得ることを意味し、「荒れ野」は無知のために信仰については何らの知識も持っていない状態である。

主に癒された口の聞けない者により、また、主が世に来られたことにより誤謬とそこから派生した悪から救い出された諸民族が意味されているのである。

 

 

 

天界の秘義7055

 

しかし善から真理を認識している者たちを除いては何人のもとにもそれらは連結していないのである、なぜならそのもとに直接的な神的な流入が間接的なものと連結している者たちは自らが主により導かれるに耐えはするが、しかしそのもとにこれらの流入が連結していない者らは自分自身を導き、しかもそのことを愛しているからである。この凡てから今や『荒野』によりここに意味されていることを、即ち、それは連結していないところを意味していることを認めることが出来よう。

 

 

 

天界の秘義7313

 

ここの『荒野』はこうした明確でないものを意味していることは、イスラエルの子孫により表象されているところの、霊的な教会に属している者たちは、全般的には、信仰の諸真理については明確ではないのであり(2715、2716、2718、2831、2849、2935、2937、3833、4402、6289、6500、6865、6945、7233番)、それは特に彼らが取りつかれて悩まされ、試みられている状態から抜け出てくるときはそのことについては明確ではないためである。なぜなら取りつかれて悩まされている者たちは誤謬に取り囲まれて、風に吹かれる葦のようにも揺り動かされ、かくて疑惑から肯定的なものへ、肯定的なものから疑惑へと揺り動かされ、そのためこうした状態から新たに昇って来る時は、明確でない状態の中にいるが、しかしこの明確でない状態もその後徐々に明るくされるのである。取りつかれて悩まされつつある者たちにはこうした状態があるため、そのでイスラエルの子孫は、主が来られる前に霊的な教会の者たちが置かれていたそうした状態を表象するために、またその教会に属している者たちが現在その中に置かれていて、誤謬を剥奪されつつある状態を表象するために、その荒野へ連れて来られたのである。

 

 

 

黙示録講解730ロ

 

「荒野」は善が何ら存在していないため、真理が何ら存在していない教会を、従って悪が存在しているため、誤謬が存在している教会を意味している。

 

 

 

黙示録講解730ハ

 

「荒野」は諸真理を欠如した自然的な人を意味。真理に対する無知の状態は―その中に異教徒はおかれていたのであるが―「荒野」により意味され、真理に対する願望は「飢え」により、主により教えられることは「飼うこと(食べさすこと)」により意味されているため、主は荒野へ後退されて、そこで主を探した多くの者に教えられ、後に彼らに食を与えられるようになったのである。(このことが荒野に起こったことはマタイ14・13−22、15・32−38、マルコ6・31−34、8・1−9、ルカ9・12−17に見られることができよう)。なぜなら主がなされた凡ゆることは、また主に関連した凡ゆることは、相応したものであったため表象的なものであり、これらの事もまたそうしたものであったからである。これらのことと前に引用した記事から、以下のことは明白である。すなわち、「荒野」は人間における未開の、人の住んでいない状態を意味し、かくて霊的なものから未だ生命のあるものとされていない状態を意味し、従って、教会に適用された際に、諸真理により生かされていない状態を意味しており、かくてそれは異教徒が持っていたような宗教的な原理を意味しており、それは異教徒は真理が存在している聖言を持たず、かくて真理を教えられる主を知らなかったため、ほとんど空虚でうつろなものであり、彼らは真理を持たなかったため、その善もまた、真理が彼らのもとで在ったようなもの以外のものでは在り得なかったのである。なぜなら一方は他のものに属しているため、善はその真理に似ているからである。このことから異教徒が取り扱われている所では「荒野」が意味していることを認めることが出来よう。すなわち、真理は存在しないものの、彼らの善が生きたものとされ得るためにその真理に対する願望が在る所である。

 

 

 

黙示録講解730ニ

 

試練の中におかれている者らの状態を意味。

 

 

 

啓示による黙示録解説546

 

『荒野』により、聖言では、(1)主が降臨された時のユダヤ人の間に存在したような、荒廃した教会、または聖言の諸真理が凡て誤謬化されている教会が意味され、(2)主の時代の正しい異邦人たちの間に存在したような、聖言を持っていないため、真理が存在していない教会が意味され、(3)人間が悪霊どもに囲まれて、その悪霊どもが試練をもたらし、いわばその人間から真理を剥奪してしまうため、その人間が、いわば、真理を持たないでいる試練の状態が意味されている。

 

 

 

 

2.聖母から司祭へ

 

 

