トマス
わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。(ヨハネ20・29)/
1.聖書
2.マリア・ワルトルタ
3.感覚的人間
1.聖書
ヨハネ11・16
すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。
ヨハネ14・1−6
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
ヨハネ20・24−29
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
2.マリア・ワルトルタ
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩 下/P269
平和を愛する陽気なトマが口を切った。
マリア・ワルトルタ/神に出会った人々1巻/P67
「それと、あなたはどなたですか」と、もう一人の見知らぬ人に声をかける。
「あなたをお見かけしたもう一人です。私はあなたと一緒にいたい。だけど、いまは怖い」
「いえ、思い上がりは滅びのもとです。恐れは妨げになり得るが、謙遜からのものなら助けとなります。恐れることはない。あなたもよく考えなさい。そして、今度戻るとき・・・」
「先生。これほどまでに聖なるあなたに、私はふさわしくないし、怖い。それだけです。なぜなら、私の愛には少しのためらいもないから・・・」
「名前は何と言いますか」
「ディディモと呼ばれるトマです」
「あなたの名前は忘れません。安心して、平和に行きなさい」
イエズスは二人(イスカリオテのユダとトマのこと)に分かれを告げ、客人となっている家に夕食をとるために入る。イエズスと一緒にいた六人がいろいろなことを知りたがる。
「どうして? 先生。あの二人を別々の評価をしたのですか」
「確かに評価が違う。二人とも同じ衝動にかられていたのに・・・」とヨハネが不思議がる。
「友よ、動機は同じでも中身が違うことがあり得るし、違う結果をもたらすことがあります。確かに、二人は同じ衝動にかられたけれど、目的は違います。完全さにほど遠いと見える方がもっとよろしい。その人には人間的な望みによる衝動がないから。私をただ愛しているから愛しているのです」
(中略)
マリア・ワルトルタ/神に出会った人々1巻/P71
だれかが戸をたたいている。
またトマが現れ、入ってきてイエズスの足元にひれ伏す。
「先生・・・私は、あなたがお帰りになるときまで待ちきれない。あなたと一緒にいさせてください。私は欠点だらけの人間ですが、この愛は私の大きな唯一の宝です。これは、あなたのもの、あなたのためのものです。先生・・・」
イエズスはトマの頭に手を置く。
「では、ディディモ、残りなさい。そして、私について来なさい。根気強く真実の望みを持っている人は幸せです。おまえたちのような人、祝福されますように。私にとって、おまえたちは親戚以上のものです。いつか滅びる血縁によってではなく、神のおぼしめしとおまえたちの霊的な望みとによって、私の子らと兄弟であるからです。私にとって、御父のおぼしめしを果す人より近い親戚はない。おまえたちは善いことを選んだから」
ヴィジョンは、このようにして終わる。
マリア・ワルトルタ/神に出会った人々1巻/P82
「私(トマ)はその障害も乗り越えました。父は私のことばを聞いて十分理解してくれ、私に祝福を与えてこういいました。
『さあ、行きなさい。おまえにとってこの過越祭が、メシアへの期待の束縛を断ち切るものであるように。信じられるおまえは幸せです。私は待ちます。しかし、本当に“彼”だったら―イエズスについて行けば分かるでしょうが―あなたの年老いた父のもとへ戻り“おいで、イスラエルに期待された者が現れた”と伝えなさい』
「あなたは私(ユダ・タデオ)よりも運がいい。私たちはすぐそばで暮らしたのに!・・・身内の私たちが信じない!・・・その上、“あいつは気が狂った”と言っています。むしろ、家族がそう言うのです」
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々P178
使徒たちも奉殿記念祭(光の祭りとも言われていた)が近づくと、興奮しておしゃべりになり、何年も前の祝いを楽しそうに思い出し、感傷に浸っている。ヨハネ(・・使徒ヨハネではない)の家では灯りが少ない。トマは灯りを取りに、ラマまで走って行く。そこには灯りが余るほどある。
363/ラマのトマの姉妹の家にて。狭い門の話とエルサレムへの呼びかけ。 マタイ7・13−14 ルカ13・22−35
1945年12月17日
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/5巻下/P233/363.1
