あまりに高次元

 

 

私の計画を理解するのは、私が招く人だけで、みんなに与えてはいません

世があなたがたを理解せず、受け入れなくても怖れないように

聖母を見る・理解する

 

 

 

1.グリニョン・ド・モンフォール

2.マリア・ワルトルタ

3.スウェーデンボルグ

 

 

 

 

1.グリニョン・ド・モンフォール

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳/

 

163.前に述べたブードンの本の中には、この信心を認可した諸教皇の名、この信心を詳細に検討した神学者たちの名、およびこの信心が受け、それにうち勝った迫害、この信心をおこなったいろいろな人物の名が列記されています。この信心を断罪した教皇は、一人もいません。そんなことでもしたら、キリスト教の根底をゆさぶることになる、と考えたからでしょう。

 そんなわけで、この信心がけっして新奇なもの、新発売でないことが、以上の説明で、おわかりになったと思います。では、この信心は、なぜ大衆化されないのでしょうか。それは、すべての人に賞味され実行されるには、この信心があまりに貴重、あまりに高次元だからです。

 

 

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳/

 

106.マリアへのまことの信心の第一の特長は、それが内面的だということです。すなわち、この信心は、精神と心から、でてくるのです。マリアについていだいている尊敬の念から、マリアへの偉大さについての高度の認識から、マリアへの熱く優しい愛から、発生しているのです。

 

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳/

 

118.何はさておき、わたしは声を高めて、次のように宣言する者です。わたしは、マリアへの信心を論じている本は、ほとんどみな読みました。今日の世界で、学徳ともに優秀な、いろんな人物とも親しくつき合い、かれらの言いぶんも聞きました。だが、そのあと、わたしが現在、実感としてもっていることは、マリアへの信心業のうち、わたしがこれから公開しようとしている信心業に比肩するものは、今のところ、知ってもいないし、聞いてもいない、ということです。

わたしが、これから述べようとしているマリアへの信心は、ざいらいの信心にくらべて、神のため、霊魂からもっと多くのギセイを要求します。霊魂を自分自身から、また自愛心から、もっと空虚にし、浄化します。

霊魂を恩寵のうちに、また、恩寵を霊魂のうちに、もっと忠実に安全に保ってくれます。

霊魂をもっと完全に、もっと容易に、イエズス・キリストと一致させてくれます。

さいごに、神にとってはもっと栄光となり、霊魂にとってはもっと聖化能力を発揮し、隣人にとってはもっと有益となるのです。

 

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳/

 

119.この信心は、その精ずいがもともと、霊魂の内面に存するのですから、すべての人が、おなじように理解できる性質のものではありません。ある人たちは、この信心の外郭でストップし、それ以上の進歩は望めないでしょう。そして大部分の人がこの部類でしょう。ごく少数の人が、内面にまで立ち入ることができましょうが、そこから信心の段階を、ただ一段しか登れないでしょう。

二段まで登れる人がいましょうか。

さらに三段まで登れる人がいましょうか。さいごに、そこで、信心の状態にふみとどまっておれる人がいましょうか。いるとしたら、それは、イエズス・キリストの聖霊から、この新しい信心のヒミツをおしえていただいた霊魂だけなのです。聖霊は、ごじしんで、この忠実な霊魂を、信心の状態へとお導きになるのです。こうした中で、この霊魂は、徳から徳へ、恩寵から恩寵へ、光から光へと、向上進歩し、ついには自分の全存在をあげてイエズス・キリストに変容し、聖性においてはすでにこの世で、キリストの背たけに達し、のちの世では、キリストの栄光の度合いに達するのです。

 

 

 

 

2.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P87

 

マリアの胎内! マリアの心臓! いいや。神にもっとも心を奪われた頭脳といえども、純粋と愛のこの二つの完全さの奥底に降りることは出来ず、頂点にまで登ることは出来ない。わたしはわたしの親しい人々の中でも最も親しい人々のためにマリアの胎内と心臓とを照らす。ただしあなたたちは、完全な学問のあるところに至った時はじめて、マリアを理解するだろう。

 

 

 

3.スウェーデンボルグ

 

 

天界と地獄35

 

この区別のため、一つの天界の天使は他の天界の天使たちの間に来ることは出来ない。即ち、たれも低い天界から昇ることは出来ず、またたれも高い天界から降ることも出来ない。たれでも低い天界から昇る者は不安におそわれて、苦しみさえもし、その近づいて行く者たちを見ることは出来ず、ましてその者たちと話すことは出来ない。またたれでも高い天界から降る者はその知恵を奪われ、言葉がもつれ、絶望してしまう。天界は天使たちの内部にあることを未だ教えられていないで、高い天使たちの天界へ入りさえするならば、高い天界の幸福の中へ入るであろうと信じていたところの最低の天界から来ている若干の者が彼らの間に入ることを許された。しかしそのとき彼らは、いかほど探してみても、非常に多くの者が[彼らのまわりに]いたにも拘らず、その誰一人も見なかったのである。なぜならその外来者たちの内部はそこにいる天使たちの内部と同じ度に開かれておらず、従って彼らの視覚も開かれていなかったからである。まもなく彼らは自分たちは生きているのか、いないのか、殆ど分からないほどの心の苦悶に襲われた。それでも彼らは大急ぎでその後にしてきた天界へ、自分たちに似た者たちの間へ再び来たことを喜び、自分たちの生命に和合した物以上の物を自分たちは今後決して求めはしないと約束したのである。私はまた若干の者が高い天界から降ろされて、その知恵を奪われ、遂には自分自身の天界のいかようなものであるかが分らなくなってしまったのを見たのである。しばしば行なわれることではあるが、主が低い天界から天使たちを引き上げられて、高い天界へ入れられ、これにそこの栄光を見させられるときは、こうしたことは起こらない。なぜならそのときは彼らは先ず準備をして、中間の天使たちにつきそわれ、その天使たちを通して、その仲間となる者たちと連なるからである。これらの事からその三つの天界は相互に極めて明確に区別されていることが明らかである。