聖母から司祭へ1980.6.14

 

婦人がその避難所とした、あのかくれた所、沈黙にみちた所、数多い戦いと傷で荒れ野となった所とは、人の霊魂と心のことです。すなわち、私の愛する子らと汚れなき私の心に自分を奉献したすべての人の霊魂と心のことです。

 いま私は、この荒れ野のなかで、一番大きな不思議を行っています。その不思議は、沈黙のなかで、かくれて行われます。それは、完全に自分自身をわたしにまかせた子らの霊魂と生活を改めるという不思議です。こうして、まいにち、私は、かれらの砂漠を私の花園に変えて、花を咲かせるのです。

 

 

 

聖母から司祭へ/1989.5.6

 

それから、わたしは、「荒野に逃れた」のです(黙示録12・6)。

 わたしが自分のかり住いを定めたこの荒野とは、わたしを歓迎し、わたしのことばに耳をかし、完全にわたしに信頼し、わたしの汚れなき心に自分を奉献するすべての子らの心と魂のことです。

 わたしが今いるこの荒野の中で、今日わたしの最も大きな不思議を行います。この不思議をわたしのすべての小さな子らの心と魂の中、つまり、かれらの生活の中に行います。こうして、神のみことばを受け入れ、愛し、守るようにはげまし、いつも、ことばと行いのうちに、勇気をもってそのみことばを生きるように助け、信仰と愛の道をわたしのあとについてくるように導くのです。

 わたしが、沈黙とかくれた生活の中、つまり、わたしが住いとしている荒野の中で、わたしに奉献された子らが、今、福音を信じ、福音の知恵の導きにのみ従い、常に生きた福音となるように、わたしは力づよく働きかけます。わたしが、司祭のマリア運動をもって、全世界に養成してきた軍団のために準備された役割はこれです。すなわち、この時代において、神のみことばだけを愛をもって受け入れ、これを実行し、大鷲の二つの翼、つまり信仰と愛の翼に乗って、わたしといっしょに飛ぶことです。

 わたしが住いとしている荒野の中で、こん日行う数々の大きな不思議は、わたしの小さな子らの生活を完全に変化させるという不思議です。それは、かれらが勇敢な信仰のあかし人として、聖徳の輝かしい模範となるためです。

 こうして、沈黙とかくれた生活のうちに、わたしは、毎日、龍に対するわたしの大勝利を準備します。それは世界におけるわたしの汚れなき心の大勝利です。

 

 

 

 

3.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P196

‘88・4・20

 

私は 結ばれているあなたを 引きずりながらこの荒野を渡っている、過去のこと、今までどうであったか そして残されているものを、示しながら ♡ あなたを傷つけることのないように 私は茨を鋤き 棘を伐り落している、あなたに触れるなら、ずたずたに、引き裂くであろうから 子よ ♡ ともにいてあなたの道を切り開いている、限りなく愛しているので私たちの行く手で 茨に捕えられ 傷つき死ぬほど刺されてほしくない! 彼らが近づくだけで あなたを完全な苦しみに陥れるに十分であるのを知っている、このすべてが見え 我がヴァッスーラ 私の心は深く傷ついている、しかし 愛する者よ すべての犠牲はむなしくはならない ♡ ああ どのように愛するか 霊魂よ。 私を探し求める者は 本当に 私を見出す ♡ 叩きなさい そうすれば 本当に 戸を開ける、さあ 私の現存を思い出させよう ♡

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P49

‘88・10・11

 

この啓示が初まって以来 伝えているが、我が教会は廃墟と化し この廃墟のさ中にマムシが巣喰い その深みに居座っている、ああ ヴァッスーラ!!(*) 苦しい・・・ 私はやって来て 我が最も神聖な秘跡にからみつき はいずり回るへびどもを解いて 教会の外に放り出さねばならない、そして始めから教会を造り直さなければ・・・ 我が子よ、この荒涼とした荒野で暮らし それに囲まれているのは 本当に困難で 恐怖に満ちている、しかし私を愛し 愛をもって我が名を 礼拝する人びと皆のそばにいる。 私は限りない富であると