トマは、一行の一番後ろにいて、マンナエン、バルトロマイと話をしていたが、彼らから離れて、前の方に行き、マルグツィアムやイサクといたイエズスに追いつく。「先生、もうしばらくすると、ラマの近くです。私の姉妹の赤ん坊を祝福してやっていただけませんか? とても先生に会いたがっていました! そちらで全員泊まれます。どうぞ、私を満足させてください、先生!」
「喜んで、そうすることにしよう。これで、明日、エルサレムに入って、ゆっくり休めるでしょう」。
「ああ、それでは、私は先に行って知らせます。行ってもよいでしょうか? 」
「ええ、行きなさい。しかし、私が世の友ではないことを忘れないように。あなたの親類の人々に、多くの出費を強いることがないようにしなさい。私を『先生』として扱ってください。分かりましたか? 」
「はい、先生。そう言います。マルグツィアム、私と一緒に来ますか? 」
「イエズスがよければ・・・。」
「行きなさい、息子よ」。
(中略)
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/5巻下/P234/363.2
トマは、待ちきれない様子で、喜びにあふれた顔を紅潮させて村の入口で待っている。イエズスを出迎えるため駆けよって来る。「何と幸せなことでしょう、先生! 家族が皆ここにいます。父はとても先生に会いたがっていますし、母や兄弟もそうです。私はとてもうれしいです! 」。イエズスの傍で、胸を張って村を横切って行く様子は、征服者が凱旋するようである。
トマの姉妹の家は、町の東側の十字路にある。イスラエルの裕福な家の典型的な作りである。窓が少なく、玄関の扉は鉄製で、のぞき穴がついており、屋根はテラスになっていて、庭を取り囲む高い黒っぽい色の壁が家の後ろにも張り巡らされ、背の高い果樹が壁越しに見える。
しかし今日は、召使ものぞき穴から見る必要はない。玄関の扉は開け放たれ、家の住人は全員ホールにいる。大人たちは知らせに興奮して動き回る男の子や女の子を捕まえるのに忙しい。子供たちは、列や家族の序列を乱して前に行きたがる。一番前の名誉ある位置は、トマの両親と姉妹とその夫のためである。
けれども、イエズスが入り口に現れた時、誰もいたずらっ子たちを制することができない。夜の間にゆっくり休んで、巣からでてきた雛のようだ。イエズスは、この優しく、にぎやかな子供たちの一群を迎える。彼らは、膝に体を寄せたり、イエズスを抱きしめたり、接吻を求めて顔を近づけたりする。父親や母親の呼び声や、トマが制止しようと軽く叩いたりしているにもかかわらず、イエズスから離れない。
「いいから! いいから! 世が全てこうであればいいのに! 」イエズスは叫び、活発な子供たちを満足させるため体を屈める。
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/5巻下/P235/363.3
ようやく中に入ることができ、大人たちの敬愛がこもった挨拶を受ける。私が特に好ましいと思ったのは、トマの父の挨拶である。典型的なユダヤの老人で、跪いていたのを、接吻をしようとしたイエズスに抱き起こされる。「私に一人の使徒を差し出してくださった寛大さに感謝いたします」。
「おお! 神はイスラエルで、ほかの誰よりも私を愛してくださった。なぜなら、どのユダヤ人も、最初に生まれた一人の息子を捧げたのに対して、私は、二人の息子、最初と最後の息子を捧げたからです。最後の息子は、さらに聖化されました。なぜなら、レビ人でも祭司でもありませんが、最高位の祭司でもしないことをするからです。つまり彼は、常に神を見て、神の命令を受けるからです! 」
年のせいで声が震えているが、感情が高ぶり更に声を震わせて言う。「どうぞ、私の心を安らかにするために、一つのことだけ教えてください。あなたは嘘をつかない人ですから、言ってください。この私の息子は、あなたに従っていて、お役に立っているでしょうか、そして、永遠の命を得る資格があるでしょうか? 」
「安心なさい。父よ。あなたのトマは、神に仕えるその振る舞いにおいて、神の心の中で大きな位置を占めています。そして、最後の息の瞬間まで神に奉仕するでしょうから、天国で大きな場所を得るでしょう」。
トマは、その言葉を聞いて、ひどく感動し、水から出た魚のように口をパクパクさせている。
老人は、震える両手を上げ、ふた筋の涙が、深く刻まれた顔の皺を伝って流れ、長いあごひげの中に消える。彼は言う。「ヤコブの祝福が、あなたに下りますように。家父長の祝福が、息子たちの中の義人に下りますように。全能の神が、あなたを高き天の恵みと、低きに横たわる深みの恵みと、乳房と母の胎の恵みをもって祝福されますように。あなたの父の祝福は、その父たちの祝福に勝り、永遠の丘の願いが来るまで、トマの頭上に、兄弟の中から選ばれたナザレ人の頭上にありますように! 」
皆が答える。「アーメン」。
「先生、今度は、私の家、特に私の血を受け継いでいる子らを祝福してください」、老人は子供たちを指して言う。