 *神は苦悩と痛みに満ちて、大声で叫ばれました。

我が天的わざを踏みにじる 全ての人に思い出させたい。 被造物が反逆に陥るのを見た時はいつもみことばを担う使者を送った。 反逆はあなたの住む地を 砂漠に変えてしまう ♡ 先祖たちも反逆したが、選ばれた天使たちに私が語り メッセージを託すのを疑う、あなたの世代ほど激しく疑いはしなかった ♡ 今日、我が子よ、教会には私を信じると主張しながら 聖霊によってあなたの時代に与えている 全ての我が神聖なわざを 拒む僕たちがいる! 自らの不毛により もう非とされており 審判の日には厳しく裁かれよう! この人びとは聖書に戻り 我が霊がどう働き 選ばれた者たちに与える賜物を 私がどう祝福するかを読むとよい(*)。 我が子よ、あなたと私、私とあなたは この荒野、合理主義によってもたらされた 死に至る荒野を渡っている、それは不信仰、愛の欠如、無差別、自己陶酔、虚栄と 聖霊から降る全てに対する 敵意の荒野でもある、彼らは聞こうとしない頑なな態度によって 非とされている、我が聖霊による御わざを拒む者は誰であっても 私を拒んでいる、聖霊と私は一つであり、同じであるからだ! ・・・この人びとは砂漠を押しひろめ そこには何も育たないように念を押す。 花を見ると、踏みにじり つぶしてしまうか、わざと無視して水を与えずに 枯れさせ 捨ててしまう・・・ 我が義の杯が溢れ出し 彼らはすでに 義の最初の雫を感じ始めている。 この人びと、特に仕えていながら、聖霊の御わざをまた拒む僕たちに、求めるのはただ一つ 光と さらに強い信仰が与えられるように 祈り、祈り、祈り求めること。来なさい我が子よ、我が聖なる現存を 常に思い出し 私を喜ばせなさい、

 

 *イエスは一コリント12・1−11を記すように言われました。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P147

‘89・3・27

 

イエス?

 

♡ 私です 愛する者よ、我が王国は到来する。 我が栄光のために あなたを用いさせなさい。 見捨てることはない、あなたの神 私から ときどきあなたの霊が遠く離れているように思えても、私に信頼しなさい、寄り頼みなさい 最愛の子よ、我が霊があなたのうちに十分 そして自由に息づくのを許しなさい、私のために償ってほしい 我が子よ 従順に 我が利益だけを求めて、いつも前にいる。 そこで隠れ場も、牧場もなく、不毛で乾燥した、この谷間を恐れずに渡りなさい、その陰気なさまは 霊魂をおびえさせているのは分かるが、砂漠を導く人を 渇いたまま放っておかない者として 私は知られている。 前を歩み渇いた風からあなたを 我が愛によって護り、みことばで養う。 あなたの歩む道を 平らにし、ころばないように 石や岩をすべて取り除き、それらを取り除いて あなたの道を切り開く、我が聖なる現存は あなたの敵でもある 私の敵を、遠くに、追払う、茨や棘が近づいて来たら、とり囲む天使たちが 急いで取り払い 火にくべる、私、あなたの贖い主は こうしたどの棘によっても あなたが引き裂かれるのを許さない 我が子よ。 最愛の者よ、私に寄り頼んでいなさい、私は(I Am)全能、私は(I Am)至高者、あなたに求めるのは愛だけ ♡ 愛し、愛しなさい、さあ 来て分かち合いなさい、私があなたの 喜びとなるように、ああ ヴァッスーラ、その子どもっぽい心で 私を愛し 慰めなさい、来て 私の頭を休ませてほしい、頭を休ませる台となりなさい、足台となりなさい、我が天国となるように、この死の谷を導くのを許してほしい、間もなくこの砂漠から連れ出し あなたの古郷でもある わたしの住まいに運ぶ 我が子よ、私と一つでありなさい、ああ 最愛の子よ、あなたの救い主を慰めてくれるか?

 

私のために驚くべき愛のわざを行って下さいます主に讃美。主よ、あなたの善良さはなんと偉大でしょう、人類すべてが見ている中で、それを畏れる者たちのためにとっておかれ、避難所とする者たちに与えられるのです!

主である救い主を喜び、歓喜せよ、徳のある人びと、心の正しい人はすべて、喜びの叫びを上げよ!

 

私は敵の仮面をすべて剥がし 我が息をもって 私への道をふさいでいるすべての者たちを吹き去る、我が聖なる顔を再び顕し この荒野を 清さ、聖性と完全さで覆う ♡ 愛と平和がともにいて あなた方のさ中に住まう、見たであろう? あなた方のさ中に住まうと言ったであろう? そしてあなたはまさに 私自身の者になると? ♡ 我が子よ、我が霊がいかに 自慢げな人びとを 忌み嫌うかを彼らに思い出させなさい、知恵は 身を低くする素朴な者たちに 与えられると ♡ 来なさい・・・