イエズスは腕を広げて、大声でモーセの祝福を唱え、付け加える、「神よ、祖先たちはあなたの御前で歩みました、子供の時からこの日まで、私を育ててくださった神よ、私を全ての悪から解放してくれた天使が、この子供たちを祝福してくれますように。彼らが、私の名前、祖先の名前を受け継いで、地上で豊かに増えますように」。そして母親の腕から、一番、最後に生まれた赤子を抱きあげ、額に接吻をして言い終える。「あなたが名前をもらった義人の高い徳の数々が、あなたにバターや蜂蜜のように降り注がれ、あなたの名を天に相応しいものにし、黄金色の実を付けたナツメヤシや立派な葉で覆われたスギのように飾られますように」。
誰もが心を動かされ、法悦の状態である。皆の口から発せられた喜びの声はイエズスが家の中に入る間も止まず、ようやく静かになるのは中庭に入ってからで、そこでイエズスは、母、女弟子、使徒、弟子たちを紹介する。
(中略)
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/5巻下/P238/363.5
ナザレのイエズスがこの村に滞在しているという知らせが広がり、ラマの住民は皆、道に出て来ているが、恐れて近づかない。
イエズスは、気づいてトマに言う。「どうして近くに来ないのでしょう? 私が怖いのでしょうか? 私が彼らを愛していると伝えてください」。
おお! トマは、イエズスに二度も言わせない。一つの群れから別の群れへと、あたかも花から花へ飛ぶ大きな蝶のように素早く動く。トマの言葉を聞いた人々も二度も言わせず、走って他の者にも伝え、イエズスの周りに集まって来る。そこで、トマの家がある十字路に着いた時には、かなり人が集まって、うやうやしく話していて、使徒やトマの家族にあれやこれや質問する。
トマは冬の間、よく働いたらしい。多くの福音を村人たちはすでに知っている。けれども、更なる説明を聞きたがり、イエズスが、もてなされている家の子供たちに与えた祝福や、トマの言葉から強い印象を受けた一人が尋ねる。「あなたに祝福を受けると、全ての人が義人になるのでしょうか?」。
「いいえ、義人となるのは、祝福によるのではありません。その人の振る舞いによります。私の祝福は彼らの振る舞いを補強するものです。振舞うのは彼らであり、正しい振る舞いをする者だけが天国に行けるのです。私は誰にも祝福を与えます・・・しかし、イスラエルの全ての人が救われるわけではありません」。
「それどころか、今のままなら、救われるのはほんの僅かの人だけです」、トマがこぼす。
「本当のことを言っているのです。キリストを迫害し中傷する者、教えられたことを実践しない者は、彼の王国の一員にはなれません」、力強い声でトマが言う。
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/5巻下/P239/363.6
一人が、トマの服の袖をひっぱり、イエズスを指さして尋ねる。「とても厳しい人ですか?」
「いいえ、それどころかとても優しい人です」。
「私は救われると思いますか? 私は弟子ではありません。しかし、私がどのような人間が、あなたは知っているし、あなたが言ったことを、私がいつも信じてきたことも知っています。けれども、それ以上、何をしたらいいのか分かりません。確実に救われるためには、今行っていることのほかに、何をすべきなのでしょうか? 」
「先生に、尋ねなさい。彼の判断は、私よりももっと真実で、もっと温かいでしょうよ」。
この男が前に出て来て、言う。「先生、私は律法を守り、トマから、繰り返し先生の言葉を聞いてからは、一層法を守るようにしてきました。しかし私は、そんなに寛容ではありません。果すべきことは果します。地獄が怖いので、してはならないことはしないようにしています。けれども、安楽に暮すのが好きなのです。告白しますと、罪を犯さないように振る舞いはしますが、自分自身、さほど努力しているわけではありません。このような具合でいて、私は救われるのでしょうか? 」
「救われるでしょう。けれども善良な神はあなたにとても寛容なのに、あなたはそうではないのですか? 聖性を得れば、すぐに永遠の平安を与えられるのに、大いなる聖性を得たいとは思わないのですか? さあ、どうか自身の魂に寛大になってください! 」。
男は慎ましく言う、「考えてみます、先生。先生のおっしゃる通りだと思います。平安を得る前に、私の魂に長い清めをさせます」。
「結構です。その考えは、もう完徳への第一歩です」。
天界と地獄461
死後の人間の状態はこのようなものであることは、感覚的な人間は把握しないため、それを全く信じることは出来ない、なぜなら感覚的な人間は霊的な事柄についてさえも自然的にしか考えることが出来ないからである、それで彼がその感覚で認めないものは、即ちトマスについて記されているように(ヨハネ20・25、27、29)、その肉眼で見、その手で触れないものは、存在しないと彼は言うのである。感覚的な人間のいかようなものであるかは前に見ることが出来よう(267と注)。